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2006/05/07

毛沢東の『夢』がもたらした地獄

近代社会主義国家の萌芽は、1871年3月26日に、フランスのパリで誕生したパリ・コミューン(Paris Commune)に見ることができる。パリ・コミューンは、民衆の蜂起によって実現した世界初の者・大衆の自治による革命国家(政権)であった。
カール・マルクス(1818年~83年)は、このパリ・コミューンに、革命の過渡期における政治形態の端緒を見出し、社会主義社会に至る過程でのプロレタリア(者)独裁の必要性を再認識した。

旧・ソ連の『ソ』は、ソビエト(評議会)の略である。ソビエトは、者・農民・兵士などによって構成される統治機関であり、ロシア革命後の国家は、このソビエトによって統治されるとされた。ソビエトの原型もパリ・コミューンである。
が、実態は共産党による独裁にすぎなかった。

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1949年、中国革命を成し遂げた毛沢東は、共産主義の『夢』に向かって走り始める。1958年、毛は全国に人民公社を誕生させる。
人民公社は、者、農民、兵士、学生によって構成され、農業生産の他、行政、
経済、軍事、教育、医療など、統治機関としてのすべてを担った。
これも、パリ・コミューン→ソビエトの流れに連なる、者・大衆による社会・国家の
統治を目指すものであった。
毛沢東の念願であった人民公社による農村の共産化が進められる中で、「共産主義は天国だ。人民公社はその掛け橋だ」というスローガンが、1958年以降、中国全土に響き渡った。

人民公社は2千から2万戸を一つの単位として作られ、その中で人々は田畑や森林、
家畜、農機具などすべの私有財産を提供し、共有化する。自宅での食事は禁止され、農民は農作業が終わると、公共食堂で食事をとる。
収穫はすべて人民公社のものとされるので、誰も農作業の能率など気にしない。そして食べたいだけ食べるので、食料備蓄はまたたく間に底をついた。

人民公社の実態はソ連におけるソビエト(評議会)と同じで、地方の共産党官僚の支配下におかれていた。共産党官僚は、毛沢東の歓心を買おうと、食糧増産の大ボラ吹き競争を始める。

ある公社が、今まで1畝(6.7アール)あたり200斤(100kg)程度しか小麦がとれなかったのに、2105斤(約1000kg)もの増産に成功したとのニュースを人民日報で流した。
毛沢東が提唱した畑に隙間なくびっしりと作物を植える『密植』により、出来高が10倍にもなったというのである。
すると、他の公社も負けじと、水稲7000斤、1万斤などという数字を発表し始めた。8月には湖北省麻城県で、1畝あたり稲の生産高3万6956斤というニュースが報道された時、人民日報は4人の子供が密植された稲穂の上に立っている写真まで掲載した。

これらは完全なでっちあげであった。農民に徹夜作業で何畝かの田畑の稲や麦を1畝に移し変えさせたものだ。しかもこれだけ密植すると、風が通らずに蒸れて、すぐに作物がだめになってしまう。そこで、農民は四六時中、風を送っていなければならなかった。

出来高の水増し報告により、上納すべき量が増やされ、農民たち自身の食料はさらに減らされた。

こうして、人民公社化による生産効率の大幅な低下、さらには水増しによる上納分の
増加などにより食糧備蓄が底をつき、1960年から61年にかけて中国全土を猛烈な飢饉が襲うのである。

一方において、地方からの水増しされた食糧増産報告に基づいて、飢饉が始まった60年にも270万トンの食料が無理やり徴発され、輸出に回されていた。これは3千万人が半年間食いつなぐのに十分な量だった。

このような状況下において毛沢東は、人民公社を拠りどころにして『大躍進運動』を大々的に展開していた。
この『大躍進運動』の核ともいえた『全人民製鉄・製鋼運動』も飢饉に拍車をかけた。
農村にも鉄鋼生産のノルマが課されたので、農耕作業は二の次にされたからである。

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1957年、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、ソ連が15年以内に鉄鋼、石油などの
生産高の面でアメリカを上回るだろうと宣言した。当時モスクワに滞在していた毛沢東は、兄貴分であるソ連の後に続いて、中国は15年以内にイギリスを追い越すだろうと
語った。この発言は、世界各国共産党首脳たちの熱烈な拍手を浴び、中国国内でも
盛んに宣伝された。

毛沢東は、1957年に約535万トンであった中国の鉄鋼生産高を翌年には倍の1070万トンにするよう命じた。ここから『全人民製鉄・製鋼運動』が展開されることになった。
が、本格的な製鉄コンビナートを作るだけの資本も、時間もない。いらだった毛沢東は、産業革命以前の『土法炉』を全国 に展開し、人海戦術で鉄鋼生産を行うことを命じた。

しかし、素人が薪をくべて作った鉄は、農機具用にすらならなかった。6000万人の力を投入して、308万トンの何の役にも立たない『牛の糞』のような鉄が作られたのである。

