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2009/01/17

あの安田砦攻防戦から、もう40年

連帯を求めて孤立を恐れず。力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫(くじ)けることを拒否する。

これが当時の全共闘運動の神髄です。

1969年1月18、19日。あの安田砦攻防戦から、もう40年。

「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します」

この放送、赤いソノシートが擦り切れるまで聞きました。
当時、高3直前の私には強烈でしたね、このメッセージが。
一言で言えば屈辱。
で、絶対に俺たちが「時計台放送」を再開するんだと強く誓ったんですが、最初のゲバルトが内ゲバ、ああ、むなしい。
まあ、今日は多くを語りません。

この時の安田砦の社学同(Bund)、赤いヘルメット、かっこよかったなあ・・・

ほんと、ミーハーでしたよ、当時の私は。

時間が取れれば、当時のことを反省を込めて書きたいと思っています。
何卒、ご容赦を!!!

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個人」カテゴリの記事

コメント

探偵ファイル
不法滞在フィリピン人少女 実はタガログ語喋れる?
ttp://www.tanteifile.com/newswatch/2009/01/16_01/index.html

文中の世論調査ネット
「(再)フィリピン人家族の日本滞在許可」
ttp://www.yoronchousa.net/result/6370

総まとめ→
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222028682

児童の権利条約関係→
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1221702337

外国人と職業選択の自由関係→
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1022090010

どうしても不法滞在者一家が日本にとどまれない理由→
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1422110979

入管で「家族で退去」「子だけ在留」の選択肢を示した理由→
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1322221503

投稿: ttttt | 2009/01/18 03:37

当時は彼等が云う「労働者」の一員でしたが非常に迷惑をしました。
東京に本社の有るお得意様にも行けず、私の友人はへりパイでしたので上空から彼等を撃ち殺したいと言って居たのを思い出します。

決して労働者や一般市民の応援が有った訳でもなくホントの学園紛争の様な眼で見ていたのを思い出します。

坂さんとは世代の相違でしょうね。云っては悪いのですが共産党の怖さ、爆撃の悲惨さを経験して居るいる大人も多く、子供がじゃれていると言う感じを受けた人が多いと思いました。

しかしあれだけの気概が学生から消えてしまいました。当時の人達が今どのように考えているのかは判りませんが「真面目」で有ったのは間違いないでしょう。

その年代の人達が60歳で現在の社会の「頂点」に居ることは間違いありません。影響を受けた人達が中枢を占めてきた?どの様にこの世を考えて居られるのか知りたいですね。

投稿: 猪 | 2009/01/18 10:18

最近テレビではお呼びが掛からなくなったようですが、相変わらず馬鹿馬鹿しい本を書いたりしている森田実なんかが過激な活動家として活躍していた時代ですね。

投稿: | 2009/01/18 10:51

当時小学生だったと思いますが、大学生が何バカな事やってんだろうと思ってTV見てました。
上の世代に反発を抱くのは下の世代の特権ということで、まあ、何というか其れが主因なんだったと思います>私の場合

投稿: KAZ | 2009/01/18 12:19

テレビで見ました。
安田講堂の事件は私が幼いころの話なので、歴史でしか知りませんでした。
テレビでもところどころしか見なかったので彼らの主張を知りたくて少し調べてみました。

大学の自治や授業料の値上げ反対、ベトナム反戦運動など暴力で立ち上がることではないでしょう。

結局のところ、大学入学者10%の時代のそれも東大をはじめとする高偏差値の学生が扇動した事件であるということですね。

彼らは、小さいころから素直な子供で先生や親の言うことをよく聞いたのでしょう。
大学生になってから反抗期が訪れ、社会や国に反抗したいと感じたのでしょう。

家で親に反抗するくらいならいいのでしょうが、大人になってから社会不安をあおるような反抗はいかがなものかと思います。

また、目先の主義思想に踊らされ幸せになれるかどうかも分からないような社会主義思想に感化されているようでは、素直な子供の域を抜け出ません。
大人ならだまされませんね。

結局、自己中心的な対立で同志を粛清といって虐殺しだす始末です。
この連合赤軍事件は、私もテレビで8時間以上釘付けになって見ていました。

その生き残りがいまだに反抗期を終えず、社会が悪いのは他人のせいだと文句ばっかり言うのが政治家になっているように思います。

社会が悪いのかどうかを判断し分析する能力が無いものがなぜこの社会を良くすることが出来ましょうか。

社会党なんていうのはそういった意味では、甘ちゃんの子供集団でしょう。

投稿: 野良犬 | 2009/01/18 16:00

私の知人に天安門事件を経験した人がいます。
当時たまたま中国に留学していて事件を目撃した人です。
そういう人は沢山いるはずです。
あの運動は、一般市民や教師の支持もあり、誰もが解放軍に怒り、学生に同情していたようです。
私も、若者が戦車に轢かれたり、銃で撃たれて血を流す映像を何度も見ました。
当時、独裁国家にあって、学生達が政治改革を求める事には道理がありました。
彼らは文字通り「命」をかけて闘ったのです。
いまだに理解できないのは、自由で民主的なこの日本にあって、なぜ人生の多くの先輩方が、共産主義の革命を目指し、現在に至っても極左活動(実はただの反日活動ではないか?という疑いを持っています。)を続けているのか?という事です。

投稿: 匿名 | 2009/01/18 16:45

先日再現ドラマがあってましたね。
僕はちょうどあのころ大学生でした。
僕自身は当時流行っていたフォークソングのバンド活動をやってました。
メッセージ性の強いグループを馬鹿にして、ラブソングを作っては歌ってました。

先日のテレビを観て考えたのは、やはり僕らと同じで、彼らも熱に浮かされていただけなんだ、ということです。
そして僕らのほうがまだ人様に迷惑をかけていなかっただけましだったんだと、確信しました。

昔の学生運動をまるで部活の思い出のように語る反省の無い馬鹿や、未だに世界が見えず、ゆがんだ左翼思想にすがり付いて国益を損ねている連中を見ると、反吐が出る思いです。

僕自身はやはり戦争体験を持つ親の世代の考え方に強く影響を受けました。

結局は、なにごとも「本物」だけが残ってゆくんだろうなあ。

投稿: とんぼ | 2009/01/18 23:49

 権力がどのように動くものかを教えてくれたのは左翼の人達ですわ。
 同時に、あたくしは共産主義には疑念を持っておりました。
 一般論的に言いますと、あたくし「組織」というものにあまり信頼がおけませんの。

 「草の根運動」というのがございますね。個々人の意思の集まりは素晴らしいとは思うのですが、残念ながら普通、有効な政治力を持ち得ませんでしょ。
 パワーを持つには組織が必要で、財政的基盤も必要です。
 ところが、組織というのは一旦できてしまうと一人歩きし、肥大、延命を図るものです。まるでそれ自体が一個の生命体であるかのように。

