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2010/03/20

怨讐 「プロローグ」~「1.陥穽」

第一段階の「プロローグ」から「1.陥穽」までを書き終えました。
細切れでは読みづらいと思いますので、一気にまとめて掲載します。


Sasebo
機動隊の警備車輌を占拠した学生たち



【あらすじ】

 暴力と欲望が渦巻く禽獣の街。この街の闇に棲む左門肇は桎梏の過去を背負っている。ある日、たった一人の親友である田島四郎が殺害された。田島は、元アイドルの裏ビデオを残していた。左門は復讐を決意する。しかし、立ちはだかる敵は巨魁だった。
 新宿署の谷口刑事が執拗に左門を追う。
 左門と谷口刑事の間には、遠い過去の因縁があった。
 青春の蹉跌、というには、あまりにも重すぎる過去。仇敵は過去の悪霊だった。
 全共闘・革命幻想に酔いしれた時代。その時代を懸命に生きた男たちのその後の生き様を、ハードで簡潔な筆致で綴った怨讐の物語である。



怨讐 (プロローグ~1.陥穽)


プロローグ

 男は、歌舞伎町のはずれにある小さな酒場にいた。酒場は、遊歩道と水子《みずこ》神社に挟まれたハモニカ長屋のようなバラックが立ち並ぶ一画にあった。
 酒場は五坪ほどの広さで、カウンター席と小さなテーブル席が二つあるだけだ。貧相な木製のドアに、サン・ハウスという店の名前が書かれたプラスチックの板が掛けられている。
 酒場の中には、シンプルだが攻撃的で、どこか哀調を帯びた泥臭い音楽が流れていた。音量は聴かせるというほど大きくはなく、どちらかといえばBGMの雰囲気だった。客の嗜好に配慮しているのだろう。
 壁には七十年代に来日した黒人ミュージシャンの公演ポスターが貼られている。赤茶けたポスターは、手を触れると今にも破れそうだった。
 男は、カウンターのスツールに腰を掛けてバーボンをオン・ザ・ロックで呑んでいた。リズムに合わせて小刻みに体を揺すっている。
 泥臭い音楽と安物のバーボン、場末の酒場、いかにもステレオタイプの組み合わせだが、この男は場に馴染んでいた。男の年齢は四十代の前半に見えた。しかし、ときどき、ずっと年を食った雰囲気を漂わせることもあった。
 男は小さくグラスを振った。氷がグラスの中で踊ってカラカラと音を立てた。マスターは、空になったグラスに手を延ばした。男と眼線が合った。男は柔和な眼差しだったが、奥に翳《かげ》りがあった。
 酒場のある一画は、時計の針が止まっているようだった。未だに遠い昔の淫売窟だったころの残滓がこびりついている。六十年代の溢れ返るような熱気の名残もあった。
 男は、たまにこの酒場に顔を見せる。泥臭い音楽とバーボンが融け合って、不思議と安らいだ気分になれるのだった。
 男は、ときどき焦燥を感じることがある。この数年の間に芽生えた感情だった。時間だけが無為に過ぎ去っていくことに対する苛立ちだった。
 野太い艶《つや》のある声がシャウトしている。男はバーボンを口に含んだ。独特のコクに喉を鳴らした。ブルースハープの音色がもの憂げだった。

「待ち合わせですか?」
 琥珀色のグラスを男の前に置くと、マスターが訊いた。既に三杯目だった。
「田島とね」
 男は、左腕の時計に眼をやった。時計の針は、もうすぐ午後八時を差そうとしていた。
「田島さんですか……」
 マスターは微かに眉を寄せた。マスターは田島を嫌っていた。というより悪酔いする男が嫌いだった。
 カウンターの端の席に若いカップルが腰を掛けていた。マスターと何やら話を交わしている。
―最近は若い客がけっこう多くてね― 男はマスターの言葉を思い出した。この街は、若者たちにとって既に伝説になっていた。
 ドアが開いて田島が姿を現した。
「らっしゃい」
 マスターは眼を伏せたまま、少しだけ入り口に顔を向けて客を迎えた。
「よおっ!」 田島が右手を中途半端に上げながら、店の中ほどまで進んできた。
「やけに嬉しそうだな」
「たまにはな。神は我を見捨てずさ」
 田島は、頬をゆるめながらブルゾンの内ポケットがある辺りを押さえた。
「早くいこうぜ、今日は俺の奢《おご》りだ」
 田島は、座りもせずに男を急かした。
「それより呑まないのか?」
 男は、「神」という思いもかけない言葉に苦笑しながら、落ち着かない田島に訊き返した。
「ここんとこ酒が入るとからっきしでね」
 マスターに少し気兼ねした様子で田島が応えた。
「気にしないでください」
 マスターが口を挟んだ。そっけない物言いだった。
 男は腰を上げた。千円札三枚でお釣がきた。男は田島といっしょに店を出た。
「左門さん、また」
 マスターの言葉を背中で聞いた。街はすっかり冷え込んでいた。男と田島は、白い息を吐きながら新宿三丁目を目指して歩き始めた。