無駄になったのは、膨大な力だけではない。『土法炉』の燃料として、大量の石炭が使われた。そのために、逆に正規の製鉄所が燃料不足に陥り、操業停止に追い込まれる所が出てきた。

さらに石炭を買えない農民は、樹木を伐採して製鉄の燃料にした。。『全人民製鉄・製鋼運動』は、たちまち『全人民樹木伐採運動』へと転化した。この環境破壊は、その後、数十年にわたって悪影響を残す。

農民たちの鉄鋼増産運動への動員は、食糧不足にさらに拍車をかけた。

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このような毛沢東の愚かなやり方に対して、中には諫言する幹部もいた。その代表が、国防部部長だった彭徳懐元帥である。が、彭元帥は、『右翼日和見主義者』というレッテルを貼られて失脚する。

毛沢東は彭元帥を失脚させた後も、さらに大々的な反右派闘争を展開した。農民や
人民公社の幹部・役人で、少しでも政策に不平不満をもらすものは、どしどし摘発された。その総数は中国全土で1000万人にのぼったと鄧小平は述べている。

彭元帥の批判に耳を貸さず、強引な人民公社化や無謀な鉄鋼増産運動を強行した
結果、前述したように1960年~61年に、猛烈な飢饉が中国全土を襲った。
中国全土での餓死者は、2~3千万人と言われている。55年から58年までの平均人口増加率2.29%を適用すると、61年末の人口は7億632万人になるはずなのに、実際にはそれより4千638万人少なかった。このうち、飢饉による出生率低下が2千128万人あり、これを引くと、2千510万人が餓死で失われたと推定される。

毛沢東の『大躍進運動』によって、中国人民は近代史上、最大規模の大量餓死に駆られたのである。
そして中国と中国人民が、2~3千万人の餓死者と引き換えに得たものは、308万トンの何の役にも立たない『牛の糞』のような鉄と膨大な面積に及ぶ森林の喪失であった。

参照記事:2千万人餓死への「大躍進」

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以下は、広東省の週刊紙で、中国メディアの良心とも呼ばれる週刊紙『南方週末』に
掲載された最近のニュースである。
『大躍進』の下で被った中国人民の悲劇が、どのようなものであったのか、その一端がうかがい知れる。


Daiyakusin
















1960年頃、無錫市の福祉施設で働いていた陳素英さんは一夜の内に施設が捨て子で一杯になったことを想い出す。

施設の周囲には毎日捨て子が置かれていた。公安や住民委員会からも捨て子を預けに来た。
これは勿論無錫だけではなかった。紅蘇省浙江省一帯の施設が何処も捨て子で満員になり、人口が激増した。捨て子の場所は次第に上海に向かい、上海市でも施設は
すぐに満員になった。

当時11歳の呂順芳さんは4人家族で父は遠くの採石場へ出稼ぎに行っていた。
1960年の春、農家は何処も食べるものが無くなった。
人民公社から配給される籾米は50グラム。それを糊のようにして4人が食べた。下の妹は2歳。ひもじさの原因を全く理解出来ない歳だった。母の嘆きを見て呂さんと弟の2人は「私達は上海に行きますよ。あそこにはきっと食べるものが有るよ。大きくなったら
戻ってきます」と言い出した。
母は唯嘆くばかり。2人の子供を連れて遠い上海へ2人の子供を連れて行った。別れ際に母は小さな餅を子供に買い与えて田舎へ戻った。
しばらくして帰宅した父は子供が居ないのを知って激怒した。だが、食事の様子を見て父も納得した。お椀に入れるものは草を煮た糊のようなものだけだった。少し前には
“抗米援朝鮮”で闘った父もまるで子供のように泣くだけだった。

1959年の末、上海・無錫・常州などでの10カ所の孤児院に捨てられた子供は3000名を超していた。その翌年初めには6500名に膨れた。どの子も栄養不足だった。

農村では上海に行けば食べ物があると思われていたが、しかしやがてそこでも食料が欠乏した。1960年6月6日の中央政府の記録では、北京では食料準備は7日分、天津は10日分、上海では数日しか貯蓄がなかった。

上海市もこれ以上捨て子を受け入れることが出来なくなった。当時の全国夫人連絡会議の議長は“康克清”氏だった。彼は周恩来に面会を求め、内モンゴルから粉ミルクを支給して貰いたいと要求した。
周恩来が内モンゴルのウランフという担当者と話をし、捨て子を内モンゴルに送り、
牧畜の世話をさせて養おう、と言うことになった。
周恩来は「緊急の時だ。詳細は後から決めよう」ということで、すぐに子供達を送り届ける手段に移った。
内モンゴルは全家庭調査を行い、保育施設や各家庭の引き受け先などを決めた。
1960年から63年にかけて上海から送り出された子供は3000名に上る。
1960年だけで2000名が運ばれ、一つの施設で200名が収容された。一つの施設で
養育費用は150万元程必要であった。

