妄執の虜―加藤紘一
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中国はジャーナリストにとって世界最大の監獄 国境なき記者団
私は昨日、中国公安省(警察)幹部が――有機リン系農薬成分メタミドホスは包装の外側から染み込むという実験結果を公表。中国内で冷凍ギョーザにメタミドホスが混入した可能性は「極めて低い」と述べ、明言は避けたが、日本国内で混入したとの見方を強く示唆した――ことを激しく非難した。
この中国側の対応については、日本の当局幹部も強く反発している。
警察庁の吉村博人長官は、28日の記者会見で、中国側が「証拠要求に日本側が応ぜず説明もしないのは遺憾」とした点について「メタミドホスの分析結果や流通経路に関する資料など捜査に役立つものはすべて渡しており、遺憾とは理解できない」と反論。「日本側は浸透しないとする実験結果を提供した。(中国側にも)科学的なデータをいただきたい」とした。
また、泉信也国家公安委員長は29日の閣議後記者会見で、「信頼関係の上に捜査状況を交換してきた中で、理解し難い対応。警察当局は事実に基づき解明していくべきで、政治的配慮はかかわるべきではない」と不快感を示した。(時事通信)
ところが、この、傲岸不遜のかたまりのような中共、反省するどころか、今度はとんでもない世論操作をやっている。
昨日(28日)、国家品質監督検査検疫総局の魏伝忠副総局長が記者会見で、「日本人記者が2月15日、農薬メタミドホスを購入し、持ち出そうとしたため、地元の警察に摘発された」と発表した。
共同通信によれば、共同通信中国総局の記者は、発売禁止のはずの農薬が入手可能かどうかを確認するためにメタミドホスを河北省で購入したのだという。
ところが、魏局長の発表を受けて、新華社ネット版を始めとする中国のネットメディアは「毒が入れられたのは日本国内 日本人記者が取り調べを受ける」との見出しで、「日本人記者が農薬を日本へ持ちだそうとしたため逮捕された」と誤解を与えるような記事を掲載した。
で、中国の各ネット掲示板には日本を非難する書き込みが殺到。「河北省の警察はよくやった。ついにホシを挙げた」「毒ギョーザ事件は最初から日本人の自作自演だと思っていた」「日本人記者の動機と手口を含めて、徹底した真相究明を求める」といった内容がほとんどで、中国人の多くが「事件は解決した」と決めつけている。(参照:産経新聞)
もう、あきれて何も言う気がなくなった。
この厚顔無恥な中国には、以下のニュースを捧げる。
中国製ギョーザ中毒事件を受け、北海道、東北、関東地方の19都道県で展開する生協4団体が中国製加工食品のカタログ販売を原則中止したり、中止する方針を決めたりしていることが28日、分かった。日本生活協同組合連合会が中国の工場を調査中で、各団体はその結果などを見て中止期間を判断する。(中日新聞:抜粋)
中日新聞の記事は「各団体はその結果などを見て中止期間を判断する」と書いているが、中止の理由が「消費者に不安を訴える声が多く」ということであるから、今の状況では「無期限販売中止」だろう。
中止は、カタログ販売だけではない。讀賣新聞によれば――生協の一部店舗は、中国製加工食品の撤去や国内産商品への置き換えを始めている。共同購入の商品については、3月末に国内産などに変更する――という。
JTを始めとする輸入や販売にかかわった業者も「原因究明されないと輸入再開はできない」としている。
つまり、中共の無責任な居直りと人命軽視の体質が、日本国内における中国製加工食品に対するボイコットの輪を大きく拡大させているということだ。
最近の世論調査では「今後、中国製食品は利用しない」という人が75.9%に達している。
まさに自業自得。
もう「勝手にしやがれ!中共!!!」というところか。
私も、これ以上は言及しない。
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28日の、中国当局とメディアが合作した「毒が入れられたのは日本国内」という許しがたい世論誘導がなければ、私は今日は別のエントリを書くつもりだった。
