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2010年4月

2010/04/18

怨讐:8.蹉跌

小説を更新しました。
8.蹉跌 」です。

この章では、当時の学生運動を語っています。


Sasebo
機動隊の警備車輌を占拠した学生たち



【あらすじ】

 暴力と欲望が渦巻く禽獣の街。この街の闇に棲む左門肇は桎梏の過去を背負っている。ある日、たった一人の親友である田島四郎が殺害された。田島は、元アイドルの裏ビデオを残していた。左門は復讐を決意する。しかし、立ちはだかる敵は巨魁だった。
 新宿署の谷口刑事が執拗に左門を追う。
 左門と谷口刑事の間には、遠い過去の因縁があった。
 青春の蹉跌、というには、あまりにも重すぎる過去。仇敵は過去の悪霊だった。
 全共闘・革命幻想に酔いしれた時代。その時代を懸命に生きた男たちのその後の生き様を、ハードで簡潔な筆致で綴った怨讐の物語である。



怨讐 ←(縦書きPDFで読めます)

プロローグ
1.陥穽
2.引導
3.裏ビデオ
4.光芒
5.恐喝
6.抹殺
7.邂逅

以上は、「小説家になろう」のサイトにリンクしています(縦書きで読めます)。



「怨讐」は以下のページに移りました。

小説家になろう

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2010/04/14

怨讐:7.邂逅

小説を更新しました。
7.邂逅 」です。

この章は、私の総括でもあります。


Sasebo
機動隊の警備車輌を占拠した学生たち



【あらすじ】

 暴力と欲望が渦巻く禽獣の街。この街の闇に棲む左門肇は桎梏の過去を背負っている。ある日、たった一人の親友である田島四郎が殺害された。田島は、元アイドルの裏ビデオを残していた。左門は復讐を決意する。しかし、立ちはだかる敵は巨魁だった。
 新宿署の谷口刑事が執拗に左門を追う。
 左門と谷口刑事の間には、遠い過去の因縁があった。
 青春の蹉跌、というには、あまりにも重すぎる過去。仇敵は過去の悪霊だった。
 全共闘・革命幻想に酔いしれた時代。その時代を懸命に生きた男たちのその後の生き様を、ハードで簡潔な筆致で綴った怨讐の物語である。



怨讐 ←(縦書きPDFで読めます)

プロローグ
1.陥穽
2.引導
3.裏ビデオ
4・光芒
5.恐喝
6.抹殺

以上は、「小説家になろう」のサイトにリンクしています(縦書きで読めます)。



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2010/04/06

怨讐:プロローグ~5.恐喝-までを一挙掲載

怨讐:プロローグ~第5部「恐喝」-までを一挙掲載します。(33,861文字)


【あらすじ】

 暴力と欲望が渦巻く禽獣の街。この街の闇に棲む左門肇は桎梏の過去を背負っている。ある日、たった一人の親友である田島四郎が殺害された。田島は、元アイドルの裏ビデオを残していた。左門は復讐を決意する。しかし、立ちはだかる敵は巨魁だった。
 新宿署の谷口刑事が執拗に左門を追う。
 左門と谷口刑事の間には、遠い過去の因縁があった。
 青春の蹉跌、というには、あまりにも重すぎる過去。仇敵は過去の悪霊だった。
 全共闘・革命幻想に酔いしれた時代。その時代を懸命に生きた男たちのその後の生き様を、ハードで簡潔な筆致で綴った怨讐の物語である。


Sasebo
機動隊の警備車輌を占拠した学生たち



怨讐 ←(縦書きPDFで読めます)


プロローグ

 男は、歌舞伎町のはずれにある小さな酒場にいた。酒場は、遊歩道と水子《みずこ》神社に挟まれたハモニカ長屋のようなバラックが立ち並ぶ一画にあった。
 酒場は五坪ほどの広さで、カウンター席と小さなテーブル席が二つあるだけだ。貧相な木製のドアに、サン・ハウスという店の名前が書かれたプラスチックの板が掛けられている。
 酒場の中には、シンプルだが攻撃的で、どこか哀調を帯びた泥臭い音楽が流れていた。音量は聴かせるというほど大きくはなく、どちらかといえばBGMの雰囲気だった。客の嗜好に配慮しているのだろう。
 壁には七十年代に来日した黒人ミュージシャンの公演ポスターが貼られている。赤茶けたポスターは、手を触れると今にも破れそうだった。
 男は、カウンターのスツールに腰を掛けてバーボンをオン・ザ・ロックで呑んでいた。リズムに合わせて小刻みに体を揺すっている。
 泥臭い音楽と安物のバーボン、場末の酒場、いかにもステレオタイプの組み合わせだが、この男は場に馴染んでいた。男の年齢は四十代の前半に見えた。しかし、ときどき、ずっと年を食った雰囲気を漂わせることもあった。
 男は小さくグラスを振った。氷がグラスの中で踊ってカラカラと音を立てた。マスターは、空になったグラスに手を延ばした。男と眼線が合った。男は柔和な眼差しだったが、奥に翳《かげ》りがあった。
 酒場のある一画は、時計の針が止まっているようだった。未だに遠い昔の淫売窟だったころの残滓がこびりついている。六十年代の溢れ返るような熱気の名残もあった。
 男は、たまにこの酒場に顔を見せる。泥臭い音楽とバーボンが融け合って、不思議と安らいだ気分になれるのだった。
 男は、ときどき焦燥を感じることがある。この数年の間に芽生えた感情だった。時間だけが無為に過ぎ去っていくことに対する苛立ちだった。
 野太い艶《つや》のある声がシャウトしている。男はバーボンを口に含んだ。独特のコクに喉を鳴らした。ブルースハープの音色がもの憂げだった。

