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2009/01/07

ドン・金丸信の後継者

過去の人気エントリの再掲を続けていますが、読み返してみると、我ながら「面白い!」と感じ入ってしまうことがあります。
まず、掘り下げの度合が今とは違う。やはり時間をかけていた、ということですね。が、今の私にはそれがままなりません。それに、書きたいことは書き尽くしたという、「燃え尽き症候群」みたいなところもありますし。
でも、自分で書いたエントリを改めて読んで「面白い!」と感じるのも、我ながら「どうか」と思います。

今日は、今の政治を語る上で避けては通れない「田中派」―「竹下派」支配について言及したエントリです。小沢一郎も小泉純一郎も、この戦後保守政治を牛耳り続けてきた「超」派閥を語らずして説明、と言うか理解できません。

政治家・小沢一郎を理解するうえでの一助になるエントリかと思います。

ドン・金丸信の後継者 2006/04/05


政界のドンと言われた金丸信元自民党副総裁がこの世を去って、丸10年。2日、かつての門下生たちが集まりました。

鉄の結束と恐れられた旧竹下派を率いた金丸元副総裁。しかし、5億円ヤミ献金事件をきっかけに、派閥は分裂。近年は、権力の中枢からすっかり遠ざかり、去年の郵政選挙での公認外しなど小泉総理大臣の徹底した仕打ちにあって、門下生たちも別々の道を歩むことを余儀なくされました。

自民党野中元幹事長:「竹下・金丸先生の、血の出るような思いで作った平成研(旧竹下派)が、本当に見るも哀れな姿になるのが耐えられない」

竹下派200人構想をぶち上げ、政界再編をにらんでいた金丸元副総裁。皮肉にも、派閥の弱体化だけを印象づけた、しのぶ会となりました。

今や別の道 「政界のドン」しのび門下生が集結
(2006/04/03/08:20 ANN News)


金丸信、この男を語らずして、今の政治を理解することはできない。

それにしても、2日の「しのぶ会」は、テレビで見る限り、かなり寂しいものだった。「竹下派七奉行」と称された政治家は誰一人として姿が見えない。
小渕恵三、奥田敬和、梶山静六の三名は故人。橋本龍太郎(引退)は、訪中から帰国直後で、霊前に報告と行きたいところだが、自民党執行部から、「もう橋本さんは、党に座る場所どころか居場所もない」とこき下ろされる体たらく。小沢一郎(民主)、羽田孜(同)、渡辺恒三(同)の三名は、民主党の権力闘争で、それどころではない。
姿を見せた大物(?)は、綿貫民輔(国民新)と野中広務(引退)の両名くらい。
改めて、時代の流れとその変化を痛感する。


戦後の保守政権は、1972年(昭和47年)に退陣した佐藤栄作政権までは、米国の
庇護の下、米国の後に付いていくだけでよかった。
ところが、佐藤の後を襲って首相に就任した田中角栄は違った。当時の米国のメディアは、「日本に、米国と対等にモノが言える首相が初めて誕生した」と報じた。
が、この米メディアの見方は正確ではない。
1972年1月に、ニクソン米大統領(当時)が、日本の頭越しに中国を訪問した。ニクソンは周恩来、毛沢東の両首脳と会談、米中平和五原則を発表する。
このニクソン訪中の後、自信を付けた中共政権は「日本の佐藤政権、相手にせず!」と、我が国に対して強烈なパンチを繰り出した。この衝撃が、米国の意向に逆らって
まで、田中内閣を日中国交回復=日中友好路線に走らせたのである。

ここから、日米同盟に依拠しながら、中国とも政治的・経済的結びつきを深めるという
外交路線を、我が国の保守政権は取るようになった。
この路線は、実は米国の国益にも合致していた。なぜなら米国は、(旧)ソ連を最大の脅威とみなしており、当時の中共政権も、強烈な「反ソ連」だったからである。中共政権は、「反ソ連」という一点のみで、日米安全保障条約(日米安保)さえ肯定的に評価した。
ここに、東アジアにおける反ソ連共同戦線が成立したのである。
中共政権が日米安保を積極的に評価したときの、社会党(現・社民党)首脳の困惑しきった表情が忘れられない。