                         *

 左門と田島は、新宿三丁目の雑居ビルを出て靖国通りの舗道を歩いていた。これから百人町にある小さなバーに寄るつもりだった。時計の針は午後十時を回っていた。
 左門は、顔付きは穏やかだが頬の辺りが削げている。痩身だが広い肩幅は逞しさを感じさせた。田島は中肉中背で背中が丸く、まばらな無精髭に顔がくすんで見える。
 まだ十月の半ばだというのに、まるで冬を思わせる寒さだった。湯あがりの膚が寒さで張り詰めてきた。二人はブルゾンの襟元を合わせた。
 横断歩道を渡った。百人町までかなりの距離がある。区役所通りをしばらく歩き、近道をするために左に折れた。
 掃き溜めのような通りに人間がひしめいていた。酔ったサラリーマンや無遠慮に通りを占領している若者たち、中には辺りを物珍しそうに見廻している者もいる。二人が踏み入れた街には時間の観念がなかった。
 赤や青の原色のネオンが妖しく煌《きら》めいている。この野卑で猥褻な街は、期待と不安が混交した男たちの後ろめたい好奇心を掻き立ててやむことがない。きらびやかで淫猥なネオンの洪水が、男たちの飽くなき欲望を煽り立てる。
―射精産業とはよく言ったもんだ。男の欲望は尽きることなし……か― 左門は、いつもは避けて通る歌舞伎町の街中を歩きながら改めて感心した。
「三丁目よりこっちの方が良かったかもな」 左門の独り言に田島は無言だった。
 客引きと思しき男や女が其処彼処《そこかしこ》に立っている。どの顔も、人待ち顔に卑しい愛想笑いを浮かべていた。
「なんであんなのに騙されるんだ……ん?」
 左門肇は、ソバージュのかかった髪をまだらに染めた女を見詰めながら訊いた。黒いニットのワンピースは極端に裾が短くて、乳房《ちち》や臀《しり》の隆起が一目で分かった。
 女は、ワンピースの上に何も羽織っていなかった。カモを捕まえるためであれば、少々の寒さは平気らしい。
「あの甘えたような媚びた声に癒されるんだ、この街を知らないヤツらは。砂漠でオアシスにめぐり合えたような、まっ、そんな感じかな。オマエにはそんなヤツらの気持は解んないだろうけど、鴨ネギってけっこういるんだ」
 田島四郎は、したり顔で応えた。
 女の眼が田島を認めた。田島に向かって微笑みを投げかけてきた。田島は左手を軽く上げて女に応えた。田島は、この街では、それなりに知られた存在だった。
 通りの角に男たちがたむろしていた。日本人とは顔付きの違う男たちと視線が交錯した。男たちの眼は無表情でぬめっていた。一人が携帯電話に向かって、何事かを大声でまくし立てている。言葉は早口で意味不明だった。
「いつ見ても気味の悪い連中だぜ」
 いまいましそうに吐き捨てて田島が眼線をそらした。左門は無視した。
 くたびれた感じの男が道端に座り込んでいた。ネクタイは縒《よ》れて口から涎を垂らしている。眼をつむってブツブツと何事かを呟いていた。誰も眼もくれなかった。
「凍えちまうぞ」「大丈夫さ」「しかし……」「最後はオマワリさんが面倒を見てくれるさ。身ぐるみ剥がされた後でな」
 関わるのはよせ、そう田島は言いたげだった。
「立つんだよ、ほら」
 左門は男の左腕を引き上げた。
「うるせーっ!どいつもこいつも俺をコケにしやがって。オマエは何様だ!」
 男は、呂律《ろれつ》の回らなくなった口で喚きなが左門の手を振り払った。ゴミ箱に抱き着くようにして立ち上がると、よろよろと歩き始めた。
「ほっとけよ」
 呆れた様子で田島が言った。
―その、人の好さが、いつもオマエを苦しめるのに……ちっとも変わっていない― 田島は、ほんとうはそう言いたかった。
「あんなの相手にしてたらキリがねえ」
 田島は、口から涎を垂らしたままの男と左門を置いたまま、先に歩き出した。
 男が正気に戻ったとき、恐らく財布は空になっている。現金はおろか、カードや免許証さえも失くしている筈だ。
―仕方がねえさ……― 田島は心の中で呟いた。

「寒……」
 左門が肩をすくめた。
「昼間の暑さが嘘みてえだな。まるで冬だ」
 田島が相槌を打った。
「世の中が狂っているから天気までおかしくなったってか」
 左門は自嘲気味に言った。
「冬は耐えられねえよ。冬なんてなくなったらいいのにな」
 田島は白い息をフッと吐いた。
「冬がなきゃあ春も来ない、だろ?」
「冬が過ぎても春なんて来ねえさ」
 左門の問いに田島はなげやりに応えた。

 歌舞伎町は男にとって便利な街だ。あらゆる欲望を満たしてくれる。男の虚言《うそ》と女の打算、わずらわしい駆け引き―この街にはそれがない。男はセックスがしたい、女はカネがほしい―ただそれだけである。カネさえあれば満足はなくても取りあえずは充足される。
 田島がこの街を離れないのは、そのせいだろう。左門はこの街が嫌いだ、というより嫌悪に近い感情を抱いている。だから家に帰るとき、わざわざ回り道をする。が、左門にとっても、この街は生活の一部になっている。
 ただ、この巣窟は、慣れていない男たちにとっては、快楽と恐怖が背中合わせになった危険な街だ。饐《す》えた臭いが堆積した路地裏を、暴力と無法がまかり通る。

                         *

 この街も、職安通りが近くなると人影がまばらになる。きらびやかなネオンよりも闇の方が深くなる。行き交う男や女たちは、どの顔も曰くありげだった。
 背後から猛烈な勢いで靴音が迫ってきた。複数の靴音が連続していて緊迫感があった。左門と田島は思わず振り返った。
 土気色の顔をした二人の男が走り抜けていった。恐怖で形相がゆがんでいる。後ろを眼つきの鋭い男たちが追っている。
「何だ?」
 左門が訊いた。
「ボッタクリさ……きっと客が逃げ出したんだよ。たぶん田舎もんだな」
 田島は事もなげに言った。
「通報しないのか?」
「そんなことしても無駄さ。店の場所すら分からないんだから。当の客がよく覚えていないし。まあ、ボコボコにされて財布とカードを巻き上げられて終わりさ。まず、殺されることはねえよ」
 田島は悠長に応えた。おそらく、この街では珍しいことではないのだろう。
 左門の顔色が変わった。怒気を孕《はら》んだ顔は蒼白だった。
 すぐ先の右手にバッティングセンターが見えた。左門はそこに飛び込むと、無言のまま金属バットを掴み、すぐさま男たちの後を追った。呆気《あっけ》にとられた店員は、立ち竦《すく》んだままだった。