「待ち合わせですか?」
 琥珀色のグラスを男の前に置くと、マスターが訊いた。既に三杯目だった。
「田島とね」
 男は、左腕の時計に眼をやった。時計の針は、もうすぐ午後八時を差そうとしていた。
「田島さんですか……」
 マスターは微かに眉を寄せた。マスターは田島を嫌っていた。というより悪酔いする男が嫌いだった。
 カウンターの端の席に若いカップルが腰を掛けていた。マスターと何やら話を交わしている。
 最近は若い客がけっこう多くてね―男はマスターの言葉を思い出した。この街は、若者たちにとって既に伝説になっていた。
 ドアが開いて田島が姿を現した。
「らっしゃい」
 マスターは眼を伏せたまま、少しだけ入り口に顔を向けて客を迎えた。
「よおっ!」
 田島が右手を中途半端に上げながら、店の中ほどまで進んできた。
「やけに嬉しそうだな」
「たまにはな。神は我を見捨てずさ」
 田島は、頬をゆるめながらブルゾンの内ポケットがある辺りを押さえた。
「早くいこうぜ、今日は俺の奢《おご》りだ」
 座りもせずに田島は男を急かした。
「それより呑まないのか?」
 男は、「神」という思いもかけない言葉に苦笑しながら、落ち着かない田島に訊き返した。
「ここんとこ酒が入るとからっきしでね」
 マスターに少し気兼ねした様子で田島が応えた。
「気にしないでください」
 マスターが口を挟んだ。そっけない物言いだった。
 男は腰を上げた。千円札三枚でお釣がきた。男は田島といっしょに店を出た。
「左門さん、また」
 マスターの言葉を背中で聞いた。街はすっかり冷え込んでいた。男と田島は、白い息を吐きながら新宿三丁目を目指して歩き始めた。

                         *

 左門と田島は、新宿三丁目の雑居ビルを出て靖国通りの舗道を歩いていた。これから百人町にある小さなバーに寄るつもりだった。時計の針は午後十時を回っていた。
 左門は、顔付きは穏やかだが頬の辺りが削げている。痩身だが広い肩幅は逞《たくま》しさを感じさせた。田島は中肉中背で背中が丸く、まばらな無精髭に顔がくすんで見える。
 まだ十月の半ばだというのに、まるで冬を思わせる寒さだった。湯あがりの膚が寒さで張りつめてきた。二人はブルゾンの襟元を合わせた。
 横断歩道を渡った。百人町までかなりの距離がある。区役所通りをしばらく歩き、近道をするために左に折れた。
 掃き溜めのような通りに人間がひしめいていた。酔ったサラリーマンや無遠慮に通りを占領している若者たち、中には辺りを物珍しそうに見廻している者もいる。二人が踏み入れた街には時間の観念がなかった。
 赤や青の原色のネオンが妖しく煌《きら》めいている。この野卑で猥褻な街は、期待と不安が混交した男たちの後ろめたい好奇心を掻《か》き立ててやむことがない。きらびやかで淫猥なネオンの洪水が、男たちの飽《あ》くなき欲望を煽り立てる。
 射精産業とはよく言ったもんだ。男の欲望は尽きることなし……か―左門は、いつもは避けて通る歌舞伎町の街中を歩きながら改めて感心した。
「三丁目よりこっちの方が良かったかもな」
 左門の独り言に田島は無言だった。
 客引きと思しき男や女が其処彼処《そこかしこ》に立っている。どの顔も、人待ち顔に卑しい愛想笑いを浮かべていた。
「なんであんなのに騙されるんだ……ん?」
 左門肇は、ソバージュのかかった髪をまだらに染めた女を見つめながら訊いた。黒いニットのワンピースは極端に裾が短くて、乳房《ちち》や臀《しり》の隆起が一目で分かった。
 女は、ワンピースの上に何も羽織っていなかった。カモを捕まえるためであれば、少々の寒さは平気らしい。
「あの甘えたような媚びた声に癒されるんだ、この街を知らないヤツらは。砂漠でオアシスにめぐり合えたような、まっ、そんな感じかな」
 田島四郎は、したり顔で応えた。
 オマエにはそんなヤツらの気持は解らないさ―左門にはそう聴こえた。 
 女の眼が田島を認めた。微笑みを投げかけてきた。田島は左手を軽く上げて女に応えた。田島は、この街では、それなりに知られた存在だった。
 通りの角に男たちがたむろしていた。日本人とは顔付きの違う男たちと視線が交錯した。男たちの眼は無表情でぬめっていた。一人が携帯電話に向かって、何事かを大声でまくし立てている。言葉は早口で意味不明だった。
「いつ見ても気味の悪い連中だぜ」
 いまいましそうに吐き捨てて田島が眼線をそらした。左門は無視した。
 くたびれた感じの男が道端《みちばた》に座り込んでいた。ネクタイは縒《よ》れて口から涎を垂らしている。眼をつむってブツブツと何事かを呟いていた。誰も眼もくれなかった。
「凍《こご》えちまうぞ」
「大丈夫さ」
「しかし……」
「最後はオマワリさんが面倒を見てくれるさ。身ぐるみ剥《は》がされた後でな」
 関わるのはよせ―そう田島は言いたげだった。
「立つんだよ、ほら」
 左門は男の左腕を引き上げた。
「うるせーっ!どいつもこいつも俺をコケにしやがって。オマエは何様だ!」
 男は、呂律《ろれつ》の回らなくなった口で喚きなが左門の手を振り払った。ゴミ箱に抱き着くようにして立ち上がると、よろよろと歩き始めた。
「ほっとけよ」
 呆れた様子で田島が言った。
 その、人の好さが、いつもオマエを苦しめるのに……ちっとも変わっていない―田島は、ほんとうはそう言いたかった。
「あんなの相手にしてたらキリがねえ」
 田島は、口から涎を垂らしたままの男と左門を置いたまま、先に歩き出した。
 男が正気に戻ったとき、恐らく財布は空になっている。現金はおろか、カードや免許証さえも失くしている筈だ。
 仕方がねえさ……―田島は心の中で呟いた。

「寒……」
 左門が肩をすくめた。
「昼間の暑さが嘘みてえだな。まるで冬だ」
 田島が相槌を打った。
「世の中が狂っているから天気までおかしくなったってか」
 左門は自嘲気味に言った。
「冬は耐えられねえよ。冬なんてなくなったらいいのにな」
 田島は白い息をフッと吐いた。
「冬がなきゃあ春も来ない、だろ?」
「冬が過ぎても春なんて来ねえさ」
 左門の問いに田島はなげやりに応えた。

 歌舞伎町は男にとって便利な街だ。あらゆる欲望を満たしてくれる。男の虚言《うそ》と女の打算、わずらわしい駆け引き―この街にはそれがない。男はセックスがしたい、女はカネがほしい―ただそれだけである。カネさえあれば満足はなくても取りあえずは充足される。
 田島がこの街を離れないのは、そのせいだろう。左門はこの街が好きではない、というより嫌悪に近い感情を抱いている。だから家に帰るとき、わざわざ回り道をする。が、左門にとっても、この街は生活の一部になっている。
 ただ、この巣窟は、慣れていない男たちにとっては、快楽と恐怖が背中合わせになった危険な街だ。饐《す》えた臭いが堆積した路地裏を、暴力と無法がまかり通る。