それは、次の記事についてである。
自民党の加藤紘一元幹事長は27日、TBSのラジオ番組で、山崎拓前副総裁、小泉純一郎元首相とのYKKトリオについて「もう終わった。いつまでも、いつまでもということではない」と述べ、事実上解散したとの認識を示した。
YKKトリオを振り返り「3人の楽しい関係から始まって、政治にある程度の意味を持った」としながらも、山崎、小泉両氏から26日夜の会合に誘われたが断ったと説明。「これからはお友達同士みたいな話より、この国をどうもっていくかや政策で仲間が集まったり、離れたりするのが筋ではないか」と、政策本位で行動していく考えを強調した。
「YKKは終わった」と加藤氏 (産経新聞)
加藤氏は、もう「一丁上がり」の政治家である。この政治家の自民党内における影響力は、かつての子分だった古賀誠選挙対策総局長よりはるかに小さい。
にもかかわらず、「これからはお友達同士みたいな話より、この国をどうもっていくかや政策で仲間が集まったり、離れたりするのが筋ではないか」という発言。
この「ギラギラ感」はどこから来るのか。
この発言から読み取れるのは、政界再編でもう一度「主役」の座を射止めたいという強烈な意志である。実際、加藤氏は、2月10日から2日間の日程で超党派の議員団を率い韓国を訪問した。この訪韓団には、民主党から小沢一郎代表と距離を置く仙谷由人、枝野幸男の両元政調会長ら5人が参加した。
これは「次期衆院選後の政界再編をにらんだ動き」(谷垣派幹部)であるのは間違いない。
加藤氏は民主党の菅直人代表代行と極めて近い。小沢一郎代表が自民党との大連立を志向しているのに対し、菅氏は加藤氏に代表される自民党左派との連携―政界再編を目指していると思われる。
おそらく菅氏と加藤氏は以心伝心だろう。だから、加藤氏は、元YKKの盟友でありながら、前原誠司前民主党代表と考え方が近い小泉氏との「26日夜の会合」を断ったのだ。
もちろん、加藤氏から、いつまで経っても「ギラギラ感」が抜けないのは、政界再編でもう一度「主役」の座を射止めたいという気持があるからだけではない。
かつて、「保守本流・宏池会のプリンス」と呼ばれ、「総理総裁に最も近い政治家」と言われた男の怨念というか妄執というか、短い言葉では表現しきれないドロドロとした魂の彷徨があるのだ。
以下は、私の2006年7月27日のエントリである。
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加藤紘一の嫉妬と妄執 (2006/07/27)
【はじめに】
皆さんは、権力闘争の根底にあるものは何だとお思いだろうか?
政治だから「主義・主張」があるのは当たり前である。もちろん「欲」もある。が、「嫉妬」もかなり大きな比重を占めるのである。その「嫉妬」は、時として「怨念」に転化することさえある。
この「嫉妬」が「怨念」にまで転化し、権力闘争の軸になったことは何度もある。有名な「角福戦争」などは、その典型だろう。
そして、「嫉妬」と「怨念」が、「主義・主張」の違いを超越した政権を生み出したこともある。いわゆる「自・社・さ」連立政権である。
小沢一郎に対する「嫉妬」と「怨念」が、何と自民党と社会党に「連立」を選択させたのである。
「憲法改正」を綱領に掲げ、「日米安保条約の護持」を党是とする政党と、「護憲と非武装中立」を党是とし、「日米安保条約の破棄」を主張する政党が連立しする。しかも、「護憲・安保破棄」の少数派から総理大臣を選ぶ。
日本の憲政史上でも稀有な出来事だが、権力闘争においては、こういうこともありうるのだ。
もちろん、自民党の場合は政権復帰願望も大きな動機であった。権力を奪回するためには、「主義・主張」になんかかまってはいられない。
が、社会党の場合は、小沢と、彼に追従した山花貞夫などの社会党右派に対する怨念が動機であったと言ってもよい。
それは、自民党との連立を主導したのが、反自民の急先鋒だったはずの社会党左派だったことが証明している。