 暗がりの中に怒声が飛び交っている。黒い影がもつれている。追いつめられた男たちが、チンピラたちと格闘している様子が遠目にも分かった。
「殺っちまえ!」
 怒声が一方的になった。チンピラたちは蹲《うずくま》った男たちの頭を続けざまに蹴った。男たちは路上に転がったまま動かなくなった。カモを追いつめたチンピラたちは容赦しなかった。鋭く尖《とが》った革靴の切っ先が、男たちの腹をえぐろうとしている。
 そのとき、金属バットがチンピラの後頭部に振り下ろされた。鈍い音が立て続けに響いた。チンピラたちは、何が起こったのかも分からないまま地面に叩き伏せられた。
 関節の砕ける音がした。チンピラたちは、唸り声をあげながら躰《からだ》を打ち震わせている。肘や膝が奇妙な角度にねじれていた。
 小さな震えが左門を襲った。動悸が激しくなり、息苦しくなった。全身から冷汗が噴き出している。左門は、ようやくバットを振るのをやめた。

「逃げよう早く」
 田島が急かした。
 左門と田島は小走りに職安通りを渡った。職安通りの先の路地は薄暗くて、人通りはほとんどなかった。
「一体どうしたんだ?あんな無茶をして」
 田島が尋ねた。顔がまだ蒼ざめている。言葉には怯えが潜んでいた。
「分かんねえよ、躰が勝手に動いちまった」
 自分自身に困惑した様子で左門は応えた。
「凄い形相だったな」
「そうか……まったく覚えていないんだ」
 左門は既に冷めていた。ついさっきの金属バットの男とは、まるで別人のようだった。
「アイツらとは関わらない方がいい。氷川会に睨まれたらこの街では生きていけねえ」
 田島の口調は憂いを帯びていた。
 唐突だった。何かが弾けた。衝動が突き上げてきて、左門は自身を制御できなかった。
 時の流れはあらゆるものを風化させる。怒り、苦しみ、憎しみ、哀しみ、すべてが記憶の彼方に遠ざかり、退屈で単調な日常の中に埋没する。しかし、心に刻み込まれた傷は癒されたわけではない。ただ、意識の底に深く沈んでいるだけだ。
 現在も未来も過去に拘束されている。いびつな情念が、左門の心の奥底でマグマになっていた。根源は意識の外にあった。

「とにかくそのバットを処分しないとな。指紋だって残ってる」
 田島が言った。
「そうだな。この先の公園にトイレがある。そこで綺麗に洗おう」
 左門が応えた。
 狭い路地のような通りの右側に小さな公園があった。左門は公衆トイレで金属バットを洗うと、ブルゾンで拭って潅木の繁みに放り込んだ。
―こいつは一体どうなっているんだ?―
 左門は、田島からすれば優しすぎる。なのに、この常軌を逸した暴力。田島は、その乖離《かいり》に驚きを抑えきれなかった。
 が、人間の心の深層は、誰も窺い知ることはできない。何人の心にも狂気は棲息している。俺だってそうかもしれない。俺は臆病な男だが、何かの拍子に狂気に突き動かされるかもしれない。
 田島は、左門の行為をそう理解して納得するしかなかった。


1.陥穽

 そのマンションは三階建で閑静な住宅街にあった。辺りは既に夜の静寂に支配されていた。時折、人や車が行き交うだけで、表通りの喧騒とは無縁だった。街路灯の薄明かりの中に家並みがぼんやりと浮かんで見えた。
 白壁の洒落《しゃれ》た造りのマンションだった。どの部屋も、雨戸の上の欄窓から燈火《あかり》がこぼれている。二〇五号室だけが暗闇だった。
 街路灯の下を女が歩いていた。女のマンションは、最寄り駅から五分ほどのところにある。女は滅入っていた。マンションが近づくにつれて足取りが重くなった。
 色の白い整った顔立ちの女だった。グレーのタートルのセーターに光沢のあるライトブラウンのパンツを穿《は》いている。薄手のセーターとタイトなパンツからは、躰《からだ》のラインがリアルに見て取れた。
 ブーツの踵《かかと》が規則的な音を刻んでいる。が、音の間隔は段々と長くなり、やがて小さくなった。
 女の顔が蒼白く見えるのは、街路灯のせいばかりではない。女は男の影に怯えていた。男は夜になるとやって来る。獣を思わせる眼で見据えられると、躰が竦《すく》み息が詰まりそうになる。震えが躰の芯から湧いてくる。
 時計を見た。針は午後九時半を差していた。女は、つい先程まで最寄り駅を出たところにある喫茶店で時間を潰していた。午後九時を過ぎれば、男の行為は法律で禁止されているはずだった。会社の近くで立ち読みした本にそう書いてあった。
―どうしてこんなことになったのかしら― 女は自分自身が情けなくなった。悪夢の始まりは、郵便受けに投げ込まれていた「無担保・保証人不要・即決融資OK」というチラシだった。チラシには貸金業登録番号もきちんと書かれていた。
 後悔しているうちにマンションの前に着いた。
 周囲を見廻して人影がないのを確認すると、オートロックの鍵穴にキーを差し込んだ。
―よかった。本に書いてあったことは本当だったのね― 女は安堵の胸をなでおろした。が、それは束の間だった。郵便受けに封書が入っていた。あの男からの督促状だった。