                         *

 この街も、職安通りが近くなると人影がまばらになる。きらびやかなネオンよりも闇の方が深くなる。行き交う男や女たちは、どの顔も曰くありげだった。
 背後から猛烈な勢いで靴音が迫ってきた。複数の靴音が連続している。緊迫感があった。左門と田島は思わず振り返った。
 土気色の顔をした二人の男が走り抜けていった。恐怖で形相がゆがんでいる。後ろを眼つきの鋭い男たちが追っている。
「何だ?」
 左門が訊いた。
「ボッタクリさ……きっと客が逃げ出したんだよ。たぶん田舎もんだな」
 田島は事もなげに言った。
「通報しないのか?」
「そんなことしても無駄さ。店の場所すら分からないんだから。当の客がよく覚えていないし。まあ、ボコボコにされて財布とカードを巻き上げられて終わりさ。まず、殺されることはねえよ」
 田島は悠長に応えた。おそらく、この街では珍しいことではないのだろう。
 左門の顔色が変わった。怒気を孕《はら》んだ顔は蒼白だった。
 すぐ先の右手にバッティングセンターが見えた。左門は無言のまま金属バットを掴み、すぐさま男たちの後を追った。呆気《あっけ》にとられた店員は、立ち竦《すく》んだままだった。

 暗がりの中に怒声が飛び交っている。黒い影がもつれている。追いつめられた男たちが、チンピラたちと格闘している様子が遠目にも分かった。
「殺《や》っちまえ!」
 怒声が一方的になった。チンピラたちは蹲《うずくま》った男たちの頭を続けざまに蹴った。男たちは路上に転がったまま動かなくなった。カモを追いつめたチンピラたちは容赦しなかった。鋭く尖《とが》った革靴の切っ先が、男たちの腹をえぐろうとしている。
 そのとき、金属バットがチンピラの後頭部に振り下ろされた。鈍い音が立て続けに響いた。チンピラたちは、何が起こったのかも分からないまま地面に叩き伏せられた。
 関節の砕ける音がした。チンピラたちは、のたうちながら呻《うめ》き声をあげた。肘や膝が奇妙な角度にねじれていた。
 小さな震えが左門を襲った。動悸が激しくなり、息苦しくなった。全身から冷汗が噴き出している。左門は、ようやくバットを振るのをやめた。

「逃げよう早く」
 田島が急かした。
 左門と田島は小走りに職安通りを渡った。職安通りの先の路地は薄暗くて、人通りはほとんどなかった。
「一体どうしたんだ?あんな無茶をして」
 田島が尋ねた。顔がまだ蒼ざめている。言葉には怯えが潜んでいた。
「分からない……どうしてなのか分からないんだ。躰が勝手に動いちまった」
 自分自身に困惑した様子で左門は応えた。
「凄い形相だったな」
「そうか……まったく覚えていない」
 左門は既に冷めていた。ついさっきの金属バットの男とは、まるで別人のようだった。
「アイツらとは関わらない方がいい。氷川会に睨まれたらこの街では生きていけねえ」
 田島の口調は憂いを帯びていた。
 唐突だった。何かが弾けた。衝動が突き上げてきて、左門は自身を制御できなかった。
 時の流れはあらゆるものを風化させる。怒り、苦しみ、憎しみ、哀しみ、すべてが記憶の彼方に遠ざかり、退屈で単調な日常の中に埋没する。しかし、心に刻み込まれた傷は癒されたわけではない。ただ、意識の底に深く沈んでいるだけだ。
 現在も未来も過去に拘束されている。いびつな情念が、左門の心の奥底でマグマになっていた。根源は意識の外にあった。

「とにかくそのバットを処分しないとな。指紋だって残ってる」
 田島が言った。
「そうだな。この先の公園にトイレがある。そこで綺麗に洗おう」
 左門が応えた。
 狭い路地のような通りの右側に小さな公園があった。左門は公衆トイレで金属バットを洗うと、ブルゾンで拭って潅木の繁みに放り込んだ。
 こいつは一体どうなっているんだ?―左門は、田島からすれば優しすぎる。なのに、この常軌を逸した暴力。田島は、その乖離《かいり》に驚きを抑えきれなかった。
 が、人間の心の深層は、誰も窺《うかが》い知ることはできない。何人の心にも狂気は棲息している。俺だってそうかもしれない。俺は臆病な男だが、何かの拍子に狂気に突き動かされるかもしれない。
 田島は、左門の行為をそう理解して納得するしかなかった。


1.陥穽

 そのマンションは二階建で閑静な住宅街にあった。辺りは既に夜の静寂に支配されていた。時折、人や車が行き交うだけで、表通りの喧騒とは無縁だった。街路灯の薄明かりの中に家並みがぼんやりと浮かんで見えた。
 洒落《しゃれ》た造りのこぢんまりとしたマンションだった。どの部屋も欄窓から燈火《あかり》がこぼれている。二〇三号室だけが暗闇だった。
 街路灯の下を女が歩いていた。女のマンションは、最寄り駅から五分ほどのところにある。女は滅入っていた。マンションが近づくにつれて足取りが重くなった。
 色の白い整った顔立ちの女だった。グレーのタートルのセーターに光沢のあるライトブラウンのパンツを穿《は》いている。薄手のセーターとタイトなパンツからは、躰《からだ》のラインがリアルに見て取れた。
 ブーツの踵《かかと》が規則的な音を刻んでいる。が、音の間隔は段々と長くなり、やがて小さくなった。
 女の顔が蒼白く見えるのは、街路灯のせいばかりではない。女は男の影に怯えていた。男は夜になるとやって来る。獣を思わせる眼で見据えられると、躰が竦《すく》み息がつまりそうになる。震えが躰の芯から湧いてくる。
 時計を見た。針は午後九時半を差していた。女は、つい先ほどまで最寄り駅を出たところにある喫茶店で時間を潰していた。午後九時を過ぎれば、男の行為は法律で禁止されているはずだった。会社の近くで立ち読みした本にそう書いてあった。
 どうしてこんなことになったのかしら―女は自分自身が情けなくなった。悪夢の始まりは、郵便受けに投げ込まれていた「十万円借りて返済は一日千円・電話一本で即日融資・保証人不要」というチラシだった。チラシには貸金業登録番号もきちんと書かれていた。
 後悔しているうちにマンションの前に着いた。
 周囲を見廻して人影がないのを確認すると、オートロックの鍵穴にキーを差し込んだ。
 よかった。本に書いてあったことは本当だったのね―女はほっと胸をなでおろした。が、それは束の間だった。郵便受けに封書が入っていた。あの男からの督促状だった。