(注-1)「角福戦争」
ポスト佐藤(栄作)の座を争った田中角栄と福田赳夫による、政治権力をめぐる激しい闘いを「戦争」に例えて呼んだもの。1970年ごろから田中が倒れる1985年まで続いた。
1979年の、いわゆる「四十日抗争」が、その頂点だった。
(注-2)「自・社・さ」連立政権
自民党、社会党、新党さきがけの三党による連立政権(1994年 ~1998年)。
この政権は、理念がまったく解らない。まさに、欲と嫉妬と怨念が生み出した政権だったとしか思えない。村山 富市(首相)と河野洋平(外相) と武村正義(大蔵相)の三党首がテレビに出て、「私たちはリベラルです」と連立の意義を強調していたが、そのうさん臭さは噴飯ものだった。
結果は、野党に転落していた自民党の復権を社会党が助けた。それだけである。
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なぜ、権力闘争の根底に「主義・主張」の違いや「欲」だけではなく、「嫉妬」や「怨念」があると【はじめに】で書いたのか。
それは、最近の加藤紘一の言動を見聞きしていると、そのことを痛感するからである。
したがって、そのことを書くことで、「政治の醜悪さ」と「政治家の憐れ」を皆さんに解ってもらいたい、そう思ったのである。
最初に、加藤のヒストリーを書いておこう。
加藤紘一。
昭和14年(1939年)生、67歳。山形県鶴岡市出身。東京大学法学部卒。大学時代は「60年安保闘争」に参加。卒業後は外務省のキャリア官僚(チャイナスクール組)になる。
父は衆議院議員の加藤精三だが、1965年に急逝した父の後継になることを、このときは断り、7年後の1972年に初出馬し当選。大平派(宏池会)に加入。
政治の表舞台に登場するのは、1978年の大平内閣で官房副長官を務めた時からである。1984年には45歳の若さで中曽根内閣の防衛庁長官に就任。
1987年のポスト中曽根をめぐる権力闘争では、宮澤派(宏池会)の事務総長として陣頭指揮をとる。が、派閥領袖の宮澤喜一は竹下登(経世会)に敗北。
このころから加藤は、「宏池会のプリンス」と呼ばれるようになる。
1991年に宮澤内閣の内閣官房長官に就任。
1992年に、いわゆる「従軍慰安婦」問題について、官房長官として「当時の政府の関与」があったことを認め、「お詫びと反省の気持ち」を表明した。
「朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表」
この談話が、翌1993年の河野洋平官房長官による「当時の軍が関与した強制連行」を認める「全面的謝罪」の伏線になるのである。
「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」
1994年の村山「自・社・さ」連立政権下では自民党政調会長に就任。
この政権を樹立する時、河野(当時自民党総裁)や野中広務、亀井静香らとともに、重要な役割を果たす。その結果、野中は自治大臣・国家公安委員長として、亀井は運輸大臣として初入閣。
つまり、全員がうまい汁を吸ったわけだ。ちなみに、その時の自民党幹事長は森喜朗(前首相)。
この年の8月、自民党政調会長として中国人民抗日戦争記念館を訪れた加藤は、「ここに来るのは長年の願望だった」「来年は終戦から50年。日本では、どう50年を迎えればよいか議論しており、日中戦争が本格的に始まるきっかけとなった盧溝橋を訪れることができたことは意義深い」と述べている。
この「日本では、どう50年を迎えればよいか(の)議論」が、1995年8月15日の「村山談話」として結実するのである。
1995年の自民党総裁選では、現職の総裁であり、同じ宮澤派に属する河野ではなく、竹下派(経世会)の橋本龍太郎を総裁に擁立する。これは、河野が、派閥内の最大のライバルだったからである。
このことが99年の宏池会分裂(河野派の独立)の遠因になる。
橋本内閣の下では、3期連続して幹事長を務める。このとき、幹事長代理の野中とコンビを組んで自民党の実権を握り、野中をして「魂の触れ合う 仲」と言わしめるようになった。