                         *

 女は電車の窓を凝視していた。窓には鏡のように自分の顔が写っている。生気が感じられない暗くて沈んだ表情の顔だった。それ以外の景色は女の眼には入らない。
 自身の顔を見て女はさらに落ち込んだ。
 お気に入りのエルメスのバッグに微かな振動が感じられた。マナーモードにしているから音はしない。が、女は、あの男からの電話だとすぐに分かった。
 携帯電話には、あの日から毎日かかってくる。それも一度や二度ではない。最近は、会社にもかかってくるようになった。借金の返済を督促するチラシも二日に一回は郵便受けに投函されている。チラシに書かれている文言は日ごとに激しさを増していた。
 女は電話に一度も出たことがなかった。会社では居留守を使った。そのせいで、同僚からは訝《いぶか》しそうな眼つきで見られるようになった。あの男から逃れられないのは分かっている。が、怯えが電話に出ることをためらわせるのだ。
 女は、改札口を出て、自宅のあるマンションに向かって歩き始めた。今日は、喫茶店で時間を潰すのをやめた。
―やっぱり逃げ切れない。このままだと、ますます追いつめられるだけだわ―
 もう逃げるのはやめよう、女は、そう心に決めた。が、男からの電話に出たからといって状況が変わるわけではない。そんなことは女にも分かっていた。
 部屋に帰り着くとまた携帯電話が鳴った。時計は七時半を少し回ったところだった。
「もしもし」
「あっ、忠岡さん?堂本です」
「……」
「ずいぶんだねえ、電話も出てくれないなんて。まっ、忙しいんだろうけど。でも、部屋にもいない、電話も出ないじゃあ疑っちゃうよね。分かってると思うけど、俺たちの関係は信頼関係しかないんだよ。最初に言ったろ、無担保、保証人なしで二十万も貸すんだから誠実に対応してもらわないとね。電話に出たってことは、その辺り、わきまえてくれたのかな?」
「はい」
「それならいいんだけど。で、明日は家にいるの?」
「……」
「返事してよ、明日はいるの?」
「……」
「ったくもう、元本が返せなきゃ利息だけでいいっていってるだろ。利息も払えないの?」
 女は「はい」と反射的に応えたものの、そのあとの返事ができなかった。利息だけと言われても一月に一万円近くになる。そのほかに消費者金融もあればクレジットの返済もある。月の手取りが二十万円弱しかない女にとっては、もうどうしようもない状況だった。
「とにかく、明日の今ごろお宅に行くからさあ、そのときに話を聞かせてよ。相談には乗るからさ。分かった?」
「分かりました」
 女は、かろうじて声を絞り出した。「相談に乗る」その言葉が不気味だった。良い意味に取りたい、と思うのだが、男のあの眼を思い出すと悪い方にしか考えられなかった。

                        *

 堂本良雄は上機嫌だった。やっと女を落とすことができる、そう確信したからだった。男は落ちるほど惨めになるが、女は落ちるほど銭《かね》になる。これが、この業界で堂本が学んだ鉄則だった。そして、銭《かね》にはまった女ほど落としやすいものはない。
 堂本は、手下が運転する白いセルシオで忠岡慶子のマンションに向かっていた。
「アニキ、あの女、モノになりますかね」
 卑しい笑みを浮かべながら手下が訊いた。
「俺の狙いに狂いはねえ。あれは久しぶりの上玉だ。きっと銭《かね》になる」
 堂本は煙草《たばこ》を吸うと、一呼吸置いた。
「オマエはまだ見習だから教えてやろう。俺は女に銭《かね》を貸すとき、まず出身地を訊くんだ。次に独り住まいかどうかと年齢。最後が近くに身寄りがいるかどうかだ。まあ、顔と肉体《からだ》はいいに越したことはない。でも、それは二次的なもんでね。地方出身で、独り住まいで、身寄りがいなくて、そして年は若い。こういう女は銭《かね》になる確率が高いんだ。まあ三十が限界かな、年は。」
「はあ、そんなもんですか。で、二次的ってどういう意味です?」
 手下が問い返した。
「『二次的』も分からないのか?」
「はい」
「まあいいや。ところで、手間暇かかるし、面倒くさいこのビジネスを、短気な俺が何でやっているか分かるか?」
「ほんと、この商売は大変っすね。アニキもよくやっているなあ、といつも感心してるんです。トイチの方がシノギとしては儲かるし、手っ取り早いと思うんですけど」
 堂本の試すような問いに、手下はピントのずれた答えを返した。
「このビジネスの強みは、法にかなっているということだ。金利が高いとかあれこれ言うヤツらもいるけど、たかだか54.75%だ。短期金融やってる連中と比べたら、はるかに良心的さ。十万円借りても、月の金利は五千円以下ですむ。それにリスクも少ない。だから俺たちは、大手を振って歩けるのさ。モノになる女だって見つかり易いし」
 堂本は、自らの賢さを言い聞かせるかのようだった。
「でも、大丈夫ですかね、OLなんかに貸して……」
 手下は、お追従《ついしょう》を言うのを忘れ、自らの気にかかっていることを口にすると、バックミラー越しに堂本の顔色をうかがった。堂本の眉間の皺が深くなり眼つきが険しくなった。
「あの女はOLなんかじゃねえ。自営業者だ。客の職業は自己申告が原則なんだ、この商売は。分かったか!分かったら、二度とそんな言葉を口にするんじゃねえ!」 」
 堂本が癇癪を起こした。手下はあわてて話題を変えた。
「ところで、なんで地方出身で、独り住まいで、身近に身寄りがいない女なんすか?」
「ほんとにオマエは頭悪いな。田舎から出てきたOLを考えてみな。二十万そこそこの手取りで、家賃を五万円以上払って、携帯電話に光熱費とくりゃ、手元にいくら残る。十万もねえだろ。身寄りがいないから頼れる相手も限られるし。で、周りにあふれている話題は海外旅行やブランドものの話ばかりだ。昼間はOLやってるキャバ嬢なんてざらだ、知らねえのか?要するに銭《かね》に飢えてるんだよ、そんな女は」
 堂本は、この頭のデキが悪い手下と話していると段々と疲れてきた。まあ、でも、だからこそチンピラをやっている、そう思うと怒る気にもなれなかった。
「アニキって、いつも思うんですけど、なんかインテリというか頭いいっすね。俺、頭悪いから勉強させてください。で、できたらキャバクラにも一回連れてってほしいんですけど」
「今から会う女を落とせたら、オマエにもご褒美をやるさ」
 手下は、頭は悪くてもゴマすりだけはうまい。その点では業界の処世術をわきまえている。インテリと言われて、堂本も悪い気はしなかった。