                         *

 女は電車の窓を凝視していた。窓には鏡のように自分の顔が写っている。生気が感じられない暗くて沈んだ表情の顔だった。それ以外の景色は女の眼には入らない。
 自身の顔を見て女はさらに落ち込んだ。
 お気に入りのエルメスのバッグに微《かす》かな振動が感じられた。マナーモードにしているから音はしない。が、女は、あの男からの電話だとすぐに分かった。
 携帯電話には、あの日から毎日かかってくる。それも一度や二度ではない。最近は、会社にもかかってくるようになった。借金の返済を督促するチラシも二日に一回は郵便受けに投函されている。チラシに書かれている文言は日ごとに激しさを増していた。
 女は電話に一度も出たことがなかった。会社では居留守を使った。そのせいで、同僚からは訝《いぶか》しそうな眼つきで見られるようになった。あの男から逃れられないのは分かっている。が、怯えが電話に出ることをためらわせるのだ。
 女は、改札口を出て自宅のあるマンションに向かって歩き始めた。今日は、喫茶店で時間を潰すのをやめた。
 やっぱり逃げ切れない。このままだと、ますます追いつめられるだけだわ―もう逃げるのはやめよう、女は、そう心に決めた。が、男からの電話に出たからといって状況が変わるわけではない。そんなことは女にも分かっていた。
 部屋に帰り着くとまた携帯電話が鳴った。時計は午後七時半を少し回ったところだった。
「もしもし」
「あっ、忠岡さん?堂本です」
「……」
「ずいぶんだねえ、電話も出てくれないなんて。まっ、忙しいんだろうけど。でも、部屋にもいない、電話も出ないじゃあ疑っちゃうよね」
「……」
 女は無言のままだった。が、女の怯えている様子は電話口から男に伝わっている。 
「分かってると思うけど、俺たちには信頼関係しかないんだよ。最初に言ったろ、保証人なしで十五万も貸したんだから誠実に対応してもらわないとね。電話に出たってことは、その辺り、わきまえてくれたのかな?」
 男は女の返事を催促した。言葉はやわらかいが、声は冷たく、女を追いつめるような響きがあった。
「はい」
 女は、思わずそう応えた。
「それならいいんだけど。で、明日は家にいるの?」
「……」
「返事してよ、明日はいるの?」
「……」
「ったくもう、全額が無理なら半分だけでいいって言ってるだろ。それも払えないの?」
 女は「はい」と反射的に応えたものの、そのあとの返事ができなかった。半分だけと言われても一月に直せば二万五千円を超える。そのほかに消費者金融《さらきん》やクレジットの返済もある。月の手取りが二十万円そこそこしかない女にとっては、もうどうしようもない状況だった。
「とにかく、明日の今ごろお宅に行くからさあ、そのときに話を聞かせてよ。相談には乗るからさ。分かった?」
「分かりました」
 女は、かろうじて声を絞り出した。「相談に乗る」その言葉が不気味だった。良い意味に取りたい、と思うのだが、男のあの眼を思い出すと悪い方にしか考えられなかった。

                        *

 堂本良雄は上機嫌だった。やっと女を落とすことができる、そう確信したからだった。男は落ちるほど惨めになるが、女は落ちるほど銭《かね》になる。これが、この業界で堂本が学んだ鉄則だった。そして、銭《かね》にはまった女ほど落としやすいものはない。
 堂本は、自らの手下が運転する白いセルシオで忠岡慶子のマンションに向かっていた。
「アニキ、あの女、モノになりますかね」
 卑しい笑みを浮かべながら手下が訊いた。
「俺の狙いに狂いはねえ。あれは久しぶりの上玉《じょうだま》だ。きっと銭《かね》になる」
 堂本は煙草《たばこ》を吸うと、一呼吸置いた。
「オマエはまだ見習だから教えてやろう。俺は女に銭《かね》を貸すとき、まず故郷《いなか》を訊くんだ。次に独り住まいかどうかと年齢。最後が近くに身寄りがいるかどうかだ。まあ、顔と肉体《からだ》はいいに越したことはない。でも、そんなことは二の次さ。女は若いというだけで価値がある」
 自信たっぷりに堂本は言った。これまで餌食《えじき》にしてきた女は、ほとんどが地方出身で独り住まいの若い女ばかりだったからだ。堂本の基準からすると、女は三十歳が限界だった。
「はあ、そんなもんですか……」
 手下は、よく呑み込めない様子だった。
 セルシオは、この時間帯にしては渋滞も少なく、順調に目的地に向かっている。
 スモークガラス越しに外を眺めていた堂本が、
「手間暇かかるし面倒くさいこのビジネスを、短気な俺が何でやっているか分かるか?」
 と、試すように訊いた。
「ほんと、この商売は大変っすね。アニキもよくやっているなあ、といつも感心してるんです。トイチの方がシノギとしては儲かるし、手っ取り早いと思うんですけど」
 手下はピントのずれた答えを返した。
「トイチなんていずれ必ず挙《あ》げられる。その点、このビジネスは法にかなっている。何しろ国が認めた金利だからな。だから世の中を大手を振って歩ける。短期金融《やみきん》やってる連中と比べたらはるかに良心的さ」
 堂本は、自らのシノギの真っ当さを言い聞かせるかのようだった。
 確かに54.75%の金利は安いとは言えない。が、法に定められた範囲に収まっている。
 この歳になって危《やば》い仕事はもうゴメンだ―これが堂本の本音である。堂本は、獰猛《どうもう》さと狡猾《こうかつ》さを併せ持っていた。
「ところで、どうして故郷《いなか》を訊くんですか?なんで独り住まいで、身近に身寄りがいない女なんですか?」
 申し訳なさそうに手下が訊いてきた。
「ほんとにオマエは頭悪いな。田舎から出てきたOLを考えてみな。二十万そこそこの手取りで、家賃を五万円以上払って、携帯電話に光熱費とくりゃ、手元にいくら残る。十万もねえだろ。身寄りがいないから頼れる相手も限られる。で、周りにあふれている話題は海外旅行やブランドものの話ばかりだ」
 そんな女は銭《かね》に飢えている、だから銭《かね》にはまる確率が高い、これが堂本が経験から得た結論だった。
「昼間はOLやってるキャバ嬢なんてざらだ、知らねえのか?」
 堂本は、この頭のデキが悪い手下と話していると疲れてきた。
 まあ、でも、だからこそチンピラをやっている―そう思うと怒る気にもなれなかった。
「アニキって、いつも思うんですけど、なんかインテリというか頭いいっすね。俺、頭悪いから勉強させてください。で、できたらキャバクラにも一回連れてってほしいんですけど」
「今から会う女を落とせたら、オマエにもご褒美《ほうび》をやるさ」
 手下は、頭は悪くてもゴマすりだけはうまい。その点では業界の処世術をわきまえている。インテリと言われて、堂本も悪い気はしなかった。