1998年に宮澤派を禅譲され、宏池会第6代会長(加藤派)に就任。派閥の後継争いに敗れた河野は、翌99年1月に麻生太郎(現外相)らとともに宏池会を離脱する。(宏池会の第一次分裂)
この年、自民党総裁選に盟友の小泉純一郎(現首相)が出馬する。
このころの加藤は、山崎拓(前副総裁)とともに小泉とは盟友関係にあった。いわゆる「YKK」であり、経世会(竹下派=竹下-金丸信-小沢)による自民党支配を打破することを目的に90年代初頭に結成された。
にもかかわらず、加藤は山崎とともに、盟友の小泉ではなく経世会の小渕恵三を全面的に支持、主流派を選択する。
結果は小泉84票。225票を獲得した小渕に惨敗した。
なお、このころの経世会は、既に金丸は議員辞職(1992年)し、小沢は離党(1993年)。実質的には、衆院は野中、参院は青木幹雄(現参院自民党議員会長)が仕切っていた。
このころから、「YKK」と呼ばれた山崎、加藤と、小泉の盟友関係に亀裂が生じ始める。
ところが1999年の自民党総裁選では、加藤は態度を一変させ、前回支持した小渕に対抗して山崎とともに出馬する。結果は加藤、山崎の敗北。小渕が再選される。
このときから、加藤には逆風が吹き始める。
この総裁選に際し、小泉は積極的な動きを見せなかった。もちろん加藤支持も山崎支持も表明しない。そして次のように言った。
「YKKは友情と打算の多重構造だ。権力闘争を勝ち抜くには友情だけではダメだが、打算だけでもむなしい」(1999年6月)。これに対して山崎は、「権力闘争が打算で何が悪い」と言い返した。
まさに権力闘争が、いかに非情なものであるかを物語るエピソードである。
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ここまでに書いた加藤の政治歴を見れば、このころ彼が、最有力の自民党総裁候補であったことがお分かりいただけたと思う。
45歳で国務大臣(防衛庁長官)に就任。その後は内閣官房長官、自民党政調会長、同幹事長(3期)を歴任した。しかも党内第二派閥(宏池会)の領袖である。加えて、政策に強く、外交にも通じている。
このころの加藤を評して、側近だった古賀誠(元幹事長)は次のように語っている。
「自民党の数多い有能な人材の中でピカ一。 宝と思っている」と・・・
この加藤が、なぜ失敗したのか?
世間も、永田町(自民党)も、加藤を自民党総裁の最有力候補とみなしていた。加藤自身も、自分が最有力候補だと思い込んでいた。実は、そこに一番の問題があった。
よく言えば「プライド」、率直に書けば「うぬぼれと自信過剰」。
加藤は「自分は近い将来絶対に総理になれる。それなら、自分の美学を通して総理になろう」、そう考えたのである。
橋本総裁時代、幹事長-幹事長代理として加藤とコンビを組み、「魂の触れ合う仲」と公言した野中や加藤の側近であった古賀らは、加藤が総理総裁になるための「線路」を敷いていた。
1998年の参院選敗北を受けて、任期途中で引責辞任した橋本の跡を継いだ小渕は、まだ1年余りしか総理・総裁を務めていない。ここは、あと一期(2年)だけ小渕にやらせるべきだ。そうしなければ、最大派閥である小渕派(経世会)が納得しない。
小渕が正規の総裁任期をまっとうしたのち、その跡を加藤に継がせる。そして経世会と宏池会で自民党を牛耳る。
これが野中や古賀が考えていた「線路」であった。
そこで野中と古賀は、「多少、あなたの美学からすれば外れるかもしれないが、この線路に乗れ」と勧めた。
ところが、加藤は、「いや、プロセスが大事だ」と拒否したのである。
野中たちは、「しかし、美学を通しても(総理に)なれなかったらどうするのか。総理になるプロセスは、多少見栄えが悪くても、総理になれば美学を通すことができる。まず、総理になることが大事なのだ」と説得した。が、当然、総理になれると思い込んでいた加藤は、そのプロセスを重要視して説得を拒んだ。
そして小渕に挑んだ加藤は惨敗、結果的に総理の座を棒に振ることになる。