                        *

 午後七時半きっかりに、堂本は忠岡慶子の部屋を訪れた。慶子は、いつもは玄関口で応対する。が、この日、堂本は、軽く断っただけで部屋まで上がりこんだ。慶子は少し驚いた顔をしたが、抵抗はしなかった。
 部屋はきれいに整頓されていた。カーテンやフローリングの床に敷かれたカーペットは、パステルカラーを基調にしている。壁には人気タレントと思しき男のピンナップが貼られており、いかにも若い女の部屋らしい。
 部屋の中ほどに、白い小さな長方形のテーブルが置かれていた。堂本は、ゆっくりと腰を下ろし胡坐《あぐら》を組んだ。慶子は、入り口近くに立ち竦《すく》んでいる。
「まあ、自分の部屋なんだから座ったらどうだい。お茶なんていいから、早く座ってくれないかな」
 堂本が声をかけた。声には逆らえない響きがあった。慶子が、テーブルを挟んで、堂本の対面に座った。慶子の表情には、緊張と怯えが混在していた。
「ずいぶんのご無沙汰だね。心配してたんだ正直。まあ、夜逃げするような人間じゃないってことは分かっていたけど、いつ行っても家にはいない、電話も出ない。俺たちの仕事は、お客さんの自宅に出向いて集金することを義務付けられてるからね。俺も、ほとほと困ってたんだ」
 堂本はソフトな口調で話を切り出した。いきなり激しく攻め立てれば、相手はパニックになる。じわじわと追い込んで、納得ずくで女を落とす。これが堂本のやり口だ。
「そんなに忙しかったのかい」
「ええ、色々とあって」
「まっ、人間、忙しいのが何よりだ。暇だとろくなことはない」
 堂本は、じっと相手の眼を見た。慶子の表情は硬いままだ。
「時間が余りないんで結論から話そう。今日はケジメをつけてもらいに来たんだ。俺もカネに余裕がないんでね。もう、これ以上待つわけにはいかないんだ」
 物言いは穏やかだったが、堂本には有無を言わせない迫力があった。慶子は、怯えを隠すように眼を伏せたまま押し黙っている。顔がいつもより蒼白い。
「黙ってたら話が進まないだろ。俺だって忙しいんだ。まず、返す当てがあるのかないのか、はっきりさせてくれよ。さあ」
 堂本は、少しだけ苛立った表情を見せた。が、まだ口調は穏やかだった。
「返せません」
 慶子の声は、小さい上に口ごもっていた。
「よく聞こえないな。『返せません』って言ったのか?」
 慶子は小さくうなづいた。
「なあ、返せないなんて簡単に言うなよ、おい。借りたカネは返す、社会人の常識だろ。それとも何かい。親から『借りたカネは返さなくてもいい』っていう教育でも受けたのかい」
 いきなり強い口調で堂本が迫った。右手の拳《こぶし》がテーブルの上に置かれた。堂本は、ここからは、追い込みをかけるつもりだった。
 「親」という言葉を耳にして、慶子は明らかに動揺し始めた。
「ほんとは、あんたが自力では返せないなんて先刻ご承知なのさ。だから俺のところに来たんだろう」
 慶子を睨みつけている堂本の眼つきが険しくなった。あの「獣を思わせる」眼だ。慶子は返す言葉が出てこない。
「あんたがいくら借りているのか、全部分かっているんだ。クレジットカードとサラ金……いや消費者金融か、その両方で百万円を超えている。それプラス俺のカネだ。ここんとこ、消費者金融には金利だけしか払っていないようだし、もう限界だろう自力では。かといって、『じゃあ、けっこうです』と言うわけにはいかないんだよ、俺も。誰かいないのか?頼れる人は」
「いません」
 慶子はそう答えるのがやっとだった。
「ふざけるな!親御さんとか兄弟とか、相談する相手はいっぱいいるだろうが」
「両親に相談なんかできません。そんな余裕なんかないし、妹も無理です」
「じゃあ、どうすんだよ。舐《な》めてるのか、こら。借りた銭《かね》を返さないで人間やってられるのか!借金、踏み倒すだけの度胸があるのか!なんなら会社に集金に行ってもいいんだぜ。それとも、親のところに乗り込んで、辺り近所に大声でふれ回ってやろうか」
「……」
 堂本は、慶子が親や兄弟に頼れないのは分かっていた。数多くの若い女と接してきた堂本には、この女の性質がよく分かる。
 慶子は、悩みや苦しみを他人に打ち明けることができない内向的なタイプだ。すべてを心の内側に溜め込んでしまう。が、臆病なわけではない。心の奥に秘められたプライドが、それを許さないだけだ。つまり、他人の眼を気にするタイプなのだ。
 見た目は淑やかでおとなしいが、虚栄心も自己顕示欲も、人並みかそれ以上にある。住んでいるマンションや身の周りのブランドものを見れば、それが分かる。
 慶子は、職場では、その顔立ちのせいもあって、きっと「清楚な人」と思われている。が、住んでいる所や身に着けている物で控えめに自己主張しているのだ、自己のイメージを壊さない程度に。
 こういう女を落とすのは難儀だ。手間もかかる。が、落としてしまえば、後は楽だ。
 若い女の中には擦《す》れたのもいる。取り立てに行ったとき、開き直る女さえいる。が、そういう女は、概して、夜の世界で働いているか、Wワークと称して昼と夜の仕事を掛け持ちしている場合が多い。夜の世界で、生の男に接する機会が多い分だけ、自分の肉体《からだ》がもっとも銭《かね》になることをよく分かっている。
 だから、どうしようもなくなったとき、フーゾクの世界で働くことにためらいがない。
 が、慶子のような女に無理強いは禁物だ。ヒステリーを起こす確率が高い。だから、まず、そのプライドを徹底的に破壊する。心身ともに、どうにもならないところまで追い込む。
 どん底の世界に落とすのはそれからだ。落としてしまえば、こんなに扱いやすい女はいない。

