旧帝国陸軍軍人を誇りに思う
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中国はジャーナリストにとって世界最大の監獄 国境なき記者団
私は、過去のエントリ「A級戦犯」で、「昭和の聖将」と称えられた松井石根陸軍大将に対する極東国際軍事裁判(東京裁判)における判決の不当性と、その悲劇性について言及した。
で、――この悲劇的な人物の人となりを知ることが、この裁判がいかに独善と偏見に満ちた杜撰なものであったかの証明になる。
松井は「兵の罪は我が責なりとして下獄し、無畏(むい)を念じていささかも動ぜず、平常心のまま刑に服した」と云われる――と書いた。
私の父が北支戦線で、陸軍中尉として部隊を指揮し、最後はシベリアに抑留されたことは既に何度も述べた。そして、シベリアから帰還した父は、帝国陸軍軍人としての己に強い誇りを抱いていた。
私が「旧帝国陸軍は極悪非道だった」という説に強い違和感を覚えるのは、この父の存在がある。そして、『南京虐殺』の責任を問われて処刑された松井大将の実像を知るに及んで、その違和感はさらに大きくなった。
この、私の旧帝国陸軍に対する思いを、なおさら後押しするのが岡田資中将の存在である。
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朝日新聞が、「映画散歩」の「週末に観る映画はこれだ」で「明日への遺言」を推奨している。
朝日が、この映画を推奨する意図は不明だが、B級戦犯として処刑された岡田中将の東京裁判における態度、発言は我々日本人の誇りである。
この映画のプロデューサーである原正人氏は――自己中心の時代の風潮が、人々を蝕み、行政や企業のリーダーでさえ、責任や誇りや品格という人間としての美徳を失おうとしています。
戦争を見つめることで、平和を考え、逆境にあって、人間としての責任をまっとうする・・・・・・。この映画の主人公、B級戦犯、岡田資中将は、我々にこのことを教えてくれました――と書いている。
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以下は、岡田中将に関するとても参考になるサイト情報である。
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功二級岡田資中将は鳥取中学卒。歩兵科で陸士23期、陸大は34期(席次は13番)。陸大卒業後、イギリスに駐在した。また秩父宮殿下の御付武官も務めた。
佐官時代には木曜会のメンバーだった。会の主要メンバーである東條英機は極端に中学出身者、つまり非幼年学校卒業者を嫌っていたので、中学卒業の岡田が入っているのは不思議な気がするが、土橋勇逸は、やはり中学出身の鈴木貞一の推挙ではないかと書いている。
岡田が法華経と出会ったのは陸大1学年の時であった。その後独学を続けていたが、歩兵第八十聯隊長に補される直前に河合日応師 を知り、1日だけその教えを受けて朝鮮に渡った。
2年間の聯隊長職の後、大阪の第四師団参謀長に補された。第四師団は当時関東軍隷下で三江省にあったため、岡田は参謀長兼治安維持会委員長として、共産匪の覆滅に励みながら、日本移民の世話もしていた。
昭和13年、歩兵第八旅団長時代に転補され、東支、南満、京奉、津浦線を南下して進撃。途中、敵の黄河決壊作戦にも遭ったが、それも乗り越え、東久邇宮殿下率いる第二軍の挺進隊として10月12日には京漢線を乗り越え、26日には漢口の北に殺到する偉功を建てた。これにより岡田支隊は、感状を受けた。戦陣に於いて岡田は、大腸カタルに悩まされながらも、下腹部をつとめて日光に当てながら、結局医者の世話にならずに職務を全うした。
戦場にあること1年余りで陸軍戦車学校長に転補となり、戦車将校や少年戦車兵の育成に努め、更に相模造兵廠長として戦車製造に励んだ。