 そういう中、「敵の敵は味方」のように、ある意味節操のない運動方針が示されたりします。
 結果、当初の目的さえ忘れ、肥大延命を図る性質だけが残されてしまうことも稀ではないと思いますの。自己チェック機能が働きにくいのです。
 これは官僚機構や、時代に合わなくなった特殊法人みたいなもので、そこにあるのは既得権益の擁護なんですね。一党独裁の行き着くところを想像するのは容易です。

 そういういうわけで、あたくしは当時で言うノンセクトラジカルにしかなれませんでしたわ。

投稿: A子 | 2009/01/19 03:13

皆様の当時の回想で、それぞれの御年 or 年代が判り、
以前のコメント対照させ、成る程と思ってしまいます。

私は当時、中学生でしたので、大学生って政治活動をするんだ?
程度しか考えませんでした。その後の浅間山荘事件をTV・新聞で
見て、「戦争ごっこ」で日本を変えようと考えていたと知り、大人に
見えていた学生運動家が幼稚園児の様に思えたのを覚えています。
周りの大人達は、一生懸命働いて家族を養い、子供を学校に行かせるので
大変だったのを同じ様に見ていたのに何故、革命が起こせると考えたのか
不思議でした。

この世代の、社会について本質を考え様としない愚かさや無責任さが、
社会を維持する中核の世代となった今、社会の混乱を引き起こして
いるのかもしれませんね。

投稿: ムフフ | 2009/01/19 09:19

 あたくし、ムフフさんって嫌いです。だって、あたくしの書いたあとにすぐ、年代だのトシだののお話をなさるんですもの。
 あたくし、実はもっと若いかも知れませんし、本当は男かも知れませんわよ(あるくだらなくも面白いサイトの、自称韓国人のブログ主から「A子は女ですが男かもしりません」と言われ、あまつさえ、右翼のレッテルを貼られました)。

 ま、それは冗談としてお聞きいただくとして、組織を持たない運動はなかなかパワーを持ち得ず、一方で組織にはすでに書きましたような問題点があり、これは永遠のパラドックスのような気がいたしますの。
 落ち着き先を求めて飛び交うネット上の意見をうまく集約できるような受け皿としての、自己チェック機能のあるような組織さえあれば、すぐにでもあの宗教関連政党に匹敵するぐらいの勢力はつくれるように思うんですけれどね。

 なにか、いいアイデアはないものですかしら……。ムフフさん、本当はいつも、楽しく読ましていただいております。

投稿: A子 | 2009/01/20 03:36

「野良犬」氏 のコメントに共感します。
腐った保守は勿論社会に有害ではありますが、観念的理想主義者も同様と考えます。
革命という幻想を見たら最後、まるで薬物患者の如くであります。浅間山荘事件以後、鉄パイプを振り回して、セクト争いをしていた過激派でなくても、シンパシーを感じた連中が日本社会の主要な部分に幅広く潜伏していったわけで、特にマスコミ界の左系化などは、容易にうなづける話です。
さて、右でも左でも日本国の利益を第一に考えての事ならば議論もよろしいのではありますが、いかんせんこの国の左系団体は、一部特定他国の利益を優先させるべく行動しており、これは承認しがたいわけであります。

投稿: 冬陽 | 2009/01/20 10:22

NHKで特集した番組を見ましたが、
当時の全共闘が「東大こそが侵略的帝国主義の象徴であり、東大をぶち壊すことが革命に繋がる」とか、「天皇制をなくすことで日本は再生する」と信じ込んでいたなんて驚きです。
そんな幼稚な論理に彼らはなぜ酔ってしまったんでしょうか?
それもまた「若さゆえ」だったんでしょうか?

投稿: お笑いお花畑 | 2009/01/20 11:40

自分は生まれてすらいなかった、
バブルの終焉が青春の始まり、の世代です。

安田砦攻防戦~連合赤軍事件は、
実際に関わった人達からお話を伺う機会もなく生きてきました。

諸先輩方の貴重なお話を伺えるのは、
とても勉強になります。

投稿: 中医 | 2009/01/20 12:31

坂さんの総括(良い意味で)聞いてみたいですので楽しみに待っています。
この全共闘一つだけ良い意味が有ったとしたら人を煽って操って一部の誰かを満足させる為に思想その他が利用される判り易い見本を示してくれた事です。
幸いな事に国家やその他「日本」を伝える文化や教養や特色はそういう荒波の中残っているのでこれからも残せる様に研鑽していく事が一人一人の使命ですね(目にも見えないし褒められもしませんが
これから日本国旗も掲げきれない野党が政権担う可能性高いのですから思い返して色々模索していきたいです。

投稿: 五月雨祭 | 2009/01/20 18:43

私はあの頃子供でした。

テレビで安田講堂の様子を見て、

「機動隊や警官は学生を傷つけることは許されない。一方、学生は命を危険に晒す事もなく「反権力ごっこ」で機動隊や警官にやりたい放題(その後、浅間山荘事件やよど号ハイジャックなどでは民間人を巻き添えにする)。警察はお前ら学生の遊びに付き合わされて負傷されたり殉職されたりしてるんだぞバカヤロウ!」

と子供心に思ってました。

ダッカ空港ハイジャック事件では過激派の超スーパーウルトラドヘタな英語に顔が真っ赤になっていました。母はブラウン管に向かって「ヘタクソ!」と怒鳴っていました。イスラエルの建国50周年記念では岡本公三が殺した罪のないイスラエル市民の血まみれのパスポートを見せられ、日本人として心底申し訳ないと思いました。

今でもあの時の連中は最低だと思っています。幸せな子供時代でしたが、あの頃を思い出すたびに甘えと自虐、平和ボケ、戦前世代の否定など当時の雰囲気を思い出して吐き気がするのです。

投稿: おれんじ | 2009/01/20 23:14

私は小学生だったので、安田講堂については全然記憶にありません。後に、ニュース番組などで知った程度です。当時、一生懸命活動していた人々には悪いのですが、暴力を使っても既存の社会を壊して、自分達の思想に従った理想郷を築こうとするところは、「オウム」に似てるような気がします。赤軍のアジトが、サティアンですね。オウムが実際にやっていたことが陰惨なのに、そのもとになる考えが実に行き当たりばったりだったところも、学生運動に似ていると思います。医者や弁護士、科学者など既存のシステムにおける所謂インテリと呼ばれる人たちが加わっていたことも似ています。

革命であったり、新興宗教であったり、形を変えてはいるのですが、もしかしたら、長い歴史の中で、現れては消える集団ヒステリーのようなものがあるのかもしれません。誰か(あるいは団体)が、扇動して始まるのでしょうが、あっという間に広がって、はじめた本人も手がつけられなくなったりするわけですね。熱病みたいなものでしょうか。