「少しは本も読んでいるようだが、任意整理って知ってるか?」
 堂本は、穏やかな口調に戻っていた。
「知りません」
「そうかい。まあいいや。あんたの場合は任意整理は無理だからな。もう自己破産するしかないな、あんたは」
「自己破産ですか?」
「そう。自己破産すれば、あんたは、とりあえずは借金苦から解放される。ただ、自己破産は人生破滅、人間失格と同義だ。どん底の世界で這いずり回るしかない。それでもやるかい。そこまでの勇気があるんだったら、お手伝いするけど」
 堂本は、あえて自己破産を口にした。もっともやっかいなのが自己破産されることだ。だから、先手を打って、太い釘を刺したのだ。
「自己破産なんてできません」
 慶子は、男に対する恐怖と、言葉では言い表せないほどの不安で、正気ではなくなりつつあった。
「ほかの借金はともかく、俺のカネだけは返してもらわないとな。俺の知り合いで、あんたにカネを貸してくれるところがあるんだ。今から紹介してやるよ。三十万もあれば、俺に返済しても、いくらかは手元に残るだろ。消費者金融とクレジットは踏み倒しても取り立てには来ない。あとは、その三十万をきちんと返せばいい。そのくらいは返せるだろう?」
「はい」
 慶子は、もう堂本の書いたシナリオにはまっている。
「消費者金融やクレジットは、ほんとうに取り立てに来ないんでしょうか?」
「来やしないよ、絶対に。連中は上場企業だからな。督促状が来るだけだ。まっ、会社に電話がかかってくる可能性はあるから、会社は変わった方がいいかもな。携帯電話は無視すればいい。心配するな。あんたなら、就職先はいくらでもあるさ」
 強張《こわば》ったままだった慶子の表情が、いくらか柔らかくなったように見える。
 堂本は、携帯電話を右手で開いた。
「高橋さんかい。久しぶり。ところで、景気はどうだい?」
「…………」
「そう、まっ、厳しいのはお互い様だな。ところで今な、俺の知り合いで、お宅からカネを借りたいという人が傍《そば》にいるんだ。女だよ、年は二十六歳」
「…………」
「もちろんだよ。ちゃんとしたところのOLさ。長野県の松本出身で身元も確かだ。今日、今から時間空いてる?」
「…………」
「あっ、そう。十時な。じゃあ、どこにしようか?」
「…………」
「うん、分かるよ。四丁目の水道通りと山手通りが交差したところの角にあるファミレスだな。じゃあ、本人を連れて行くから。希望金額は三十万だ。あとは、直接会ってから相談に乗ってやってくれよ」
「…………」
「じゃあな、よろしく」
 堂本は電話を切った。獣の眼が穏やかになっている。微笑んでいるようにも見えた。
「話はついたよ。よかったな。三十万あれば十分だろ。残りは踏み倒すんだ。なに、心配することはないって。クレジットで買い物ができなくなるだけだ。それに借金もできなくなるけど、その方がかえっていいんじゃねえか」
 堂本はほんとうに笑った、ように見えた。
 慶子は、安堵もあったが、不安の方がまだ大きかった。―クレジットや消費者金融を踏み倒すことなんてほんとうにできるのかしら……―
「一本だけいいかな」
 堂本は、慶子の返事を待たずに煙草《たばこ》に火をつけた。
 クレジットや消費者金融なんて蚊のようなものだ。血を吸われたってしれている。が、これから借り入れることになる三十万円は、そうはいかない。おそらく、慶子の血を吸い尽くす。
 ―まあ、そんなこと、今は知らない方がこの女にとっては幸せだ―堂本は深く吸い込んだ煙草《たばこ》の煙を天井に向かって吐いた。

 セルシオの後部座席に、慶子を押し込むようにして堂本は乗り込んだ。
「四丁目の角にあるファミレスだ。分かっているよな。十時だ。時間はある。焦らなくていい」
「はい。了解です」
 運転手役の手下が答えた。
 ―アニキが言ってたとおりだ。こんな上玉が網に掛かるなんて、アニキはほんとに凄い―
 手下は、バックミラー越しに慶子の顔を眺めながら、堂本がくれると言った「ご褒美」を妄想して、下卑た薄笑いを浮かべた。
 セルシオは、甲州街道に出ると、新宿方面に向かって走り始めた。行き交う光の数が増えてきて、やがて絶え間なく続く列になった。初台を通り過ぎた辺りから、セルシオは極端に速度が遅くなった。しばらくして左に折れた。
 車の列が、のろのろと進んでいる。窓越しに、道を行く人たちの表情さえ分かる。が、慶子の眼には何も映らなかった。自らの行く末を案じる余裕もなく、ただ茫然としていた。

                        *

 通称を高橋と名乗る男との相談は、すぐに終わった。真っ当な業者なら、金銭の貸借をするときは、約定した事項を記載した証書を当事者の間で取り交わす。が、高橋は、約定書ではなくA4の借用証を一枚だけ差し出し、慶子に住所氏名を書かせ、押印させただけだった。
 借用証には何項目かの記載があったが、慶子にはよく読む時間が与えられず、高橋も何の説明もしなかった。
 慶子は金銭の貸借に疎い。だから借用証に書かれている文言を読んでも、よく理解できなかったかもしれない。それでも、金利の欄が空白になっていることは、さすがに気になった。が、そのことを口にできる雰囲気ではなかった。
 ファミレスにいた時間は、三十分くらいだっただろうか。堂本と高橋が交わす話題は、ほとんどが慶子にとって無縁のものばかりだった。
―一刻も早くこの場から消えていなくなりたい―
 慶子は、そう願うばかりだった。