加藤は、当時、米ニューヨーク・タイムズから「冷めた ピザ」と評され、国内でも「鈍牛」、「ボキャ貧」、「真空総理」などと揶揄されていた小渕に我慢がならなかったのであろう。
しかも国内では、バブル崩壊後の金融危機が表面化し、我が国は「国難」に直面していた。こういう状況を「真空総理」には任せておけない、加藤はそう思ったに違いない。
だが、当時、自民党の最大の実力者で、「魂の触れ合う仲」だった野中は、加藤に真正面から敵対した。
加藤はこのとき、「金丸さんが小沢さんを寵愛したように、野中さんも古賀さんを寵愛している」と述べて、自民党総裁選における自分の敗北が、まるで側近の古賀の裏切りであったかのような発言をしている。
が、加藤派の議員は、「加藤さんが113票も獲得できたのは、古賀さんのおかげだ」と、加藤の邪推を否定した。
加藤と山崎は、この総裁選の後、完全に干される。
が、事態はすぐに急変する。小渕が2000年4月2日に、脳梗塞で倒れたのだ。そこで急遽、後継の総理を選択する作業に自民党幹部は取り掛からざるをえない事態に追い込まれた。
まず名前が挙がったのが、自民党総裁経験者で唯一総理大臣に就任していない河野。宮澤や後藤田正晴などの重鎮が推薦した。が、最終的に選ばれたのは森だった。
内閣官房長官として小渕を支えていた青木は、「(小渕が意識不明の状態なのに)何かあれば万事よろしく頼むとの指示をいただいた」として首相臨時代理に就任。
赤坂プリンスホテルの一室に森幹事長、村上正邦参院自民党議員会長、野中幹事長代理、亀井政調会長(肩書はいずれも当時)を召集して、談合で森を後継総裁にすることに決めたのだ(いわゆる五人組による談合)。
加藤派の池田行彦総務会長(当時)にはお声がかからず、加藤もこの動きをまったく知らなかった。つまり、この時点で、加藤は完全に「番外地」とみなされていたのである。
ところが、この森首相が、誕生の経緯もあってか、国民から不評を買う。首相番記者からも「サメの脳ミソとノミ の心臓」と揶揄されるほどだった。メディアは、「森喜朗」の音読みにかけて「蜃気楼内閣」とまで呼んだ。
ここでまた、加藤の「うぬぼれと自信過剰」が頭をもたげてくる。
そして加藤は、山崎を連れ立って、野党が提出した森内閣に対する不信任決議案に賛成しようとするのだ。加藤派と山崎派が野党に同調すれば不信任決議案が可決される。つまり、内閣総辞職か解散しかない。
これが、いわゆる「加藤の乱」である。
が、野中幹事長(当時)の切り崩しや小泉(当時森派会長・現首相)の頑強な抵抗にあって、この反乱は鎮圧される。
特に加藤派は、側近と言われていた古賀を始め、宮澤喜一、池田行彦、丹羽雄哉、堀内光雄などの幹部を中心に半数以上が加藤から離反。(宏池会の第二次分裂)
これを機に、加藤は急速に党内影響力を失くす。
2002年には、加藤の金庫番と言われた佐藤三郎元秘書が、2億8,000万円の所得隠しと約1億円を脱税した疑いで逮捕され、加藤自身も政治資金の私的流用などが暴かれて3月に宏池会会長を辞任し、自民党を離党した。
が、国民の批判は収まらず、4月には衆院議員辞職に追い込まれる。
ところが加藤は、翌2003年11月の衆院総選挙に無所属で出馬、11期目の当選を果たす。そして、その後、自民党に復党。旧加藤派を引き継いだ小里派(現谷垣派)にも復帰。
しかし、2005年9月には、谷垣禎一(現財務大臣)が派閥の後継に決まると小里派を離脱する。
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ここまで読んで、皆さんは加藤のことを、どう思われたであろうか?
エリート、プライドが高い、うぬぼれ屋、政局音痴、ケンカの仕方を知らない、中道左派的思想、親中派、などは確実に読み取れる。
が、私はプライドやうぬぼれの裏に、小泉首相に対する嫉妬と怨念を感じるのである。
加藤が総裁選で小泉を支持しなかったのは1998年だけではない。95年に小泉が初出馬した時も、対立候補である経世会(竹下派)の橋本擁立の核になっている。
なぜか?