田中内閣が登場して変わったのは外交ばかりではない。日本の政治・経済構造も大きく変わった。
田中は、「越山会」という後援会を組織した。そして、「越山会員の建設業者による公共事業受注と、その見返りとしての選挙の際の票とカネ」という相互依存関係を地域社会に張り巡らせた。田中は、こうして地域社会を支配した。
この田中のやり方は、地域社会のインフラ整備と住民の生活向上に大きく貢献した。が、反面、「利益誘導と、その見返りとしての票とカネ」という手法が自民党内に蔓延し、自民党全体を「金権体質」に変質させた。
また、日本経済を、公共事業に過度に依存させるという、いびつな産業構造に導いた。後々のバブルや借金漬けの財政も、この時期にその土壌が作られたと言ってよい。

この田中の支配は、1985年の「創政会」=竹下グループの田中派からの離脱まで
続く。実に13年近くにわたって、「田中支配」が自民党及び日本を席巻したのである。

この田中支配は上述したように、「創政会」=竹下グループの分派で終焉を迎える。
そして、田中の支配下にあった中曽根康弘内閣は自立し、独自色を強める。中曽根は、国鉄民営化や民間活力活用政策で成果を上げ、竹下登に政権を禅譲する。
ただ、田中派の分裂を機に自立した中曽根政権だが、「利益誘導と、その見返りとしての票とカネ」という田中的体質は相変わらずで、「土地本位制」とも揶揄された経済体質は、そのまま引き継がれた。
この土壌の上に、円高対策により発生した過剰流動性が、バブルという「あだ花」を
咲かせることになる。


では、金丸信とはどういう人物だったのか?
金丸は、大正3年(1914年)9月17日、山梨県中巨摩郡今諏訪村(現南アルプス市)で造り酒屋を営む父・金丸康三と母・とくの長男として生まれた。
旧制身延中学校(現山梨県立身延高等学校)、東京農業大学農学部卒業。
大政翼賛会の青年組織である翼賛青年団に加わって山梨県の団長・名取忠彦の知遇を得、戦後、彼の下で脈々会に加わった。
東京農大時代は、柔道の猛者(もさ)として鳴らしたという。

田中角栄もだが、金丸も毀誉褒貶の激しい政治家である。国士として尊敬する者も
いれば、単なる金権政治家として軽蔑する者もいる。
私は、融通無碍な寝業師だったと思っている。情にもろく義理に厚い。無定見で妥協を得意とする。私は、金丸の主義主張を聞いたことがない。
金丸は自分のことをよく解っていた。だから、党内最大派閥を率いていながら、ポスト
竹下に推されたとき、これを固辞、自ら宮沢喜一を後継に推した。

こんな金丸が、なぜ絶大な影響力を誇ることができたのか?
それは、まずカネである。角栄式の「利益誘導と、その見返りとしてのカネ」。これを
徹底した。あるとき、記者会見で、自身の政治資金について質問されたとき、「ワシの名前はカネにマルと書くんだよ」と、冗談とも本音ともつかない言い回しで、資金が潤沢であることを示唆していた。
次に人脈。社会党の田辺誠委員長(当時)とは盟友関係にあった。また、革マル派
副議長(だった?)の松崎明JR東労組会長とも懇意。ニュースステーションが好きで、久米宏のファンだったとも聞いている。
裏社会とも繋がりがあって、広域暴力団稲川会の石井進会長(当時)とは兄弟分だったと言われる。ちなみに、金丸の一の子分を自認していた浜田幸一は元稲川会。
数の力も大きい。豊富なカネと人脈を誇る金丸の下には、陣笠議員が続々と参集。
「経世会」(竹下派)の構成議員は100名を越えた。

金丸は、1985年、勉強会と称して「創政会」を結成する。これは、共通の孫を持つ竹下登を派閥の後継領袖とするためのクーデターであった。これを知った田中角栄は激怒。猛烈な切り崩し工作を行なう。
このとき田中と面会した金丸は、「今までは、おやじさんのために命がけで闘ってきた。これからは、おやじさんと命がけで闘う」と、宣戦布告とも取れる文句を口にしたという。
この死闘は、結局、田中が脳梗塞で倒れたことで、金丸-竹下の勝利に終わる。1987年7月、「創政会」は「経世会」(竹下派)として正式に独立した。
1987年11月、竹下が第74代内閣総理大臣に就任、金丸は「経世会」会長に就任し、
党内最大派閥を率いて自民党のドンと呼ばれるようになる。