昭和17年9月、わが国初の戦車師団が編成されると、その戦車第二師団長に補され、再び満洲に渡った。切迫した状況から、従来の操典通りの教育ではとても間に合わない。装甲車輌500台、六輪自動車2000台から編成される戦車師団を以て、夜襲専門に近い訓練を徹底する必要があると考え、その決心を第一方面軍司令官であった山下奉文に訴えると、山下はそれを快く聞き入れてくれた。その後1年4ヶ月に渡りこの方針を徹底し、昭和18年冬、一面氷となった佳木斯に師団の全将校を集めて、近代都市への装甲兵団による襲撃要領を研究中に、飛電一本で名古屋に新設される軍需監理部長に転補となった。後任の岩仲義治に率いられた師団主力は、その後山下と共にフィリピンに渡り、ルソン島での決戦に参加した。
東海軍監部長としては、空襲や地震に襲われながらも、航空機の増産に努力した。サイパン島の失陥は、当時名古屋の留守師団長であった同期の中山惇が態々教えてくれた。「今後海軍航空隊は全然当てにならん。本土決戦は陸軍の自力に頼むのみである」と云う中山の言葉に暗澹とし、更なる能率のアップに努めた。文武混在の軍需部門は中々難しいところがあるのだが、岡田は人使いに手腕があり、時にはヤクザ者までうまく使ったという。
20年2月、本土決戦を控えて第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官の重責を担い、その職で終戦を迎えた。
が、この人を有名にしたのは、むしろこれ以降の生き様であった。(以下主に田嶋隆純教誨師著作より)
東海軍司令官として敵飛行士処刑の責を一身に負った岡田は、十九名の旧部下を率いて立った横浜第一号法廷を、軍人生活最後の死場所と定め、自らこれを『法戦』と名づけていた。その証言台上一週間にわたる検事への論駁は正に日蓮の大獅子吼に彷彿たるものがあった。A級を含めた総ての戦争裁判に於て、戦勝国の非を飽くまで攻撃するだけの胆力を持った被告は殆どなかったといわれている。当然それは自分の首を堵けた自殺行為であり、仮に意気込む者があっても、弁護士がそうはさせなかったであろう。例えば横浜裁判で、長崎の或る海軍俘虜収容所付き兵曹長が虐待の全責任を負わせられてしまったのに業を煮やし、家族九人、全部殺されてしまった原爆の非を法廷で鳴らそうとして、忽ち判士長より中止を命ぜられたという例もある。しかし、岡田の場合は、それができた。というのが、彼は旧部下一同と米人弁護士団に初対面するや、開ロー番私個人の弁護は考えないで貰いたいと、挨拶した如く、捨身に徹底していたため、その心情に対し判士団も検事団も、深く敬意を表していたからである。
こんなエピソードかある。岡田は米国の無差別爆撃を鋭く論難し続けたのであるが、それに対し検事側は、処刑された九飛行士達の認識票たる金属の腕輪を法廷の机にズラリと並べた。並みいる判士連も傍聴の外人達もシャンデリヤの下に空しく並び光る腕輪の列に食い入る如き視線を注いだ。検事側は感情戦の成功に、ほくそ笑みながら、合衆国空軍将士の勇敢にして公正妥当なる戦略爆撃をたたえた。それに対し、法廷には老若男女十数名の日本人が、次々に現われ出た。白毛を束髪にした孤児院の園長さんは、銃撃の中に叫びをあげて倒れゆく幼童達の鮮血を(この目で見た)といった。「私の家の周辺には広く何の軍事施設もありませんでした」と、右の手にした証人用マイクヘ低い呟きを寄せる婦人は、片肘からスッポリと腕を失っていた。或る中年の女性が試問に答え、明らかなる違法銃撃の事実を述べ終ったとき、判士長は型の如く、「何かいうことはないか?」と問うた。「あります。私の夫を返して下さい!!」きっと眼をあげた婦人の視線から、判士席は一斉に顔を伏せた。かくして、遂に岡田中将はアメリカ国務省よりこの法廷に宛て「無差別爆撃を認める」旨の声明電報獲得に成功したのである。「裁判に勝って判決に負けた」とは、中将が常に語ったところであった。
ちなみに軍人としての岡田は、戦略爆撃を肯定する。「予をして米国航空総司令官たらしめば、矢張り日本本土爆撃を決行する」と書いている。今回の米軍の場合、やり方が良くないと岡田は続ける。何故、鉄道を狙わないのか?大工場を狙わず、片っ端から焼くのか?変電所やダムの位置がわからない米軍では有るまいに。人命を多く損せずして、目的を達する方法を考えることが、公法遵法の精神ではないか。彼はこういって、米軍の無差別爆撃を非難している。(岡田遺著『毒箭』)