加藤の中では、YKKにおいて「総理総裁になる資格があるのは自分だけ」と思っていたからである。小泉は、それこそ論外。
山崎はそれを承知していて、まず加藤を総理総裁にする、そして自分は党幹事長として加藤を支える、と公言していた。
(当然、総理の座を加藤から禅譲してもらう、という前提付きだが)
ところが、「プライド」と「うぬぼれ」が裏目に出たうえ、元々が政局音痴でケンカべたときているからどうしようもない。
田中角栄元首相は「自分の努力で幹事長まではなれる。だが、総理総裁は努力だけではなれない。巡り合わせだよ」と初当選の挨拶に伺った額賀福志郎(現防衛長官)に語ったという。
が、加藤の場合は「巡り合わせ」ではなく、自業自得だと思う。
そんな加藤にとって、よりによって「格」がず~っと下のはずの小泉が総理大臣になった。しかも、自分のアドバイスには耳を傾けない。それどころかアドバイスと逆のことをやる。
にもかかわらず国民的人気が高い。
もう、小泉は許せない。後継総理は絶対に「反小泉」でなければならない。そう加藤は思っているのではないか。
加藤は、6月20日のテレビ番組で、自らの総裁選への出馬の意思を聞かれ、こんな“本音”をのぞかせている。
「私自身は過去5年間いろいろあり、傷も癒えていないので、今回は、そういうことはしません」
この「今回は、そういうことはしません」という発言を聞いて、加藤の元側近だった谷垣派議員は「『次回がある』と思っているのかなあ……あの人もギラギラ感が抜けないね」と苦笑した、という。
加藤が「非安倍」にこだわるのは、安倍晋三官房長官のアジア外交に対する姿勢を懸念するからだけではない。政界の急速な世代交代に待ったをかけ、もう一度、自らの活躍の場を確保したいという思惑もあるのだ。
もう1回だけ総理になる(もしくは総理に影響力を及ぼすことのできる)チャンスをくれ!本気でそう思っているのである。
加藤は今、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という心境にまで陥っている。
福田康夫不出馬が確定した今、加藤に政策が近い「ポスト小泉」候補は、かつての派閥の弟分、谷垣禎一財務相である。
が、加藤は谷垣について、「閣内にいて、小泉さんの庇護の下にいるイメージがある。靖国問題やアジア外交でも谷垣さんは(安倍や麻生と)ちょっと違うがはっきりしない」と評価する姿勢をまったく見せない。(06/07/24 讀賣新聞)
加藤は、谷垣が小泉内閣にいる=小泉に協力していることが、まず気に食わない。そして谷垣派は、本来は自分の派閥だ。谷垣は自分よりも格下だという思いをぬぐい切れないのである。
私は、加藤を「政界のはぐれ鴉」だと思っている。そして彼を見ていると、権力に対する妄執は、ここまで人間を醜悪な存在にさせるのか、と思うと同時に、「政治家の憐れ」を感じずにはいられない。
かつて、政界の策士と呼ばれ、今年5月に死去した松野頼三は、小泉首相の「政治の師」でもあった。
その小泉首相は、松野が亡くなった際に「政局の動き、権力闘争、自らやってきた人だから。派閥間の争い、派閥内の争い、人間の嫉妬。そういう点を実に詳しく教えてくれた」と語っている。
加藤にも松野のような「政治の師」がいれば、少しは彼の政治家人生も変わったものになったのであろうか???
(文中・敬称略)
(注)
「経世会」は、現在は「平成研究会」に改称されています。が、今でも「経世会」の方が
メディア、永田町とも通りがよい。
参照1:異才作家 『大下英治』 が書き下ろす迫真の政治ドラマ
参照2:第147回国会 決算行政監視委員会 第3号
参照3:佐藤三郎・加藤紘一議員元秘書の逮捕について
参照4:「ポスト小泉」への道(11)未練断ち切れぬ「YK」
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このエントリ、当時はかなりの人気を博した。「読み物としてもおもしろい」という評価もいただいた。
で、今、読み返してみて、「加藤氏はまったく変わっていない」ということが改めて分かる。
もう「妄執の虜」という表現がピッタリだ。
ちなみに「妄執」とは「成仏を妨げる虚妄の執念」(大辞泉)のこと。
こんな政治家が政界再編のイニシアチブを取る???
もう「いい加減にしてくれ!」と言いたい。
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