 ファミレスで高橋と別れた堂本は、慶子を自宅に送り届けると、大久保にある事務所兼用の自宅に向かった。
「アニキ、あの女、これからどうなるんですかね?」
 手下の口調は、まるで慶子のこれからに期待しているかのように聞こえた。
「どうなるって?三ヶ月も持たねえだろうよ。何しろ金利は俺のとこの六倍だ。それに高橋んとこの追い込みは半端じゃねえからな。よほどの根性がねえと、もう逃げ場がなくなる、心身ともにな。銭《かね》にはまった人間は、最後はみんなそうなるのさ、特に擦《す》れていないヤツほどな」
 手下の問いに堂本は自信たっぷりに答えた。
「逃げませんかね?」
「逃げるだけの度胸があれば、もうとっくに逃げてるさ。そんな度胸、あるわけないだろ?あの女に」
「そうっすか。いや勉強になります」
 セルシオは大久保通りに入った。夜の十一時を回っているというのに、車が詰まっている。工事渋滞だった。
 いつもの堂本なら、ここでイラつくところだ。が、今日は、そうはならなかった。堂本は、慶子のこれからに思いをめぐらせていた。

                        *

 明治通りは相変わらずの渋滞だった。渋滞は新宿通りまで続いている。堂本はイラついていた。この男は、思い通りにならないことがあると、すぐに癇癪を起こす。
「なんで左を走らねえんだ。オマエ、車の運転、何年やってんだ!」
 堂本は、手下を怒鳴りつけた。が、いちばん左の車線は、駐車車輌でほぼふさがれている。手下はセルシオを左車線に移動させたものの、五十メートルも行かないうちに、また元の車線に戻るしかなかった。
「くそっ!」 そう吐き捨てると、堂本は運転席を後ろから蹴った。
 そんな堂本を、隣の席に座った女が、上目遣いに窺うように見ていた。顔にやつれが見える。眼の奥には怯えが潜んでいる。
 女は忠岡慶子だった。堂本は、高橋から慶子を五十万円で買い戻したのである。高橋に追い込まれた慶子は、会社を辞め家賃も滞納していた。

 堂本は、高橋から債権を買い取ったあと、慶子を犯した。場所は慶子の部屋だった。このとき、慶子はもう壊れかけていた。裸になることを強要すると、慶子は最初は躊躇《ちゅうちょ》していたが、そのうち、あきらめたかのようにのろのろと服を脱いだ。さすがに、最後の小さな布切れだけは自ら取ることはできなかったが、堂本が剥ぎ取ろうとすると、小さく抵抗しただけだった。
 慶子の肉体《からだ》は、服の上から想像していたとおりだった。乳房《ちち》は突き出しており、臀《しり》もよく発達している。淑やかで清楚な雰囲気を漂わせる外見とのアンバランスに堂本は久しぶりに興奮した。
 その日、堂本は何度も果てた。慶子も最初こそ怯えていたが、途中から肉体《からだ》が応戦し、最後は大きな喘《あえ》ぎ声をあげた。
 堂本は経験的に知っていた。人間には二つのタイプがあると。最終的に追いつめられると、人が変わったように好戦的になり、激しく反撃してくる人間。追いつめられると、恐怖により怯えた状態になり、他者の要求に一方的に従うようになる人間。
 堂本は、慶子が後者であることを本能的に認識していた。

 堂本は、百貨店の駐車場にセルシオを停めさせると、靖国通り沿いの細長いビルを目指して歩き始めた。慶子は黙って従った。後ろには、堂本の手下がついている。
 慶子は、行き交う人たちの視線を感じた。奇妙な取り合わせだった。野獣のような眼をした男と、端正な顔立ちに憂いを帯びた表情の女。
 しかし、行き交う人たちは、急き立てられるように通り過ぎて行った。好奇な視線を浴びせる者も、慶子の眼の前に広がる果てしない闇など知る由もなかった。

 新宿三丁目の何の変哲もない雑居ビルに、男たちの究極の欲望を満たす空間がある。雑居ビルの四階でエレベーターが停まった。堂本は顎をしゃくって慶子を促した。
 エレベーターを降りると、中国の宮殿風の門構えになっているエントランスがあった。金瓶梅《きんぺいぱい》という、金箔で装飾された文字が際立っていた。中国の王宮をイメージしたのだろう。安っぽくて品のない豪華さだった。
 中に入ると、床には厚手の絨毯が敷き詰められ、内装も中国の宮殿風に統一されていた。慶子にとって、経験したことのない雰囲気が漂っている。チャイナドレスを纏《まと》った若い女と眼が合った。嘲笑うような眼つきに、足がすくみそうになった。
「店長はいるか?」
 堂本は深々とお辞儀をしている黒服に声をかけた。
「こちらでございます」
 堂本たちは、奥まったところにある応接室に案内された。エントランスとは対照的な貧弱なソファーが置かれている。店の責任者らしき男が、堂本に丁寧な挨拶をした後で、対面に座った。男は、慶子の肉体《からだ》に舐めるような視線を這わせている。慶子の心の中に言い知れぬ不安が募ってきた。
「堂本さん、今日の娘《こ》はまた格別ですね」
 店長が愛想笑いを浮かべながら言った。人格の卑しさが人相に滲み出ている。
「ちょっとプライドが高いのが難点なんだ。でも、顔も一級品だし、なんてったって肉体《からだ》が最高だ。まっ、めったにいないいい女だ」
「きっと人気が出ますよ。ところで名前は何にしましょうか?カノジョ、自分で決めた名前ってないの?」
「そんなのないさ」
 慶子に代わって堂本が答えた。
「じゃあ、麗華ちゃんなんてどうでしょう?カノジョは気に入ってくれるかな」
 慶子は相変わらず無言のままだった。
「ちゃんと返事をしないとな。今日からオマエは麗華なんだから、もう。覚悟して来たんだろ、だったらもっと素直にならないと」
 堂本は、怒鳴りつけたくなる気持をこらえて諭すように言った。―もう観念しな―眼がそう語っていた。
「まあまあ、最初はみんなこうですよ。怖いところだと誤解するんです。でも、慣れてくれば分かりますよ。そんなに悪いところじゃないって。みんな、同じような年ごろの娘《こ》ばっかりだし」
 店長が、間を取り持つように優しく言った。もう、あの舐めるような眼差しはどこかに消えていた。が、慶子の顔は強張《こわば》ったままだった。
「店長、この娘《こ》の最初の客は、コイツだからな」
 堂本は、応接室の入り口に立ちつくしている手下の方に左手の人差し指を向けながら言った。慶子は顔をしかめた。が、これが今の現実だった。
 慶子は、この店長と呼ばれる男の眼前に、肉体《からだ》のすべてを隅々まで晒《さら》さなければならない。全裸のまま、肉体《からだ》に男を喜ばせる技術を仕込まれる。これが、これから始まる慶子の新人研修である。
 慶子の眼の前には、荒涼とした未来が待ち構えていた。