                        *

 午後七時半きっかりに、堂本は忠岡慶子の部屋を訪れた。慶子は、いつもは玄関口で応対する。が、この日、堂本は、軽く断っただけで部屋の中まで上がりこんだ。慶子は少し驚いた顔をしたが、抵抗はしなかった。
 部屋はきれいに整頓されていた。カーテンやフローリングの床に敷かれたカーペットは、パステルカラーを基調にしている。壁には人気タレントと思しき男のピンナップが貼られており、いかにも若い女の部屋らしい。
 部屋の中ほどに白い小さな長方形のテーブルが置かれていた。堂本は、ゆっくりと腰を下ろし胡坐《あぐら》を組んだ。慶子は入り口近くに立ち竦《すく》んでいる。
「まあ、自分の部屋なんだから座ったらどうだい。お茶なんていいから早く座ってくれないかな」
 堂本が声をかけた。声には逆らえない響きがあった。慶子はテーブルを挟んで堂本の真向いに座った。
 ぎこちない所作《しぐさ》だった。慶子の表情には緊張と怯えが混在している。
「ずいぶんのご無沙汰だね。心配してたんだ正直。まあ、夜逃げするような人間じゃないってことは分かっていたけど。何しろ俺の仕事は、お客さんの自宅に出向いて集金することを義務づけられてるからね。俺も、ほとほと困ってたんだ」
 堂本はソフトな口調で話を切り出した。いきなり激しく攻め立てれば、相手はパニックになる。じわじわと追い込んで、最後は屈服させる。これが堂本のやり口だった。
「そんなに忙しかったのかい」
「ええ、色々とあって」
「まっ、人間、忙しいのが何よりだ。暇だとろくなことはない」
 場の緊張をほぐすように堂本は言った。しかし慶子の表情は硬いままだ。
「時間が余りないんで結論から話そう。今日はケジメをつけてもらいに来たんだ。俺も銭《かね》に余裕がないんでね。もう、これ以上待つわけにはいかないんだ」
 物言いは穏やかだったが、堂本には有無を言わせない迫力があった。慶子は、怯えを隠すように眼を伏せたまま押し黙っている。
「黙ってたら話が進まないだろ。俺だって忙しいんだ。まず、返す当てがあるのかないのか、はっきりさせてくれよ。さあ」
 堂本は、少し苛立《いらだ》った表情を見せた。が、まだ口調は穏やかだった。
「返せません」
 慶子の声は、小さい上に口ごもっていた。
「よく聞こえないな。『返せません』って言ったのか?」
 堂本が語気を強めた。慶子は小さくうなづいただけだった。
 慶子が銭《かね》を返済できないのは端《はな》から分かっていた。借金の返済が滞っている。もう貸してくれるところがない。だからこそ堂本の撒《ま》いたチラシを見て電話をかけてきた。
 それを承知で堂本は銭《かね》を貸したのだ。
 堂本は慶子の信用情報を調べ上げていた。キャッシングと消費者金融《さらきん》だけで百万円を超えている。そのほかにショッピングの残もあった。このところ、消費者金融《さらきん》には金利だけしか払っていない。
「誰かいないのか?頼れる人は」
 と、少しだけ優しく堂本が言った。
「いません」
 慶子は、そう答えるのがやっとだった。
 堂本は無言のまま首を左右に振った。
「ふざけるな!親とか兄弟とか友達とか、相談する相手はいっぱいいるだろうが!」
 いきなり堂本が怒鳴りつけた。まるで獣が吼《ほ》えているようだった。慶子の顔は蒼白になった。
「……」
「舐《な》めてるのか、こら!なんなら会社に集金に行こうか。親のところに乗り込んで、辺り近所に大声でふれ回ってやろうか、おい!」
 どすの利《き》いた声だった。膝《ひざ》の上で組んだ慶子の白い手が小刻みに震えている。
「……」
 この男は実家の住所まで知っている―慶子の唇が戦慄《わなな》いていた。言葉はおろか唾液さえ出てこなかった。
「今すぐ親に電話しろや!」
 堂本はテーブルを殴りつけると、携帯電話を慶子の顔に押し付けた。獣のような眼は獰猛《どうもう》な光を放ち、慶子はもう逃げ場がなかった。

                         *

 堂本は、慶子と初めて会ったときに、親兄弟や友人に頼れないその性格を見抜いていた。数多くの若い女と接してきた堂本には、この女の性質がよく解る。
 慶子は、悩みや苦しみを他人に打ち明けることができない内向的なタイプだ。すべてを心の内側に溜め込んでしまう。が、臆病なわけではない。心の奥に秘められたプライドが、それを許さないだけだ。
 見た目は淑《しと》やかでおとなしいが、虚栄心も自己顕示欲も、人並みかそれ以上にある。若い女性が好みそうなマンションや身の周りのブランドものを見れば、それが分かる。
 こういう女は、まず、そのプライドを徹底的に破壊する。心身ともに、どうにもならないところまで追い込む。どん底の世界に落とすのはそれからだ。落としてしまえば、こんなに扱いやすい女はいない。