今は、インターネットもあり、多くの人が情報を得ることができ、理想と現実をあっという間に暴きだしてしまうので(派遣村のときのように)、そういう熱病は、一過性のもので終わるのかもしれませんね。

投稿: ゆみこ | 2009/01/21 00:02

私は60年安保闘争の時に大学生でした。ノンポリの私が教室にいたら先生に何故君たちは(デモに)いかないのか?とハッパをかけられました。とても大勢(百万?)のデモでしたが整然としていました(どこかで一人亡くなりましたが)。

蛇足:私の友人はデモのリーダー的な役割でしたが、その後大蔵省に入省しました。節を曲げたわけですね。その後大分経ってから問題を起こして退職せざるを得なくなりましたが、ずっと民間企業で活躍しています。よくわたりはイカンとか言いますが、彼は仮にわたっても私は納得出来るほどのリーダー的な人でした。

時代は徐々に高度成長期に入っていたのだと思います。流れに竿さす学生運動は次第に疎まれるようになり、反比例するように過激になりました。ご存知の通りです。なんであんなに過激なんだと会社員の私はいぶかしく思っていました。過激な闘争が終わってからは学生運動は衰退の一途をたどり、現在では学生さんは皆さんがノンポリのようです。

安保闘争の当時米ソは対立していました。ソ連に勢いがあった時代で、私も内心では社会主義(共産主義よりは社会民主主義)に憧れていました。ですから大蔵省に入るなどは学生の意識としては裏切り的でした。その後ケネディ大統領の暗殺がありましたが、次第に米国が強くなり、ソ連の衰退が起きました。日本の高度成長も順調になりました。

政治外交面では米国一極集中と日本の左翼勢力の衰退が起きました。このブログではこの時期が大きなテーマですね。

一極集中に多少疑問符がつき始めました。国内では高度成長が終わり(むしろ低迷が始まり)、古い指導層(自民党と官僚)が抵抗勢力としか見えなくなりました。左翼批判よりも抵抗勢力批判が必要に見える時代です。ここ何年か続く日本の低迷を跳ね返すためにも。

投稿: KappNets | 2009/01/21 14:02

安田講堂は小学生前ですので全く記憶にありません。
再現ドラマを見ましたが、あれは事実に近いんでしょうか?
演出なのかわかりませんが、学生達がずいぶんヘタレに表現されてましたね。(汗)
それにしてもA議員。なるほどな、という感じでしたね。

投稿: Yu | 2009/01/21 15:42

阪さん。私は1952年生れなので、多分貴兄と同じではないかと思います。私も貴兄と同じく東大安田事件を見て高校全共闘を作り、後にBUNDに飛び込んだ者です。高校生で一回被逮捕歴があります。高校ではバリケード封鎖を試みて失敗しました。
私たちの世代は遅れてきた少年の世代で、東大全共闘の多くが復学し、エリートに復帰したにもかかわらず、私たちの多くは、この私も含めて長く工員や日雇いを放浪しました。友人で自殺した者もいます。
そしてBUNDも、内情といえば、ご承知のとおりです。はびこる内部暴力、リンチ、女性活動家に対する凌辱の数々。常に内部にしか向けられない「革命的暴力」(苦笑)。
阪さんはどこかで、連赤が運動から降りるきっかけだと書いておられました。私もまったく同じです。ぜひ、あの事件を分析してみて下さい。あれこそが、かつての少年たちが狂おしいほど憧れた共産主義そのものですから。
それなくしては、単なる私たちの世代の青春ノスタルジアでしかありません。ノスタルジアは誰の心にも響かないのではないでしょうか。

投稿: ホーボー | 2009/01/21 16:46

学生運動のことはよく知らない、連合赤軍リンチ事件ぐらいかな。左翼運動にはソ連からの支援もあったとか?三島由紀夫の自決事件が鮮明で、今なおその死は重さを持っている気がする。
 で、トピずれになりますが・・・マルクスとユダヤ問題について。最近、天木直人氏が「オバマ大統領の側近にあまりにユダヤ人脈が多いのに失望したが、それでも期待する」趣旨を書いていた。また、例の原爆投下とその決定に関わった人々にユダヤ人が多いのも気にはなる。
 現在はとかく「ユダヤ人批判」は即人種差別とされ、特にアメリカではタブーとなり、業界で干されたり、逆差別もあるよう。
しかし、ルターやドストエフスキーのユダヤ人批判は、とても偏見とは見えない程、実体験に基づき、切実さがあり、また率直で説得力があると思える。要するに、ユダヤ人批判というより「ユダヤ教批判」に近いようだ。それで、マルクス自身、ユダヤ人ながら「ユダヤ人を嫌った」の意味が解ける。トルーマンもユダヤ人の力で再選できたが、本音はユダヤ人批判を綴っていた。
どの国にあってもあれだけの独自性を保ってきたのは、第一に、その強烈な選民思想にあるのは確かだ。が、ルターやドストエフスキーが訴えたのは、それ以上に「彼等の方こそが、ユダヤ教徒以外を酷く差別している」ということだ。その裏付けはタルムードに明記されている(異邦人は人間と見なさない、というような!)もちろんルターは迫害を肯定しない。
 それで、マルクスは「ユダヤ人の解放は、その究極の意味において、ユダヤ教からの人類の解放である」と言ったわけだが、果たして、「ユダヤ教からの解放」としてのキリスト教の意義を考察したのだろうか?大いに疑問だ。宗教自体の否定となった。
 

投稿: 朝日ウォッチャー | 2009/01/21 23:57

>坂様、皆様が色々とコメントしていらっしゃるのでもう少し追加コメントさせてください。

先ず、A子様、女性特有の言葉と言い回しを多用していらっしゃるので、色々と論議が起きてしまうのかもしれません。
国際政治や社会一般を議論する際は、世代や性別等を意識しておりまませんが、その御意見・御見解の形成について分析する場合に意識してしまうんです。気に障られたらすみません。

さて、A子様の組織論ですが、確かにこの二律背反は根源的で解消されないものでしょう。古から続く組織は殆どが宗教組織であり、キリスト教やイスラム教、仏教等に関する組織を考えますと、教義と組織目的の特殊性に因り、勢力を維持している様に思います。典型例はローマ・カトリック教会でしょうか。

それにしても、宗教に拠って政治を行う国々は、20世紀までに没落して行き、国際社会を主導する地位に戻る事は無いように思います。中国も儒教的社会規範(一党独裁などは将にそうです)の払拭ができなければ、内部崩壊に至ると考えます。

それで、20世紀はイデオロギーの世紀であったと言えるのではないでしょうか? ここに来られる方々は20世紀後半を生きたその証人ですが、如何でしょうか? そして、21世紀は何の世紀となるのでしょうか?