軍司令官ただ一人の死刑に食いとめ得て、傍聴席の夫人に「本望だ」と言い棄てたまま死刑囚房に下った岡田は、「古来征戦幾人カ帰ル」と獄窓を飛びゆく白雲に悠々として吟じ始めた。その後も再審委員会に向け、今度は自分の助命策戦をとると思いきや、却って若い旧部下達の受命行為を有罪とした不当をなじる書類ばかり提出し、遂に間もなく彼ら多数の旧青年将校をして、唯一の異例たる執行停止処分に浴びさしめ、勇躍獄外の社会に赴かしめたのである。彼の死刑囚棟での明け暮れは、ただ仏道精進の一途に尽きていた。許された訪問時間は、悉く他の死刑囚への仏教解説に充てられた。
9月15日の夜10時、執行命令を宣告すべく独房より連れ出しに行った米軍将校の中には、房外に岡田の姿の現れるまで終始不動の姿勢をとっていた者さえあったという。所長が読んだ宣告文にも軽く頷いただけで、「何か食事の希望があるか?」との問いにもふだんの食事でよろしいといっただけであった。17日の処刑当日も終日平常と何の変りもなく、看守らとも冗談を飛ばし合い、或る米兵が「アメリカ煙草をあげようか」と、話しかけると「アイ、アム、グッドボーイ」と吸うのを断ったりしていた。最後の晩餐には、殊更の注文はなかったが、御馳走があって田嶋隆純師も相伴した。初めから瓶に三分の二程残っていた上等の葡萄酒が出た。「半分は最後の出発のとき飲むのに残して置いてくれ」と看視兵が田嶋師に囁いた。予定した時間が余ってしまったが、岡田は自分と向き合った厨子を眺めながら、「この阿側陀さんの光背は少し曲がっていますねえ」などと、実にのんびりしたものであった。
「9月17日午前0時半、彼の肉体のみが絞首台上に崩れた。」(田嶋隆純)
参照:岡田 資
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松井大将、岡田中将、そして、沖縄県の遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようにするために、自ら「住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出」した赤松嘉次大尉。
ほんとうに旧帝国陸軍は“極悪非道”だったのか???
左翼のプロパガンダに、今さらながら激しい怒りを覚える。
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コメント
。・゚・(ノД`)・゚・。
投稿: 7743 | 2008/02/27 23:35
坂さん渾身のエントリー有難うございます。
私も戦中派の母から戦時中は軍人が威張っていて嫌だった事などを聞かされて育ちましたので(それと映画やメディアのステレオタイプな軍人の描き方!)軍隊と聞くだけでアレルギーが出るようでしたが、少し前にインドネシア独立を助けた陸軍軍人の方々へのインタビューを読んでその人格・知性・軍人としての気概に圧倒されました。その本から顔を上げると目の前には品格のかけらもない男達がホームに力なくうずくまっていて、これが現代の日本の有様なのかと愕然とした覚えがあります。戦後教育とはかくも恐ろしいものですね。
完成した南京の真実では松井大将の最期が描かれているそうですし、これからもっと立派な軍人さんがいた事が知られて欲しいと思います。
投稿: おれんじ | 2008/02/28 01:09
よくぞこの映画を取り上げてくれました。管理人さんに感謝します。
皆さん、「明日への遺言」見に行きましょう。
投稿: 花うさぎ | 2008/02/28 03:03
坂さんお元気そうでなによりです。
岡田中将の最後は、将としての模範を示しただけでなく、日本人としての在り方の究極を示してくれていますよね。岡田中将の示した日本人。少しでも近付きたいですね
投稿: ヤマト | 2008/02/28 07:14