金丸の政治的夢は、自民党と社会党を解体・再編成して政権交代可能なニ大政党を
作るということだった。社会党の田辺との関係は、そういう意味合いも含んでいた。
が、金丸は思わぬところで挫折する。平成3年(1992年)東京佐川急便から5億円の
ヤミ献金を受け取っていたことがが発覚。党副総裁辞任に追い込まれる。それでも世論の反発は収まらず、10月には衆議院議員を辞職、「経世会」会長も辞任した。

田中もそうだったが、政治家は権力を失うと、途端にその闇の部分を追求される破目に陥る。
東京国税局は、東京佐川急便事件を捜査していた東京地検とは別に、金丸が妻(元・赤坂のクラブホステス)が死亡した際に受け取った遺産に着目、内偵を進めていた。
そして、日本債券信用銀行(日債銀・当時)の割引金融債(ワリシン)の一部が申告されていない事実を突き止め、東京地検に告発した(「自民党の打ち出の小槌」と呼ばれていた日債銀内では、金丸のことを“蟷螂(カマキリ)紳士”と符号で呼び、銀行ぐるみで不正に協力していた)。
平成4年(1993年)3月6日、東京地検は金丸本人と秘書を脱税の容疑で逮捕。自宅を家宅捜索したところ、「金の延棒」等の数十億円の不正蓄財が発覚する。
金丸は、来るべき政界再編に備えた軍資金であると述べた。


金丸信、この男を語らずして、なぜ今の政治を理解することができないのか?

それは、金丸の失脚後、小沢が自民党を離党して新生党を立ち上げ、細川連立政権を樹立したのは、金丸の政治的夢であった、自民党と社会党を解体・再編成して政権交代可能なニ大政党を作るということに通じるからである。
金丸と小沢のニ大政党論に共通しているのは、結集すべき理念が何なのか明確ではないということだ。だから、新進党に平気で公明党を参加させた。
また、小沢と袂を分かって自民党に残った橋本や野中も、金丸の別の部分、つまり、「利益誘導と、その見返りとしてのカネ」「無定見で妥協を得意とする」ところを見事に
引き継いでいる。
そして、この「金丸」的な政治と真っ向から闘い、勝利を収めたのが小泉純一郎だった。
要は、「失われた10年」を取り戻す闘いは、「金丸政治」との闘いでもあったと言っても
よい。


最後に、金丸が、その政治家としての評価を地に貶めた事件について書いておこう。
これは、ある意味、東京佐川急便からの「5億円ヤミ献金事件」や「巨額の脱税及び
不正蓄財」よりも罪が大きい。

1990年、金丸は、盟友である社会党の田辺らと訪朝団を編成。団長として北朝鮮を
訪問する。このとき自民党の代表として、国交正常化や日本統治時代の補償とともに、「南北朝鮮分断後の45年間についての補償」という約束を自民党、社会党、朝鮮党の3党で交した。
これは、南北分断後の「日本の北朝鮮敵視政策(笑)」を我が国が反省し、それによって北朝鮮が被った損害を補償するというものである。
既に、北朝鮮による日本人拉致疑惑は、我が国政府も認めるところだった(1988年3月26日、参議院予算委員会、梶山静六国家公安委員長答弁)にもかかわらず、こんな
正気の沙汰とは思えない約束をする。
この約束は帰国後、当然のことながら猛烈な批判を浴びる。そして自民党の承認を得られず反故(ほご)にされた。
このころから、金丸の自民党内における神通力が衰え始めた。


なお、この訪朝団には、野中も同行している。野中は1999年にも訪朝し、金日成を生前の姿のまま安置した錦繍山記念宮殿を訪問、以下のように記帳している。
「ご生前中に三度にわたりご会見の栄を得ましたことに感謝し、金日成主席閣下の
不滅の遺徳が、朝鮮民主主義人民共和国の永遠の発展と日本国との友好発展の
上に、大いなるお導きを願い、永久不変万年長寿をお祈りします」

つまり、金丸の「金権」「売国」的体質は野中がしっかりと引継ぎ、無定見な「政界再編の夢」は小沢が引き継いだ。そして、小泉は、そのような「金丸的な体質」に果敢に闘いを挑んだ。
すべてではないが、大雑把に言えば、そんなところではないか。