残念ながら、21世紀が何の世紀となるのか見届ける事が出来る方は、誰もいないので、議論のみですが。

投稿: ムフフ | 2009/01/23 09:11

koppnotsさん・ホーホーさんと学生として当時を生きた人の声を聞いた気がします。
「当時」を振り返ると、私の年代で見ると「戦争ゴッコ」でパチンコで撃ち合い(当たると大怪我です)隣接する学校と喧嘩をする。大学生が思想が合わないからと「共産思想」で武装して権力を相手に「理屈」を付け大人が面倒見切れない放任された世代の「大学生」が食べる心配も必要なく人の迷惑わ考えず国民学校生・小学校生と同じ感覚でやって居たんでは無いかと思いました。

自力で商売をして居る人間にも色々の人はいるでしょうが、私の場合はお得意さんが東京に有り殆ど商売にならず心から憎しみを感じたものでした。
「あさま山荘」で逮捕された犯人が警察官に蹴飛ばされた場面を見ても「もっとやれ」と煽って居たぐらいで坂さんには叱られそうですが「殺せ」と思いました。

又私は「共産主義」が何故良いのかも理解出来ない。三国人と共同で日本人を傷めつけた現場を見ているので共産主義者の戦後の暴虐・陰険さにはホトホト嫌な感じを受けて居ました。それも加わり彼等を理解出来ず、今でも当時の有名人がテレビで理屈をこねているとスィッチオフにするので家族には嫌がれています。
今でも自慢げにテレビに出る人には嫌悪感を覚えます。

投稿: 猪 | 2009/01/23 10:59

マスコミ界に潜伏しているサヨクも問題だが、宗教界わけてもキリスト教会に隠れた連中が問題だ。「性奴隷」だなんてデッチ上げをして日本の評判を落とすことに躍起になっている。

投稿: ブッダ | 2009/01/24 03:24

 「安田砦攻防戦」以降に生まれた者です。
 記事とは関係ないですが、少し前にテレビで学生運動をして、自分の自分の行動を「若気の至り」と何の屈託もなく明るく笑いながら言っていた元左翼。普通にサラリーマンになっていた。
 重信房子が逮捕されて日本に移送されたとき、満面の笑みでカメラに向かってピースサインしていたこと。
 親と無関係と言われればそれまでだが、その娘、重信メイがジャーナリストとして日本で生活していることとそれを箔付けにしているようなマスコミ。
 自分たちのケツをその他日本国民に拭わせて逃げるな。左翼は自分たちの犯した罪を償ってはいないし、そもそも悪いことをしたなどとは露程にも思っていない。
 この手の左翼連中の無責任さ・意識の希薄さには見ていて腹が立ちます。

投稿: 粉雪 | 2009/01/24 12:52

ムフフさん

 レスありがとうございます。

 宗教組織は歴史的にも権力と結び、あるいは権力そのものとして振る舞ってきましたわね。
 信者は教団への忠誠心が高く、またお布施や寄進などにより、経済基盤も安定しております。
 共産主義の「宗教は阿片」にしても、さまざまな見方や理由づけがあるにせよ、根本的には、宗教団体が政治的に力を持つ組織であり、革命の邪魔もしくは敵だったのだろうとあたくしは思います。

 お金のかかる宗教ほど内容が怪しく、ときに教祖やトップに近い人々の懐を潤すだけの組織であったりしますが、一般論としても、純粋な教義以上に権力奪取への意欲が強く、場合によっては組織が権力の座につくこと自体が教義の重要部分になります。
 教団内部に疑似国家機構を持つオウム真理教(現アーレフ)などはその典型例ですし、創価学会も池田さんが会長に就任後、その意思が鮮明になったと思いますことよ。
 死後の世界などに拘泥せず、現世利益を求めるという立場は経済との結びつきが強く、これはとりもなおさず、権力指向が強いということですわね。

投稿: A子 | 2009/01/24 19:24

>> ムフフさんへ、今晩は。
横ですが(宗教の話になるとつい口を挟みたくなるもので)

> それにしても、宗教に拠って政治を行う国々は、20世紀までに没落して行き、国際社会を主導する地位に戻る事は無いように思います。中国も儒教的社会規範(一党独裁などは将にそうです)の払拭ができなければ、内部崩壊に至ると考えます。

「宗教に拠って政治を行う国々」って、そんなにありましたっけ? イスラム教国はそうだろうし、インドも昔はそうだったのかなぁ?西欧キリスト教的国家にしたって、「宗教による」部分もあっただろうが、全体としては言えないと思う。
 所謂世界宗教のうちのイスラム教を除く、キリスト教・仏教は、元々政治色は極めて薄く決して世俗権力を求めるものではなかった。元々から政教分離の性格だったはず。まあ、カトリック教会はかなり権力を持ったりしたわけですが・・・
しかし、近代に入ってから民主主義が重要となり、それにつれて政教分離の原則がより当たり前となった、ということでは?
(元よりキリスト教・仏教では本来の姿に近いはず)
「中国の儒教的社会規範」という場合の儒教は、本当に宗教と言えるものか?という議論もあるし、実際、かなり形骸化していたと思う、朝鮮ではよりその傾向が強かった。
現在の一党独裁体制については、宗教とは直接関係のない形の関連位。あくまで儒教の中の身分的な要素は体制への妥協の産物だと思っているので。
 さらに、イスラム教では、最初から政教一致なわけで、これは世界宗教としては甚だ疑問となる(教条的で頑なとなる)。
日本の神道でも仏教でも儒教でも、かなり緩い組織だったのでは?そして神道の最大の祭主ともいうべき天皇は、やはり世俗権力から離れている場合が多かった(最大権威だが)

> それで、20世紀はイデオロギーの世紀であったと言えるのではないでしょうか?

社会主義などはイデオロギーだろうが、宗教全般をイデオロギーとするのはどうか?という問題もあると思う。
(イデオロギーとは?という問題はかなり大変なようですが)
政治体制・思想と関連されて言われているので、イスラム教などはイデオロギー的要素が強い、とはいえると思います。(但し、世界観というような意味では、当然、全宗教が含まれる)
なにしろ・・・ネット上でも「宗教やイデオロギー」といった表現が目立つわけだし・・・
 また、注意しなければならないのはカルト・・・邪教と呼ばれるほどだから、一緒にして論じることはできない。但し、区別が難しい場合はある。

前投稿で「ユダヤ人批判というよりユダヤ教批判」の話をしたのは、そのカルト性の(部分)を指摘したかったわけです。
ナチスや共産主義のカルト性を論じるのは重要だと思っています。もちろん個別の宗教についても欠かせませんが。