「ほかの借金はともかく、俺の銭《かね》だけは返してもらわないとな。俺の知り合いで、あんたに銭《かね》を貸してくれるところがあるんだ」
 慶子を追いつめた堂本は、人が変わったように優しく言った。それでも慶子の表情は虚《うつ》ろだった。
「今から紹介してやるよ。二十万もあれば、俺に返済してもいくらかは手元に残るだろ」
 堂本は、罠《わな》を仕掛けたあとで慶子の反応を窺《うかが》った。
 慶子は伏せていた眼をあげた。表情がわずかながら変わったように見える。
 お銭《かね》は貸してほしい。けれども二十万円では、もうどうにもならない―慶子の心が揺らぎ始めていた。
「消費者金融《さらきん》とクレジット会社は踏み倒せばいい。何かあったら俺が話をつけてやる。心配するな。あとは、その二十万をきちんと返せばいい。そのくらいは返せるだろう?」
 慶子の心のうちを見透かすように堂本は言った。
「はい。でも……」
 慶子は、堂本の書いたシナリオにほぼはまった。が、まだ不安を拭《ぬぐ》いきれないでいる。
「消費者金融《さらきん》やクレジット会社は、ほんとうに取り立てに来ないんでしょうか?」
 恐る恐る慶子が訊いた。
「来やしないよ、絶対に」
 堂本は断言した。
 消費者金融《さらきん》やクレジット会社は上場企業である。文書や電話で返済を督促することはあっても、直《じか》に取り立て行為を行うことはない。堂本はよく知っていた。
 虚ろだった慶子の表情が、明らかに落ち着いてきた。
 堂本は、慶子の眼をじっと見つめながら携帯電話を右手で開いた。

 堂本は「高橋」に電話をかけた。話の内容からして「高橋」は金融業者のように思えた。堂本は「高橋」と短い時間、会話を交わし電話を切った。
 獣の眼が穏やかになっている。まるで微笑んでいるかのようだった。
「話はついたよ。よかったな。二十万あれば十分だろ。残りは踏み倒すんだ。なに、心配することはないって。カードで買い物ができなくなるだけだ。それに借金もできなくなるけど、その方がかえっていいんじゃねえか」
 堂本はほんとうに笑った、ように見えた。
 消費者金融《さらきん》やクレジット会社を踏み倒すことなんてほんとうにできるのかしら……―慶子は、安堵《あんど》より不安の方がまだ大きかった。
「一本だけいいかな?」
 堂本は、慶子の返事を待たずに煙草《たばこ》に火をつけた。
 クレジット会社や消費者金融《さらきん》なんて蚊のようなものだ。血を吸われたってしれている。が、これから借り入れることになる二十万円は、そうはいかない。おそらく、慶子の血を吸い尽くす。
 まあ、そんなこと、今は知らない方がこの女にとっては幸せだ―堂本は深く吸い込んだ煙草《たばこ》の煙を天井に向かって吐いた。


2.引導

 堂本は慶子を連れてマンションの外に出た。二十メートルほど先に、白い車の姿がぼんやりと見える。すぐ側《そば》に品のない外見をした若い男が立っていた。
 慶子は、自らがどこに向かおうとしているのかが分からなかった。街路灯の向こうに灰色の闇が拡がって見えた。慶子の足が竦《すく》んだ。
「どうした?」
 と、急き立てるように堂本が言った。
 若い男が、セルシオの後部座席のドアを開《あ》けた。堂本は、慶子を抱きかかえるようにして車に押し込んだあと、隣の座席に深々と腰を下ろした。
「西新宿の水道通りと山手通りが交差したところの角にあるファミレスだ。分かっているよな。十時だ。時間はある。焦らなくていい」
 堂本は、もう余裕たっぷりだった。
「はい。了解です」
 運転手役の若い男が答えた。堂本の手下だった。
 アニキが言ってたとおりだ。こんな上玉が網に掛かるなんて、アニキはほんとに凄い―手下は、バックミラー越しに慶子の顔を眺めながら、堂本がくれると言った「ご褒美」を妄想して、下卑た薄笑いを浮かべた。
 セルシオは、甲州街道に出ると、新宿方面に向かって走り始めた。行き交う光の数が増えてきて、やがて絶え間なく続く列になった。初台を通り過ぎた辺りから、セルシオは極端に速度が遅くなった。しばらくして左に折れた。
 車の列が、のろのろと進んでいる。窓越しに、道を行く人たちの表情さえ分かる。が、慶子の眼には何も映らなかった。自らの行く末を案じる余裕もなく、ただ茫然としていた。

                        *

 堂本が携帯電話で「高橋」と呼んだ男は名前を名乗らなかった。高橋は、見た目はビジネスマン風だったが、醸《かも》し出す雰囲気がどこか違った。堂本と同じ臭《にお》いを慶子は感じ取った。
 向いに座った高橋は申込書を差し出し、慶子に住所と氏名のほか、電話番号や勤務先などの個人情報を詳細に書き込ませた。末尾に連帯保証人(予定)という欄があった。慶子は躊躇《ちゅうちょ》した。
「あっ、そこは書かなくてもいいです」
 慶子のためらっている様子を見て高橋は言った。慶子は少しだけほっとした表情を見せた。
「連帯保証人なんて要りませんから」
 高橋が念を押した。連帯保証人などいないのは最初から分かっていた。
 申込書を回収した高橋は、A4の紙を一枚、慶子の眼の前に置いた。借用証と書かれていた。慶子は促されるままに、その紙に借入金額と住所、氏名を書き捺印した。借用証には何項目かの記載があったが、慶子にはよく読む時間が与えられず、高橋も何ら説明しなかった。
 慶子は金銭の貸借に疎《うと》い。だから借用証に書かれている文言を読んでも、よく理解できなかったかもしれない。それでも、金利の欄が空白で、返済日が十日後になっていることは、さすがに気になった。が、そのことを口にできる雰囲気ではなかった。
「保険証か運転免許証を見せてもらえますか?」
 高橋が求めた。慶子は健康保険証を提示した。
「今日はもう無理だから、明日、会社の方に在籍確認の電話を入れさせてもらいます」
 健康保険証を慶子に戻しながら高橋が言った。
 高橋は借用証をブリーフケースにしまうと、封筒を取り出した。中には十八万円の現金が入っていた。慶子は、どういうことなのかよく解らなかった。これでは、堂本に返済したら手元には数万円しか残らない。が、金利分は「天引き」される、これは短期金融《やみきん》の常識だった。
「二十万円じゃないんですか?」
 慶子がおずおずと訊いた。
「金利は先に払っていただく、これが業界のルールなんです。返済期日は十日後、これも決りです」
 高橋が冷たく答えた。