僕はまだ高校生ですが、帝国軍人は立派な人もいたと思います。栗林忠道中将や明石元二郎大将等もそうではないでしょうか?でも、小学校や中学校の教科書を読み返しても、日本の中国侵略という項があったり、映画等でも、日本軍人は店に入ってお金を払わず出ていったりというようなシーンがあったりするから今の日本人は自然と日本軍は極悪非道と思い込んでいるのかも知れないです。つい最近まで僕がそうでしたから。
投稿: | 2008/02/28 08:46
はじめて書き込みします。高潔な日本を取り戻す話になります。教科書に載せてほしい話ですよ。管(これであってます?どうでもいいや笑)や福嶋のような珍味はもうたくさん。
投稿: ぴよ | 2008/02/28 09:03
管理人さま、興味深い映画のご紹介ありがとうございます。
共同脚本がロジャー・パルバースというのがちょっと気になりますが、ここに書かれてある岡田資中将のイメージどおりの作品になっていることを祈ります。
投稿: Zukin | 2008/02/28 10:02
二つ上の高校生さんへ
軍人には、立派な人もいた。では無くて99.9%が立派な人(普通の日本人)で、1000人に1人ぐらい、変なのがいた。というのが、正しい認識です。
あなたのお祖父さんか、曽祖父さんに当たると思います。今生きている85~90歳の人です。戦前は教育勅語で、徹底的に、道徳教育を叩き込まれるから、今とは、比べ物にならないほど、真面目です。
店で金を払わずに、物を持って行ってしまうのは、シナ・朝鮮の文化です。日本には、過去千年間、そのような事は、聞いた事がありません。呉善花さんが、言っていましたが、今でも韓国では、偉い人は、市場で勝手に品物を、取るそうです。高い物を取れる人が、より偉い人で、また取られた人も、文句を言わないそうです。
投稿: 八目山人 | 2008/02/28 11:06
よい映画ができました.
「南京の真実」も普通に上映館に乗ることを願っています.
沖縄戦も島民の日本軍艦での島からの脱出から.
「沖縄県の遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようにするために、自ら「住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出」した赤松嘉次元大尉.汚名をきた大尉と家族.大尉の晩年まで.映画で描いてくれることを望んでいます.
当時の赤松大尉は我が息子32歳と年が重なり.不憫でならない.
投稿: K | 2008/02/28 11:20
組織と個人は別なんじゃないのかね。立派な個人は確かにいた。しかし彼らの行為を敷衍して組織が立派だったとは必ずしもいえない。どこから組織が腐ってしまったのか。分岐点はいくつかある。決定的だったのはやっぱり昭和5年の統帥権干犯問題かな。党利党略に走った政党政治こそ軍国主義の源なのである。そうした目で見ると小沢一郎は危なっかしくてしょうがない。
投稿: ウー | 2008/02/28 11:24
有り難い記事でした。
周りに職業軍人で無い人、職業軍人(士官学校・兵学校出の人をそう呼びました)を沢山見てきましたが、全部人間として尊敬できる人ばかりでした。戦後の生活を見ても仕事に取り組む姿勢が日本の軍隊生活を送られた事で「責任感」の強い事これが日本軍の強さだったのだろうと回顧しています。
威張るのは下士官兵の一部、士官は謙虚でしたよ~~
人間ですから家族・親・子供から離れて戦場で「死」「敵」と戦う事に恐怖を覚えない訳は無いと思いますが、人間としての「責任感」と「規律」が強い日本軍を作って居たと思います、終戦時に於いても現在の人には想像も付かないでしょうが、将官・佐官・尉官・下士・兵の500人の自決を見ても判ります。
終戦後は軍国教育が悪い、軍国教育と呼ぶのは適切で無いと考えます。「人間教育」と呼んだ方が良いと思うのですが~しかし「軍国教育」と呼べば戦争が二度と起こらないとでも言いたいのでしょう、「軍国・軍国」と呼ぶことに快感を覚えるのでしょう、福島瑞穂氏などはその典型。
国を家族を大事にする教えは受け教育勅語も覚えましたが「軍国。軍人勅語」など「軍人」以外は教わっていません、朝の国旗掲揚も現在アメリカがやってる事と同じ事をやって居ただけの事、特に異常な事でも有りません。