                        *

 田島四郎は、靖国通りを新宿三丁目に向かって歩いていた。冷気が躰に凍みた。大寒はとっくに過ぎたのに、寒さはむしろ厳しさを増していた。
 靖国通りは、押し寄せる波のような人であふれていた。田島は波に逆行していた。人の波は歌舞伎町に向かっている。田島は歌舞伎町の外に向かっていた。
 新宿は東京の吹き溜まりである。その新宿らしさを最も強く感じさせるのが、靖国通りと、その北側に拡がる歌舞伎町という街である。
 この街には雑多な人々が蠢《うごめ》いている。人の数と同じだけの雑多な欲望が渦巻いている。この街では、まともな履歴書がむしろ邪魔になる。人生に落ちこぼれた者にとって、この街ほど過ごしやすいところはない。
「兄ちゃん、気をつけな」
 田島は肩がぶつかった若い男に、振り向きざまに言った。若い男は睨み返してきた。しかし、田島の顔を見ると、沈黙して去っていった。田島の表情には、既に裏社会の翳《かげ》が滲み出ていた。

 田島は、新宿三丁目にある金瓶梅というソープランドに向かっていた。仕事以外では、たまにしか遊べない高級な店だった。入浴料だけで二万円である。それ以外に、女に三万円を支払わなければならない。
 田島の生業《なりわい》はフーゾクライターである。歌舞伎町を中心に新宿界隈のフーゾク店を取材し、週刊誌や夕刊紙に記事を提供する。それ以外に、アダルトビデオの新作や流出ものの紹介記事も手がけていた。この日は原稿料が懐に入っていた。
 懐が暖かくなると酒とフーゾクで憂さを晴らす、これが田島の定番である。ギャンブルは、唯一の熱くなれる対象だったが、ストレスが増幅されることの方が多かった。その点、フーゾクは、事情に通じているだけにハズレの確率が低かった。
 田島は、もともとは『週刊芸能』という、エロとヤクザがらみの記事を得意とする週刊誌のフーゾク担当だった。ギャンブルにのめり込んで出版社を辞めざる得ない羽目に陥ったが、そのころに培った人脈を活用してメシを食っていた。
 田島は、特定の出版社と契約しているわけではない。いわゆるフリーランサーである。フリーランサーと言えば聴こえはよいが、収入は不安定で、その日暮らしの職業だった。田島の原稿料は一ページ二万円で、これに取材費が加算された。
 金瓶梅に着いた。見た目は高級店にふさわしい豪華な店構えだったが、どことなく安っぽくて淫猥な雰囲気が漂っていた。
「いらっしゃいませ」
 黒服が丁寧に頭を下げた。
「これはこれは、田島さんではありませんか」
 店長が愛想笑いを浮かべながら近づいてきた。下卑た顔付きの男だった。
「今日は取材じゃないのですか?」
「違う。取材でソープに来ても、遊んだ気分になれないんだ」
 店長は取材でないことは端《はな》から分かっていた。取材であれば、必ず事前に連絡が入る。店の方も、取材用の女を用意したりして準備をする。
「いい娘《こ》は入っていないのか?」
 田島は常套句を口にした。
「最近入った娘《こ》で、飛びっきりの上玉がいますよ」
 店長も馴染みの言葉で切り返した。
「いつも同じことを言うな、あんたは。まっ、いいや。とにかく俺は痩せたのは嫌いだからな」
「いえ、もう田島さんの好みにピッタリですよ」
 このやり取りも毎度のことだった。
 店長は、言葉に例えようのない笑みを浮かべた。
 田島は、待合室に案内された。待合室は、平日にしては混み合っていた。大半が中年のサラリーマン風の男たちだった。若い男やチンピラと思しき者もいる。男たちは、けっして眼線を合わせなかった。
 田島は、店長の下卑た顔に浮かんだ愛想笑いを思い浮かべた。田島さんの好みにピッタリですよ―という言葉には、いつも裏切られてきた。しかし、何故か今夜は気持が昂《たか》ぶっていた。
 女が姿を現した。女は麗華という名前だった。麗華を見て田島は息を呑んだ。息を呑んだあとで胸が熱くなった。麗華は、田島が若いころに憧れていた女と瓜二つだった。
「いらっしゃいませ」
 麗華の言葉は、丁寧だがおざなりだった。
 田島に、青春と呼べる時代があったのかどうか、本人自身も定かではない。そのころは、とにかく思い出したくない時代であることは間違いない。しかし、その女のことだけは未だに忘れられなかった。
 田島が憧れていた女は、そのころは輝いて見えた。麗華は少しやつれているようだ。自分の意思を殺しているように見えた。麗華は憧れの女によく似ていたが、表情が暗くて沈んでいた。
 個室に入ると、麗華は、腰の辺りまでスリットの入ったチャイナドレスを脱いだ。機械的な動作だった。身に着けているのは、小さな三角形の布切れだけだった。露わになった乳房《ちち》は、形がよくてボリュームがあった。色が抜けるように白い。
 麗華は、最後の布切れも取った。腰から臀《しり》にかけての曲線が豊かで優美である。田島は麗華の裸を眼前にしながら、遠くを見詰めているような眼つきになった。感傷的な気分と卑猥な欲望が交錯して、言いようのない複雑な感情がこみ上げてきた。

つづく

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