 ファミレスにいた時間は、二十分くらいだっただろうか。堂本と高橋はあまり会話を交わさなかった。
「返済期日は必ず守ってくださいね」
 高橋が、席を立つ前に釘を刺すように言った。慶子は、うつむいたまま返事ができないでいる。
「平日だから夜の方がいいかな?八時ごろはどうですか?」
「銭《かね》を借りたら返すのは当たり前だろう?返事をしないと」
 押し黙ったままの慶子を促すように堂本が口を挟んだ。
 慶子は「分かりました」と応えたつもりだったが、ほとんど言葉にならず、小さくうなづいただけに見えた。 
 一刻も早くこの場から消えていなくなりたい―慶子は、そう願うばかりだった。

 ファミレスで高橋と別れた堂本は、慶子から即座に貸付金を回収した。慶子を自宅に送り届けると、大久保にある事務所兼用の自宅に向かった。
「アニキ、あの女、これからどうなるんですかね?」
 手下の口調は、まるで慶子のこれからに期待しているかのように聞こえた。
「どうなるって?一ヶ月も持たねえだろうよ。金利だけでも十日で二万だ。それに高橋んとこの追い込みは半端《はんぱ》じゃねえからな。よほどの根性がねえと、もう逃げ場がなくなる、心身ともにな。銭《かね》にはまった人間は、最後はみんなそうなるのさ、特に擦《す》れていないヤツほどな」
 手下の問いに堂本は、断定するように答えた。
「逃げませんかね?」
「逃げるだけの度胸があれば、もうとっくに逃げてるさ。そんな度胸、あるわけないだろ?あの女に」
「そうっすか。いや勉強になります」
 セルシオは大久保通りに入った。夜の十一時を回っているというのに、車が詰まっている。工事渋滞だった。
 いつもの堂本なら、ここで苛《いら》つくところだ。が、今日は、そうはならなかった。堂本は、慶子のこれからに思いをめぐらせていた。

                        *

 明治通りは相変わらずの渋滞だった。渋滞は新宿通りまで続いている。堂本は苛《いら》ついていた。この男は、思い通りにならないことがあると、すぐに癇癪を起こす。
「なんで左を走らねえんだ。オマエ、車の運転、何年やってんだ!」
 堂本は、手下を怒鳴りつけた。が、いちばん左の車線は、駐車車輌でほぼふさがれている。手下はセルシオを左車線に移動させたものの、五十メートルも行かないうちに、また元の車線に戻るしかなかった。
「くそっ!」
 そう吐き捨てると、堂本は運転席を後ろから蹴った。
 そんな堂本を、隣の席に座った女が、上目遣いに窺うように見ていた。顔にやつれが見える。眼の奥には怯えが潜んでいる。
 女は忠岡慶子だった。堂本は、高橋から慶子を三十万円で買い戻したのである。高橋に追い込まれた慶子は、もう壊れかけていた。会社を辞め家賃も滞納していた。

 堂本は、高橋から債権を買い取ったあと、慶子を犯した。場所は慶子の部屋だった。このとき慶子は、自分の意思を喪失していた。裸になることを強要すると、最初は躊躇《ちゅうちょ》していたが、そのうち、あきらめたかのようにのろのろと服を脱いだ。さすがに、最後の小さな布切れだけは自ら取ることはできなかった。が、堂本が剥《は》ぎ取ろうとすると、小さく抵抗しただけだった。
 慶子の肉体《からだ》は、服の上から想像していたとおりだった。乳房《ちち》は突き出しており、臀《しり》もよく発達している。淑やかで清楚な雰囲気を漂わせる外見とのアンバランスに堂本は久しぶりに興奮した。
 堂本は餌食《えじき》を組み敷くと、最初に乳房《ちち》をしゃぶった。それだけで、もうこらえ切れなくなった。亀頭に唾《つば》をつけると、肉の割れ目に男根を乱暴に没入させた。しばらくすると、女を獣の姿勢にさせて臀《しり》の方から責めた。
 最初こそ怯えていた餌食も、最後は臀《しり》を突き上げて応戦した。堂本は痺《しび》れるような快感とともに、白濁した液体を餌食の内部に放出した。
 堂本は経験的に知っていた。人間には二つのタイプがあると。最終的に追いつめられると、人が変わったように好戦的になり、激しく反撃してくる人間。追いつめられると、恐怖により怯えた状態になり、他者の要求に一方的に従うようになる人間。
 堂本は、慶子が後者であることを本能的に認識していた。

 堂本は、百貨店の駐車場にセルシオを停めさせると、靖国通り沿いの細長いビルを目指して歩き始めた。慶子は黙って従った。後ろには、堂本の手下がついている。
 慶子は、行き交う人たちの視線を感じた。奇妙な取り合わせだった。獣のような眼をした男と、端正な顔立ちに憂いを帯びた表情の女。
 しかし、行き交う人たちは、急き立てられるように通り過ぎて行った。好奇な視線を浴びせる者も、慶子の眼の前に広がる果てしない闇など知る由もなかった。