兵役を拒否したい人もいました、その人達が自分を正当化するのに「軍」を悪しく誹謗・中傷する事でしか存在感を示せない、卑怯な振る舞いをして生き残った人達こそ問われてしかるべきなのですが「敗者」故、正常な人の言論・行動が封鎖され今日の日本を作り出したと思います。
今一度戦前の日本の教育が正常に行われた時には日本は再び輝きを100年後には取り戻せると思います。教育が狂えば全てが狂う、良い経験を日本はしたと考え、政治家もガソリンだ・保険だと「国」を忘れて騒いでも「国」がなくなれば全て「夢」もう少し国家を語って欲しいものです。
投稿: 猪 | 2008/02/28 11:52
貧弱な装備でぼろぼろの軍服を着て「天皇陛下万歳」と無謀な突撃を繰り替えす愚かな軍隊というイメージなども戦後繰り返し映像(負けて死ぬ場面ばっかり)で流されすり込まれた結果だと思います そして戦争を考えるとそれらの映像が自動的に思い浮かぶように日本人はセットされてしまっています。そろそろ脱却しなければいけませんね。当時の事や人を客観的に見直すためには世の中の左右のバランスが取れていることが重要なのですけど 映画界、テレビ界などはそうなっていないと思います。 そんな中最近やっとこのような映画が作られるようになったのはよい兆候だと思います ぜひ見に行きたいです。
投稿: ころ | 2008/02/28 13:41
このような素晴らしいエントリーをありがとうございます。私は「南京の真実」1月の試写会に行ってきたのですが、大盛況で、スタッフの方とも話したのですが、今後各地でミニ試写会の形をとって、多くの人にみてもらいたいとのことでした。
さて、「明日への遺言」管理人さんがおっしゃるとおり、なぜ朝日新聞が薦めるのか、かなり疑問です(笑)この映画は
産経新聞社が協賛しているのですが(笑)
戦後の自虐史観に塗れた日本は、戦前のすべてを悪とし否定し、日本が悪いから戦争に負けたと刷り込まれてしまいました。その結果が、現在の独立国家とは呼べない国・日本であり、余りにも品格がなくなった日本人です。
教育というのがどれほど大切なものか、教育勅語を復活させたらいいのにと思わずにはいられません。
人間の姿かたちに生まれても、サルに育てられたら死ぬまで
サルのままです。政界、財界、見渡す限り人間の姿をした
サルばかりです。(サルには悪いですが)
私は両親が共働きであったこともあり、幼いころのほとんどを明治、大正生まれの祖父母のもとで過ごし、しつけられました。今は二人ともなくなりましたが、この年になり祖父母からの教育がどれだけ大きかったかを感じています。
戦争中の話もききました。でも軍人の悪口を聞いたことはありません。憲兵は恐ろしかった、でも憲兵のおかげで泥棒や人攫いはいなかった。という話はきいたことがあります。
戦争という極限状態のなかで、いくら軍律を厳しくしても
必ず不届き者はいます。そういった連中がいたことは否定しませんが、それだけですべての軍人を否定することはおかしい話であり、いまのイージス艦あたごの問題とも重なって見えてきます。
一日も早く誇り高き、凛とした日本に戻ってほしい、日本人に戻ってほしいと強く感じる毎日です。そのためにも、管理人さんのエントリーが発信するメッセージはきわめて重要だと思います。
余談ですが、「南京の真実」お近くで試写会があるときは
ぜひ足を運んで頂きたいと思います。いわゆるA級戦犯とされた7名の方々がどのような思いで死んでいったのか、戦争犯罪とは一体何か、見えてくると思います。
投稿: Tsubaki | 2008/02/28 16:13
先日「明日への遺言」の試写会に行ってきました。
冒頭の都市爆撃の写真で、捏造が露呈さてているシナのプロパガンダ写真(鉄道に子供を置き去りにするシーン)が使われていた事と、竹之内豊氏のナレーション説明が多すぎた点が少し不満でしたが、映画としては上出来でした。時間が経ってからジワジワきます。多くの日本人に、また多くのアメリカ人に観てもらいたいです。