最初に運ばれたのは1960年の4月。無錫から100名の孤児を預かって呉全英さんは
お腹の膨れる餅の袋を背負って汽車に乗った。
内モンゴルまで4~5日掛かった。100名の子供のおむつが大問題であった。列車の
通路にはオムツがずらっと並んで干されていた。内モンゴルから来た世話役にとって
言葉も大問題だった。浙江省方面の方言は全く理解できなかった。泣いているのが
空腹なのか喉が渇いているのかも解らず、列車中が泣き声で埋まった。

内モンゴルでは大切に育てられたが、子供達の皮膚の色が白いので現地では苦労したようだ。その色が黒くならないように“レイシ”という高価な薬品を与えたりしている。
中には現地の大きな家庭に貰われて恵まれた環境にいた子供もいる。

1963年になると山東省、河南省、河北省、山西省、陜西省などの多くの場所から北へ北へと子供達が運ばれた。
だが現在40年経っているので、その数などの実数は全く分からない。
無錫の呉全英さんも何人の捨て子を送り出したか、記憶に無いという。
1964年になって徐々に食糧事情が改善され、北へ送られる孤児は減っていった。
当時は出来るだけ多くの孤児を北へ送ることだけを考えていたという。
そして40年が経った。今あの子供達が帰れる頃だ。

北へ北へ (2006/03/30 南方週末 曹鈞武)

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コメント

 毛沢東は莫大な数の自国民をなんと悲惨なめにあわせたのだろう。毛沢東の失政というか、それ以前の問題だ。まるで政治になってない。こういうエピソードを知ると、官僚制度の大切さを身にしみて感じます。もし、官僚制を残したまま革命政権を樹立していたら、ここまで悲惨な結果にはならなかったでしょう。しかし、共産党による革命は、すべてを否定するので、多かれ少なかれこのような経過をたどるのではないでしょうか。
 それにしても、左翼はこのような革命をめざして人殺しまでしていたのかと思うと、共産主義は思想というより、宗教なのだなあとつくづく感じます。

投稿: プライム | 2006/05/07 20:08

共産は人々から自立を奪う。自立した個人や家庭の集合である国家とは全く相容れないものです。
自立した人々や体制に寄生し、食いつぶすしかない共産。

投稿: MultiSync | 2006/05/07 21:31

毛沢東思想って、かつてのカンボジアもそうでしたが、世界の貧しい農業国に、いまだに信奉する人たちがいますね?中共が支援しているのかどうかわかりませんが、最近、騒ぎになっているネパールでも共産党は毛沢東思想ですね?宗教は民衆のアヘンとマルクスは言いましたが、毛沢東思想は貧者のアヘンみたいです。今は、マオイスト=テロリストという感じですが。

大躍進運動の「桶」みたいなところで鉄を溶かしてかき混ぜてるの、映像で見たことあります。あまりに哀れな光景でした。その先に地獄が待っているともしらず、嬉々として「労働」にいそしむ人たち。。。

いまだにお札に肖像が刷られていますものね。あの肖像がなくなる日が来れば、人々は自由になっているでしょうか。

投稿: ゆみこ | 2006/05/08 00:59

>中国革命を成し遂げた毛沢東は、共産主義の『夢』に向かって走り始める。

毛沢東が追いかけた共産主義の「夢」というか、幻想が農民層等多くの中国人民にもたらしたのは「希望から失望へ、さらに失望から絶望へまっしぐらという耐え難い現実です」よね・・・その毛沢東を英雄と崇める中国共産党独裁政権の指導部が「正しい歴史認識をもて!」と日本を恫喝する様はまさにお笑いの類です・・・まぁ、中共がアジアの民主体制化の最大の障害になっていることだけは間違いないです。
http://www.epochtimes.jp/jp/2006/05/html/d32450.html
このような国がいまなお国連の常任理事国としてのさばっているとは・・・・

投稿: 疑問符 | 2006/05/08 01:28

中共の政治家にとって政治局の中から失脚しないことが最優先事項で無名の中国人民の事は、暴動などの政治不安定をもたらさなければどうでもいい事だと思っている。
暴動だって原因を調査してその原因を正すという対策を打つのではなく、基本的には強圧的に武力で押さえ込むことになります。
共産党一党独裁が最も悲惨な実例を伴って地上に存在しているのが毛沢東の時代から連綿と繋がっている中共の姿だと思います。

投稿: yuki | 2006/05/08 05:34

誤った歴史認識を持たないように2点、言いたい。

歴史の発展過程は資本主義→共産主義ではなく、
国民があまりに貧しい場合は共産主義→資本主義へと移行する
とどこかで聞いたことがあります。
人々が自由独立を求めれば当然、そうなるでしょう。
私もその通りだと思います。

それから、近頃のTVなどではソビエト崩壊により冷戦は終結
したと云っていることがある。
冷戦の残滓が北朝鮮問題であり、その元凶は中国だ。
よって冷戦はまだ終わっていない。
アメリカはそう捉えていると考える。

共産主義が崩壊するまで、東アジアではまだまだ冷戦が続いて
いるのです。

投稿: はやおき | 2006/05/08 06:26

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