投稿: 朝日ウォッチャー | 2009/01/24 20:57

>> A子さんへ
今晩は、どうも自分は宗教擁護の立場のようですw
・・・横からすみません。

> 宗教組織は歴史的にも権力と結び、あるいは権力そのものとして振る舞ってきましたわね。

権力そのものとして振舞ってきた例は、確かにあります。
が、世俗権力から独立であろうとした努力はずっとあった、と認識します。そういうものは目立ちにくいものですが、かなり広いものだった。
「宗教組織は歴史的にも権力と結び」よりも、「世俗権力が宗教権威を利用」であり、勿論結託した例もありますが―――それは、常に堕落と見られてきたし、また「協調関係」というのもあります。西欧キリスト教的世界では、日本よりも権力との関係は強かったかも知れませんが、やはり、「(世俗的)権力と宗教的(或は道徳的)権威」の二本立て・・・という体制だと思います。
基本的には独立を旨としていたからこそ、協調・癒着・対立の歴史だったのだと・・・
また、注意すべきは・・・権力そのものが悪ではなく、権力の横暴が悪なわけで、それと独立した道徳的権威の存在は、やはり大きな役割りがあったという見方も必要だと思うわけです。
また、常にフィードバック(原点へ返れ)や改革といった、腐敗・堕落の改善運動があったわけで、修道院運動が有名ですが、教皇自らが参加したものもあり、また、全体から言えばルターの改革などは有名なものです。

宗教が権力を求めるのでは無く、人間の性が権力を求める。ということだと思う。キリスト教でも仏教でも、本来そういうものから独立した存在を志向すべきものなのは、明らかだと思う。

イスラム教やヒンズー教などは別だろうが。

> 信者は教団への忠誠心が高く、またお布施や寄進などにより、経済基盤も安定しております。

これは、はっきりいって誤解だと思います。
創価学会は当てはまりますが、レッキとしたカルトです。
そのような捉え方は、宗教というよりカルトに当てはまると。
重要なのは「信者は教団への忠誠心」ではなく、信仰そのものの方が大事であり(神への帰依というのも語弊があるかも知れない)、もし「信者は教団への忠誠心」ならば、クリスチャン以外は誰も安心して、麻生首相支持なんかとてもできません!
また、その信仰自体も「その信徒以外も同様に含めた幸福を志向する」ものだからこそ、安心できるところは大きいわけです。
御布施や寄進にしても、あくまで自発性を旨とすべきもので、強制的になればカルトだろう。

> 根本的には、宗教団体が政治的に力を持つ組織であり、革命の邪魔もしくは敵だったのだろうとあたくしは思います。

これが、むしろ最大の疑問なわけです。
キリスト教こそは、共産社会を維持していた先例があり、世俗権力からの独立を志向し、差別を批判し、平等を志向するもの。むしろ共産主義の協力者になる要素の高いもの・・・宗教否定さえなければ、という感じは強いわけです。ましてや弾圧迫害虐殺なんてとんでもないはずです!いや、確かに「権威」は確かにじゃまか(その当時はそれ程大きな権威では無くなっていた)、・・・つまり、あくまで唯物論にとって邪魔という要素がつよいが、思想信条の自由の完全否定であり、れっきとした人権侵害の要素を初めから有していた、あまりに酷い!
・・・ということで、キリスト教社会におけるユダヤ人差別という見方も、かなり一方的では?ということを問いたかったわけです(以前の投稿では)。

投稿: 朝日ウォッチャー | 2009/01/25 22:38

>坂様、皆様

小生の文章に不備が有って誤解を受けた部分、それと説明が不足していて不充分な指摘となった部分を補足させてください。

まず、小生は宗教とイデオロギーは区分しており、同一視はしておりません。「それで...」とした接続詞が不適切で、本意は「宗教に拠って政治を行う国々が終焉を迎えており、且つ、イデオロギーが前面に出て来た世紀」と云う意です。
... ~ 19世紀はイデオロギーが宗教を克服する世紀とでもしましょうか。

また、宗教に拠って政治を行う国々とは、イスラム圏を指し、13世紀迄の最盛期から衰退して行き、国際社会の主流には戻れない意で没落と記してます。

次に、中国の統治原理は何に拠っているかの考察の詳細を記していない為、本意を伝えきれていませんでした。それは、統治側と被統治側で共有する統治の正当性に他なりません。小生の考察は、現在の共産党指導の正当性は、受命思想(天命思想)と儒教思想の一部と結び付いて理論付けされており、社会そのものの枠組み・仕組みについては、何の理念も無い様に考えます。
...だから中国社会主義的市場経済の実施が可能となった。

同様の統治結果は、国民社会主義○○○労働者党(通称は名知巣)に率いられた欧州の大国に同様の例が見られます。
反日ならまだしも、統治の為の反米が熱狂的支持を受けると、いわゆる中華思想に因り、衝突コースから戻れなくなります。
但し、そこまで国としてのまとまりが維持できず、先に分裂してしまう可能性の方が高いと見ますが。

投稿: ムフフ | 2009/01/27 10:12

>> ムフフさんへ、

前回、かなり失礼な書き方になったかも知れません。
丁寧な説明有難う御座います。
A子さんへも・・・お詫びします。(特に最後の方は混乱した書き方になってしまいました)

> 本意は「宗教に拠って政治を行う国々が終焉を迎えており、且つ、イデオロギーが前面に出て来た世紀」と云う意です。

宗教自体のことではなく、宗教に拠って政治を行う(こうなればイデオロギー的になるとは思いますが)に関して・・・ということで、この表現なら賛同できます。

> ~ 19世紀はイデオロギーが宗教を克服する世紀とでもしましょうか。

「克服」という表現が引っ掛かりますが、シツこくなるのでこのへんでw

> 宗教に拠って政治を行う国々とは、イスラム圏を指し、13世紀迄の最盛期から衰退して行き、国際社会の主流には戻れない意で没落と記してます。

これも了解。自浄作用も鈍くなり、教条的になってしまうからと思えます。まず民主主義が確立されない。それにしてはかなり急激に広まったものですが。

> 社会そのものの枠組み・仕組みについては、何の理念も無い様に考えます。...だから中国社会主義的市場経済の実施が可能となった

坂さんが仰ってた、共産主義の理念をあまり理解していなかったのでは?と重なると思いますが・・・それだけに伝統的な天命思想・儒教思想と重なった部分があるということでしょうか?なるほどそれはあるかも知れません。ただし、宗教としての儒教・伝統文化としての儒教は失われた(奥地には残っているかも知れませんが)と思っています。

> 反日ならまだしも、統治の為の反米が熱狂的支持を受けると・・・

確かに、危機的状況までに分裂・民主化に向かえば、まだ幸いですが、このまま突っ走っていくと、ニッチモサッチも行かぬ中東情勢と合わせて、まさに世界的大危機となると思います。

(なお、前回の投稿では、各々の宗教を差別するつもりではなく、あくまで明らかなカルト・カルト性とははっきりと区別すべき・・・の意図です。なお、自分はユダヤ人には、非常に感銘を受けることが多いです)