上映後の感想を書く寄せ書きに「戦争は悲惨なものだby中学教師」というのがあった。何を見せても結局その程度の単純お花畑かと思い愕然としました。岡田中将の高潔さや思いやり、勇気などに思いを馳せられない程度のお気楽バカが次世代の日本人を教えているんですね、、、
投稿: 青旗 | 2008/02/28 16:45
私の幼い頃はまだ、日本軍はそんなに悪いイメージは無かった。テレビの懐メロでも、「ラバウル小唄」など
明るいものも多く放送されていた。
また、映画でも「山本五十六」など、立派な帝国軍人というものを描いていた。だから私の日本軍への印象はそれ程悪くは無かった。日本軍が全て正しいとは申せないかもしれないが、少なくとも極悪非道であったというのは
嘘であろう。戦後が続けば続くほど、日本に有利なエピソードは隠され、悪印象のものばかり、しかも大げさに、また
捏造さえも厭わず、喧伝され続けてきた。
その結果、多くの日本人は洗脳された。
そんな中で「プライド」や今度のこのご紹介の映画など
僅かではあるが、日本軍人への認識を少しは変えてくれるであろう映画が作られてきたのは一筋の光明を
見出す思いだ。
投稿: 翡翠 | 2008/02/28 16:59
死を目前にして自分を見失わないというのは、
強い自制心、忍耐力、そして何よりも
自身に対する信頼があったからでしょうか。
四知に照らしてみても恥ずかしいことは何も無い、
と言える気高さというのは、人が生きる上で大切にしていかなければならない根っ子ですが、
現代では残念ながら、如何に物質的に豊かに生活するかが
重要視されるが為に軽んじられる傾向にあります。
日本には気高い・誇れる人物が居たのだということを、
戦後日本は、伝えずに隠そうとしているのでしょうか。
少し前に映画にもなりましたが、
栗林中将の事実も、数年前から掘り起こされております。
中将の家族に宛てた手紙集が本として出ておりますが、
彼の聡明さ、優しさといった素晴らしい人格が描かれておりました。
旧帝国軍人を否定する戦後教育で育った自分が、
衝撃を受ける内容であったのを覚えております。
自分の旧帝国軍人に対する認識は、この時点で180度変わりました。
こうしたメディアによる発表をきっかけとして、
高潔な人物達が居たのだという再認識がどんどん成されるようになれば、現代日本人の心持ちに少しでも良い影響が出ると期待しております。
岡田中将について教えて戴きまして、
坂様には感謝しております。
また自分を広げることが出来ました。
投稿: 中医 | 2008/02/28 19:40
高校生さんへ
日本人の誇りは、将軍の人たちだけでなく、旧日本軍の全ての兵士、前線の兵士と一体となって銃後を支えた全ての国民です。
特別攻撃機の青年パイロットは勿論のことですが、遠い異国の前線で苦難に耐えて戦った何百万のお父さんたちと息子さんたちが誇りです。
2、3世紀ものあいだアジアで「主人様」に収まり傲慢に振舞っていた世界中の列強国の軍隊を相手に、日本人だけで、一時は連戦連勝で打ち負かして、太平洋の波頭のかなたまで、広大なインド大陸と中国大陸の奥地まで進出し、戦後にアジア諸国が独立する端緒を築きました。
国内では、留守を守るお母さんやお年寄りが食料を生産し、中学生や女学生がクラスごと集団で工場に住み込んで装備などを生産しました。
小学生は、寒い冬でも薄暗い早朝に整列して「米英撃滅必死必中」の掛け声で村を駆けめぐって、大人たちを励ましました。
あの戦争が正しい戦争であったと、あらためて主張するつもりはありません。
ただ、戦争とは、国と国の利害が衝突して、ぎりぎりの交渉も決裂し、双方の国が国益を追求するための最後の政治的手段として始めるものです。
止むおえず戦争になった場合の、国民、軍、政府のあり方において、当時の日本は世界に誇れる立派な国であったと思います。
けっして多くの教科書に書かれているような、悪い、劣った、恥ずかしい国ではなかったと思います。
投稿: SS | 2008/02/29 10:34
八目山人さんとSSさん、ありがとうございます!色々と勉強になりました!
投稿: | 2008/02/29 13:49