金丸がもっとも可愛がったのが小沢だった。その金丸が議員を辞職するに際し、小沢は「ぜひ、次の派閥の長は小沢にと、記者会見で指名してくれ」と詰め寄ったとされる。が、金丸から「辞めていく人間が、後のことなど指名することはできない」と拒絶された。だから小沢は派閥を割り、党を割ったという説もある(ただ、これは野中の話だから割引く必要がある)。
(文中・敬称略)

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【追記】 2009/01/07
脱税容疑で金丸の自宅を家宅捜索した時に出てきた「金の延棒」には、刻印(品質保証)がなかったと言われている。刻印のない「金の延棒」を作っている国は北朝鮮しかないそうだ。
この「金の延棒」=北朝鮮説は、自民党の平沢勝栄衆院議員(元警察官僚)も証言している(2002年11月24日 サンデープロジェクト)。
この話が事実なら、国士・金丸信は北朝鮮のエージェントだったということだ。だから、経世会全盛時代は「拉致問題」が闇に葬られていた、そう思うと納得がいく。

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コメント

思い返せば「そうだったなあ~」と言う思いが浮かび上がる様な記事を頂きました。

「金丸」氏の息子は北朝鮮との利権には絡めるだけの余力とパイプが有る様ですが、金丸氏は正に「金欲」の塊の様な人でした石和温泉の権利を「その筋」に引き渡したのも氏の尽力とも聞いて居ます。

小沢氏を「無定見な政界再編狂」本当にピタリの表現と感心致しました。
社会党も共産党も中国も韓国も一緒くた、ゴッタ煮の中で何を考えているのか政策も主義主張もコロコロ変化する。正に「無定見」以外の表現方法は有りません。

これが通る日本の政界も本当に「怖い」処です。普通の国で有れば政治生命など飛んで居るのでしょうが、我が日本では「二大政党?」の次の政権まで狙う「党」の首魁に座らせられている。怖いですよ。

投稿: 猪 | 2009/01/07 15:41

たしか橋龍も死去していたような気が・・・

投稿: t | 2009/01/08 08:45

あけましておめでとうございます

自民党の体質を的確にまとめて頂いて、よく判りました。

触れられていませんが、多分ご承知のように、金丸、竹下は朝鮮人から帰化した家庭の出でしょう。
子供同士を結婚させていますね。

竹下が首相の頃、地元の人間から「彼は朝鮮人だよ、地元はみんな知ってる」と、あちこちに垂れ込み電話があったものです。

小沢も韓国籍女性を秘書にしてブレーンとして重用しているそうですね。韓国によく行くとか。
以前に、明らかに在日の人たちが集まっていたネット掲示板で、時々「小沢」がチャットに加入してきて、みんなが大事に対応していました。


投稿: SS | 2009/01/08 12:13

初めてコメントさせていただきます。

「無定見で妥協を得意とする」「利益誘導と、その見返りとしてのカネ」。
本質をわかりやすく説いて下さり、目の前の霧が晴れた気分です。ポイントを押さえた解説、痛み入りました。小沢一郎はまさしく金丸信のコピー、嫡子ですね。
噂の域を出ないのか、それとも歴史的な事実なのか、何とも判断に迷いますが、金丸、竹下両氏が在日であるならば、外国人参政権を待つまでもなく、日本の保守政治は在日に牛耳られていたことになりますね。
彼らの忠誠心は、日本と遠い祖国のどちらに向けられていたのでしょう? わずかな政治的ビジョンと大きな私利私欲のために、戦後の保守政治を汚辱にまみれたレベルまで引き摺り下ろした彼らは、無意識に日本人全体に復讐していたのでしょうか?

投稿: ワン子これ | 2009/01/09 12:34

だけどさぁ、
亀井静香とか今や野党じゃない。
本当に危ないことしてたら小泉と敵対したときに
逮捕されてそうな気がするけど、実際どうなの?

なんか記事自体が唐突すぎて現実味がないんだけど。
まぁ、本当だったら巨悪が確かに似合うけど。

投稿: たつき | 2009/01/09 20:57

橋龍、梶山、奥田、小渕・・・みんな死亡したな。残っているのは、羽田、小沢、渡部だけ。愛知和男も左藤恵も佐藤守良ももうおらぬ。羽田も病気したし渡部も副議長やって一丁上がり。経世会は終わった

投稿: 議員会長 | 2009/09/29 22:35

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