投稿: 朝日ウォッチャー | 2009/01/27 23:19

>朝日ウォッチャー殿

宗教に拘りをお持ちの貴殿ですので、もう少しコメントを追加致しましょう。

宗教に拠って政治を行う事はイデオロギー的になるとのご意見ですが、果たしてそうでしょうか? 宗教の拠って立つ所の本質は、その教えを無条件に信じる事です。従いまして、原点が人間の知性が作り上げたイデオロギーとは、明確な区別があります。

例えば、「汝の隣人を愛せよ」との教えの原則に、何故そうなのかの解釈は有っても、その原点はその教え以上に遡る事は出来ないのです。(教えの他の部分で説明している場合を除いて)

もし、その解釈が正統である事を主張するなら、それを教義とした新たな分派宗教の始まりでしょう。(多くの宗教は、この様にして分派して来た)

もちろん、イデオロギーもその様にして分派して来たのでしょうが、原点は人間の考えたロジックですので、正否を問う事が出来る点で宗教とは違うものと考えます。

それと、中国につきましては、貴殿は中国に住んで暮らした経験が有って、
> 宗教としての儒教・伝統文化としての儒教は失われた(奥地には残っているかも知れませんが)
と思っているのでしょうか? 小生の短い駐在経験でも、儒教的な考えや習慣は至る所に現れている様に見聞きしましたので、甚だ疑問です。
[例示]
◇現代でも、親の意に逆らえないと刷り込まれている人達が多数です。(キチンとした家庭の中では具体的に逆らう人は少数でしょう)
◇組織における人材の配置は、そこの長はお飾りで実質的にはそこの次任者が取り仕切る様に配置されます。(もちろん其処の長はお飾りでも権限は有りますので逆らう事はできませんが)

こんな社会の枠組みの基本的な部分で、儒教的要素を見ることが出来る中国は、儒教に大きく影響を受けている社会と言えるでしょう。

投稿: ムフフ | 2009/01/28 10:58

>> ムフフさんへ。
> 宗教の拠って立つ所の本質は、その教えを無条件に信じる事です。従いまして、原点が人間の知性が作り上げたイデオロギーとは、明確な区別があります。

イデオロギーの話は(範囲の幅が広く)とりあえずおいといて、
「無条件に信じる」は盲信に近いかも知れませんが、大抵の人はそのように捉えているようですが、自分は嘗てそのように捉えたことは一度もありません。宗教者の中にも盲目の信心はカルト的と思う人もいる。また、信心の条件も必ずしも理性的なものとも限りません、いや、むしろ理性だけではだめだろう。しかし本当の宗教は理性を蔑ろにはしない、むしろバランスが重要でしょう。
 本当の宗教は何ら信じることを強制はしない(力づくや威圧的ではない)。ただ「信ぜよ」という促がしはあるだろう、それは、自然な信頼関係での道・行としての「まず信じてやってみろ」というような、よい方向での行動や勇気を促がす面はあるだろうが。しかしそれでも、理知的若しくは心情的に納得した上でのことです。こういうことはスポーツでもあるんじゃあないですかね。元々内面のことが重要だから到底強制できるはずもなく、却って反発するのが性。あくまで「精神の自由」が人間性の基礎だから、これは暗黙の了解のようなもの。また、自ら未熟を自覚している場合、信頼できる人や宗教を信じてやってみようというのは結構多いはず。
 一般的に宗教者を見れば、盲信的に見える場合が多いかも知れないが、少なくとも世界宗教を全体的に、また歴史的に見れば、全く違った世界がある、知性において何ら劣るというわけではなく、いや、むしろ人間の内面の考察においては、むしろ驚くべきものがあると認識します。宗教を信じている、と言っても生涯の内では、幾度も懐疑を繰り返すのもむしろ普通。
「疑って疑って、否定して否定して残ったもの」それが信仰だったりするわけです。特に聖書では、無条件に信じる、を肯定しているとは到底思えず、却って知性の大切さも押さえていると思っています。
 (取り止めも無くなりましたが、一応、ここまで)

投稿: 朝日ウォッチャー | 2009/01/29 00:15

> 坂様、人気プログとの事で何よりです。
今後の参考になるのでは? と思いますので、もう少しコメントさせてください。

>> 朝日ウオッチャー殿

レス、ありがとうございます。それで、貴殿の見方に対する小生の考察をコメントさせてください。
内容として、上から目線とか傲慢・決め付けと思うかも知れませんが、今後、宗教について何らかの経験をした際に理解される事が有ることを願うものと御理解ください。

さて、貴殿のコメントは日本人に良く見られる宗教への態度を表した典型例と見受けます。日本人の間での狭い範囲の議論に終始するのであれば、他の世界を知る必要は無いのですが、国際社会に続く議論をする方としては、理解が浅いと受け止めるべきです。

小生が宗教を意識したのは、社会人になって暫く経った頃、スポーツを通してオランダ人の神父と知り合いになり、色々と話した事がきっかけでした。その神父さんは非常に日本語が上手で、その事を誉める?と逆に、「貴方が日本語を話している年月より、私の方がもっと長い間く話しているのですよ」と切り返されました。欧州から派遣されて約50年間も日本に居て、日本語を話していたとの事。そして、80歳近くなった今、日本を離れて故郷に戻るつもりだと。大学を卒業後に教会に入り、布教活動を続けていたと聞き、御両親は? 友達は? と尋ねましたら、「もう、とっくに神の元に召されていて、独りです」と。私にとっては、何故そのような道を選んだのか疑問であり、それを尋ねたところ、ただ一言、「それが神から私に与えられた使命です」と。

そう、神の教えを人間の知恵や知識で「適否」や「是非」の判断をして従う事は、神を信じる態度ではないのです。日本人以外では一般的にそう言われると思います。そして、そのような態度は無神論者の態度だと。ヒンズー教徒とは話をした事がありませんが、イスラム教徒やキリスト教徒(カトリックやプロテスタント、東方教会は経験無し)と話した経験からは、そう理解しております。極端に言えば、神の秘蹟を信じるのか否かだと。

それで、神を信じるから、神の教えを信じる、或いは守ったり戒律を守るのです。 宗教をよく考えてますと、宗教とは神と神を信じる者から成り立つものです。そして、信者が人間の存在と同等以上に神の存在を信じるのが、宗教の原点と理解すべきです。教えのみを人知で判断し、信じるのは宗教と言えるのかと。ですから、儒教は宗教として取り扱いきれず、儒教的との表現が出てくるのです。仏教では神となる主体は様々で、仏陀であったり菩薩であったり、法(輪廻の元となる、ダルマ、ことわり、真理)

無宗教と言われる日本では、天皇の正統性を無条件に受け入れる方々が宗教を信じる態度として一番近いように考えますか。

さて、朝日ウォッチャーさん、如何でしょうか?

投稿: ムフフ | 2009/01/30 17:17

ムフフさんへ、つづきです。前投稿表示が遅れたのでちょっと様子を見て、遅れました。取り留めもなくなったので少し整理してみます。

○ 宗教についての「その教えを無条件に信じる事」に関して。
「無条件に信じてみる」は、ある条件下ではあるかも知れませんが、決して「無条件に信じること」が本質的性格とは思わない。
また、盲信については、やはり古くから否定する議論の方が主流。「無条件に信じる」はむしろ、初歩的な現象か、若しくは、宗教的伝統を習慣的に受け入れたものに過ぎないだろう。
 ただ、深い信心は大きな確信に基づいているはずで、それは理性的な確信よりは、直感的な要素・洞察・悟りといった要素が強いと思う。芸術的感覚・確信に近いものがある。それは言葉では説明しきれないもの。よって、論証には適さないが、それでも多くの人はその大切さを知っているはず。芸術とはそういうもの、文学だって、決して言葉だけで説明できないものを示唆・表現しようとしているはず。だから、キリストや仏陀は多くのことをたとえ話で伝えた。しかし、決して理性を否定はしない、むしろ、両輪の片方としての重要さは押さえてある。(バランスが重要)
 哲学でも(現代でも)、少なくとも半分は宗教的といっていいと思う。現代芸術でもそうだ。哲学でも理性だけでなく、直感・悟性といった要素は欠かせないわけです。

○ 一神教の神という概念自体が、外部的には誤解の元とも言える。人間的なアニメのような感覚で把握すれば根本的誤解の元。
それならば、宇宙的意志とか知性とか汎神論とかの方がまだ近いだろう、キリスト教の「神に似せて人間を」というのも外形というよりは、その意志とか、知性とかについてが重要だと思う。
とにかく、(存在するとすれば)人智を超えた存在で、明確にはイメージし得ぬという方が正しいと思う。

○ 信仰者の「信仰に対する疑い」については、同じ宗教でも千差万別だと思う、個人差やまた一個人の生涯でみても・・・
人間だから、全く疑いが生じないということはないだろうが、それを超える確信があるかどうかの問題とすべきで、盲信ではなく、むしろ内面についての葛藤とその意識は大きいというべきかも知れない

     (儒教については、また後日)

投稿: 朝日ウォッチャー | 2009/01/31 00:29

>> ムフフさん
こちらこそご返事ありがとう御座います。ある程度は予想できたものですが、経験に基づかれた尤もな主張かと思います。

> 国際社会に続く議論をする方としては、理解が浅いと受け止めるべきです。

実は、仰るような面はけっこう知っていましたが、まあ、それで様々という表現なども使いました。が、舌足らずだったのは確かです。ちょっと複雑ですが・・・西洋のキリスト教的世界観というのは、実際かなり広大な広がりをもっていて、解釈も様々です。
キリスト教的哲学の世界では、とても「無条件に信じる」というような態度とは思えないということです。

> そう、神の教えを人間の知恵や知識で「適否」や「是非」の判断をして従う事は、神を信じる態度ではないのです。

その「神の教え」自体が既に人間によって解釈されたものだから、当然判断はなされるべきです。また。たしかプロテスタントではキリスト自体人間として捉える宗派もあるようだし。
● しかし、牧師さんがどうあれ、『神の教えを人間の知恵や知識で「適否」や「是非」の判断をして従う事は、神を信じる態度ではない』というのは、旧約聖書的にはあるかも知れないが、新約聖書では読み取れません(自分としては)。但しこの場合の判断には、理性以外の確信を含んだ場合ですが・・・
● ここで、注意すべきは、「確信」の場合、何も人智の範囲から生じるとは限らないということです。
● キリスト教にとって大切なのは、「人智を超えた存在としての神」を信じることの方でしょう。それさえも、哲学では「納得しないで」信じることではない、というのが本流でしょう(これは日本国の範囲ではない)。このような議論では、むしろそのキリスト教的哲学の方が重要だと思う。
 さらに、ルター的には牧師さんの説教よりも「聖書」自体の方が重要のはず。

というわけで、ムフフさんの主張される面は実際にあるとは思うが、それが全体でも本質でもないと思っています。

● ちょっとずれますが、キリスト教の本質を見る場合、「より徹底したキリスト教徒の生活求めたを求めた人々によって」(Wikipedia)中世全般に渡り広く行われた修道院生活にこそ、見るべきではないかと思う。少なくとも無視すべきではない。
● その修道院に関連して、キリスト教の孤児院のことも大きな意義があったと思うし、文学ではよく出てくると思うのだが、教科書には出てこない。
・・・先日、「昭和大恐慌再のエントリー」の話があったが、
Wikipediaの「孤児院」の項には、次のような説明があった。
>>1890年(明治23年)に発生した経済恐慌から1893年(明治26年)頃までの間の不景気の間にも、資本主義社会の急速な発達と社会福祉制度の不備から貧困住民が増大し、孤児や捨て子が大量に発生し、これらを救済する民間の孤児院が設立された。その多くはキリスト教系団体によるものであった。

第二次世界大戦後の一時期には戦災孤児が多く発生した。戦災孤児らの保護活動で最も知られた施設として沢田美喜により設立されたエリザベス・サンダースホームが挙げられる。(以上引用)

けっこう、こういうことって知らされないが、本当の宗教活動っていうのはそうした地道なところにあると思っています。

投稿: 朝日ウォッチャー | 2009/02/01 00:06

>> ムフフさんへ。

儒教に関してですが・・・ムフフさんも仰ってましたが、(自分もだが)、Wikipediaの「儒教」にも(以下)
>> 特に日本における論争のひとつに、儒教は宗教か否かというものがある。現在、儒教はあくまで思想論の一種であって宗教ではない、とする考えが一般的ではある。(引用終わり)
・・・となっていました。

自分としては・・・「>>孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた」(Wikipedia「孔子」より)の部分は、宗教的だと思う。当然礼節面が主体となれば、それは宗教ではないと思っています。

で、現代中国では、今世紀に入ってから再評価の動きもあるようだし(本音かどうかは知らない)、ムフフさんの説明も礼節面が主のようでちょっと実態が判らない。一方では「論語なんか誰もは読まない」という証言もあるようだし、どうも定かではない。とにかく外部から見れば、到底「儒教の伝統」は窺えないというのが実感だが、中共の歴史も半世紀ちょっと程であるし、坂さんの言われるところに基づけば、共産党の理念も徹底されていない・・・ということで、「ある程度は残っている」とすべきかも知れません。
ということで「破壊された」は言い過ぎでした。

投稿: 朝日ウォッチャー | 2009/02/01 00:28

坂さん、皆さん、連投で真に申し訳御座いません。この辺で切り上げたいと思っておりますが、最終のまとめをどうかご容赦願いたい。マルクス主義やナチスの出発点にこそ、この宗教に対する(世間的に知られていない)異常な態度が大きく あったと思います。よって、キリスト教に対する見方自体がその思想に対する見方を大きく左右していると・・・
●「無条件に信じることが真のキリスト教信仰」というのは、明らかに自己矛盾。なぜなら、たとえ話が多いことからも判るように、言葉だけでは表現できないものを伝えようとしている真理なるものを会得するのには、理性・直感・洞察・悟り・いや感情さえも必要だから。勿論実践という要素も欠かせない、それらの経験を通した確信こそが、言わば(ここで言うところの)信仰(を強めていくため)の条件、より信じるための条件(というより前提 、根拠)となっているというべき。
● また、よく言われるところの「クリスチャンの家に生まれたからクリスチャンというよりは、そうでない環境から信仰に至った方が・・・」といった言い回しも、盲信を否定するものと言えよう、
● 牧師には、福音を述べ伝える、といった役割りもあるだろうし、中世の教会自体には当時の西欧社会の道徳的基盤となっていた面があり、牧師がその教師的な面があっただろう。その場合、理屈抜きの躾といった性格に似た意味での、「無条件に信じること」の促がしは必要な場合もあろう。しかし、その程度を超えていたことも、またあるだろう。
● それでも、哲学的にキリスト教を支えていた人たちは、決してそうではないし、また、ルターの聖書主義・万人司祭主義?というのは、上記からみても、盲信を否定するもの。また、カトリックもルターに刺激され改革刷新がおこなわれてきた。
● 第一、デカルト自身が、「幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものを疑って」きたわけだ。(他に、カント、パスカル、キルケゴール、敬虔主義、宗教多元論などは参考にすべき)
● 明確に述べている例として・・・スエデンボルグhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA
・・・は、実際、ムフフさんの言葉を裏付けることを言っています(教会は盲信を促がした面があると) が、「信仰ろは真理を内的に承認すること」と主張し、盲信的な信仰は霊的あ信仰ではないと、断言。「こうした人物(真の信仰にいる者)は『・・・・・自分が知的に把握しないものを、自分はどうして信じることができよう。多分それは誤りであろう』という」「しかし一般的には霊的な、または神学的な問題は超自然なものであるため、だれにもそれは把握できないと言われている。しかしながら霊的な真理も自然的な真理と全く同じように充分把握されることができるものであって、たとえそれが明らかに把握されないにしても、それでもそれを聞くとすぐに、それは真であるか。真でないかを認めることができるのである・・・(略)」(「信仰」より引用、)
これだけでは解らないでしょうが、盲信とキリスト教の問題を正面から扱った考察です。
● こういった哲学の伝統があるわけだから、そういったキリスト教文化全体を見る視点は、不可欠だと思う。(以上))

投稿: 朝日ウォッチャー | 2009/02/01 20:11

> 坂様、人気ブログの維持、流石ですね。
この件について私も最後という事で手短にまとめのコメント、させてください。

> 朝日ウオッチャー殿

最初に、貴殿が色々と調べ、多くの知識を得て考察しております事、感服しました。前にコメントしました、「...理解が浅いと受け止めるべきです。」は、失礼な物言いと反省して撤回致しますと共にお詫び致します。

しかしながら、貴殿が宗教について何らかの経験をした際に理解される事が有るだろうことを願う事は変わりません。

私自身は、日本の一般的?教育と宗教環境で育ちましたので、私の宗教に対する基本的な態度は、将に貴殿が書いている態度です。 その上で、他の欧米社会やイスラム社会他の理解に務め、その結果、宗教を信仰する人達が考える中(世界の大多数)での「宗教の本質」は、こうではないか?...と提示したものです。

貴殿の考えはよく理解しますし、哲学的に短くまとめれば、「人が何事かを信じると云うことは、その人の原的知性が何らかの判断をした結果、それを受入れると決めたに他ならない...従って盲信(何も考えずに信じる)は有り得ない」と。
だから、宗教、特に一神教の世界では、無条件に神を信じる事を信仰としているのです。例えば、キリスト教では「神を試してはならない」とかイスラム教では「人々のイラーフ(真に唯一崇拝すべきもの)」とかの教えになっていると御理解ください。

次に、宗教と宗教組織の振る舞いの違いを理解しなければなりません。貴殿は、貴殿のコメントの中でわざと「牧師」としていたのでしょう。牧師と神父は全く違うものです。また、プロテスタントがカトリックから生まれ、カトリックを否定するロジックはご存知ですよね。同じ教えを広めるものとしても、神に仕える者との

その次に宗教観の推移として、アリストテレス時代からの哲学が、中世を経て科学に進化してきた過程を。多神教(原始宗教?)から一神教信仰への変遷と合わせて。デカルト等もキリスト教の元にその思想がキリスト教社会に受け入れられてきたロジックに気が付きませんでしたか? そう、神の造りた給うた真理を明らかにする事がそのロジックです。ですから、マルクスの唯物史観はキリスト教社会に対して衝撃的な論だったのでしょう。

まぁ、こうやって書けば色々と論議する点が多々有りますが、私も受けた指摘を貴殿にも一緒に考えてもらいましょうか。
それは、色々と宗教について質問した友人達(カトリック、プロテスタント、ムスリム他)から同じ様に出た指摘です。
「○○、君は色々と尋ねるけど、信仰のない者が宗教の本質って解る事があるのだろうか?」

それに答える中で、お互いに納得できる答えは、神と人間が居て人間が神(教えではない!)を信じる事が信仰だと。

まぁ、私は彼らに仏教徒としていましたが。 もちろん、仏教も発祥の小乗仏教と日本で一般的な大乗仏教では、宗教としての意味合いは違っており、浄土真宗ともなれば、仏陀の教えを信仰するよりも、慈悲にすがる(真の信心にて)のが教義になって来ておりますからね。

それでは、結びとして、
> 朝日ウォッチャーさん、書物やネットの知識のみで宗教を考えるのではなく、主体である人間、つまり強い信仰を持っている方々と対話しながら考える事をお勧めします。

投稿: ムフフ | 2009/02/02 10:50

>> ムフフさんへ
お互いにまとめをやり、だいぶ、お互いの主張が明白になってきた感じで、よかったと思います。詳しい説明ありがとう御座いました。

自分は、決して宗教を書物やネットで学んだということでもなければ、その筋の勉学も知識もむしろありません。
だから、初めにたどたどしく自分の考えを述べ(これが投稿動機ですから)、その後に客観的資料としての文献引用等をしたつもりです。

結論として、大いに参考にさせて頂きたい、と思っています。

最近のこのブログのエントリーのテーマ、「洗脳」問題と関係していると思う。

まあ、議論としてはまだまだありますが、またの機会ということで。(、>>お互いに納得できる答えは、神と人間が居て人間が神(教えではない!)を信じる事が信仰だと <<・・・これは、自分も承認したつもりですが、果たしてそれ自身、本当に「無条件の・・・」と言い切っていいのか?は課題ということで、あしからず)   

投稿: 朝日ウォッチャー | 2009/02/03 22:56

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