 新宿三丁目の何の変哲もない雑居ビルに、男たちの究極の欲望を満たす空間がある。雑居ビルの四階でエレベーターが停まった。堂本は顎をしゃくって慶子を促した。
 エレベーターを降りると、中国の宮殿風の門構えになっているエントランスがあった。金瓶梅《きんぺいぱい》という、金箔で装飾された文字が際立っていた。中国の王宮をイメージしたのだろう。安っぽくて品のない豪華さだった。
 中に入ると、床には厚手の絨毯が敷き詰められ、内装も中国の宮殿風に統一されていた。慶子にとって、経験したことのない雰囲気が漂っている。チャイナドレスを纏《まと》った若い女と眼が合った。嘲笑うような眼つきに、足がすくみそうになった。
「店長はいるか?」
 堂本は深々とお辞儀をしている黒服に声をかけた。
「こちらでございます」
 堂本たちは、奥まったところにある応接室に案内された。エントランスとは対照的な貧弱なソファーが置かれている。店の責任者らしき男が、堂本に丁寧な挨拶をした後で、対面に座った。男は、慶子の肉体《からだ》に舐《な》めるような視線を這わせている。慶子の心の中に言い知れぬ不安が募ってきた。
「堂本さん、今日の娘《こ》はまた格別ですね」
 店長が愛想笑いを浮かべながら言った。人格の卑しさが人相に滲み出ている。
「ちょっとプライドが高いのが難点なんだ。でも、顔も一級品だし、なんてったって肉体《からだ》が最高だ。まっ、めったにいないいい女だ」
「きっと人気が出ますよ。ところで名前は何にしましょうか?カノジョ、自分で決めた名前ってないの?」
「そんなのないさ」
 慶子に代わって堂本が答えた。
「じゃあ、麗華ちゃんなんてどうでしょう?カノジョは気に入ってくれるかな」
 慶子は相変わらず無言のままだった。
「ちゃんと返事をしないとな。今日からオマエは麗華なんだから、もう。覚悟して来たんだろ、だったらもっと素直にならないと」
 堂本は、怒鳴りつけたくなる気持をこらえて諭すように言った。もう観念しな―眼がそう語っていた。慶子は引導《いんどう》を渡されたのだった。
「まあまあ、最初はみんなこうですよ。怖いところだと誤解するんです。でも、慣れてくれば分かりますよ。そんなに悪いところじゃないって。みんな、同じような年ごろの娘《こ》ばっかりだし」
 店長が、間を取り持つように優しく言った。もう、あの舐《な》めるような眼差しはどこかに消えていた。が、慶子の顔は強張《こわば》ったままだった。
「店長、この娘《こ》の最初の客は、コイツだからな」
 堂本は、応接室の入り口に立ちつくしている手下の方に左手の人差し指を向けながら言った。慶子は顔をしかめた。が、これが今の現実だった。
 慶子は、この店長と呼ばれる男の眼前に、肉体《からだ》のすべてを隅々まで晒《さら》さなければならない。全裸のまま、肉体《からだ》に男を喜ばせる技術を仕込まれる。これが、これから始まる慶子の新人研修である。
 慶子の眼の前には、荒涼とした未来が待ち構えていた。

                        *

 田島四郎は、靖国通りを新宿三丁目に向かって歩いていた。冷気が躰に凍《し》みた。陰鬱な冬の到来を肌身で感じた。
 靖国通りは、押し寄せる波のような人であふれていた。田島は波に逆行していた。人の波は歌舞伎町に向かっている。田島は歌舞伎町の外に向かっていた。
 新宿は東京の吹き溜まりである。その新宿らしさを最も強く感じさせるのが、靖国通りと、その北側に拡がる歌舞伎町という街である。
 この街には雑多な人々が蠢《うごめ》いている。人の数と同じだけの雑多な欲望が渦巻いている。この街では、まともな履歴書がむしろ邪魔になる。人生に落ちこぼれた者にとって、この街ほど過ごしやすいところはない。
「兄ちゃん、気をつけな」
 田島は肩がぶつかった若い男に、振り向きざまに言った。若い男は睨み返してきた。しかし、田島の顔を見ると、沈黙して去っていった。田島の表情には、既に裏社会の翳《かげ》が滲み出ていた。

 田島は、新宿三丁目にある金瓶梅というソープランドに向かっていた。仕事以外では、たまにしか遊べない高級な店だった。入浴料だけで二万円である。それ以外に、女に三万円を支払わなければならない。
 田島の生業《なりわい》はフーゾクライターである。歌舞伎町を中心に新宿界隈のフーゾク店を取材し、週刊誌や夕刊紙に記事を提供する。それ以外に、アダルトビデオの新作や流出ものの紹介記事も手がけていた。
 この日は原稿料が懐に入っていた。懐が暖かくなると酒とフーゾクで憂さを晴らす、これが田島の定番である。ギャンブルは、唯一の熱くなれる対象だが、ストレスが増幅されることの方が多かった。その点、フーゾクは、事情に通じているだけにハズレの確率は低かった。
 田島は、特定の出版社と契約しているわけではない。いわゆるフリーランサーである。フリーランサーと言えば聴こえはよいが、収入は不安定で、その日暮らしの職業だった。
 金瓶梅に着いた。見た目は高級店にふさわしい豪華な店構えだったが、どことなく安っぽくて淫猥な雰囲気が漂っていた。
「いらっしゃいませ」
 黒服が丁寧に頭を下げた。
「これはこれは田島さん。お久しぶりです」
 店長が愛想笑いを浮かべながら近づいてきた。下卑た顔付きの男だった。
「今日は取材じゃないのですか?」
「違う。取材でソープに来ても、遊んだ気分になれないんだ」
 店長は取材でないことは端《はな》から分かっていた。取材であれば、必ず事前に連絡が入る。店の方も、取材用の女を用意したりして準備をする。
「いい娘《こ》は入っていないのか?」
 田島は常套句を口にした。
「最近入った娘《こ》で、飛びっきりの上玉がいますよ」
 店長も馴染みの言葉で切り返した。
「いつも同じことを言うな、あんたは。まっ、いいや。とにかく俺は痩せたのは嫌いだからな」
「いえ、もう田島さんの好みにピッタリですよ」
 このやり取りも毎度のことだった。
 店長は、言葉に例えようのない笑みを浮かべた。
 田島は、待合室に案内された。待合室は、平日にしては混み合っていた。大半が中年のサラリーマン風の男たちだった。若い男やチンピラと思しき者もいる。男たちは、けっして眼線を合わせなかった。
 田島は、店長の下卑た顔に浮かんだ愛想笑いを思い浮かべた。田島さんの好みにピッタリですよ―という言葉には、いつも裏切られてきた。しかし、何故か今夜は気持が昂《たか》ぶっていた。
 女が姿を現した。女は麗華という名前だった。麗華を見て田島は息を呑んだ。息を呑んだあとで胸が熱くなった。麗華は、田島が若いころに憧れていた女と瓜二つだった。
「いらっしゃいませ」
 麗華の言葉は、丁寧だがおざなりだった。
 田島に、青春と呼べる時代があったのかどうか、本人自身も定かではない。そのころは、とにかく思い出したくない時代であることは間違いない。しかし、その女のことだけは未だに忘れられなかった。
 田島が憧れていた女は、そのころは輝いて見えた。麗華は少しやつれているようだ。自分の意思を殺しているように見える。麗華は憧れの女によく似ていたが、表情が暗くて沈んでいた。
 個室に入ると、麗華は、腰の辺りまでスリットの入ったチャイナドレスを脱いだ。機械的な動作だった。身に着けているのは、小さな三角形の布切れだけだった。露わになった乳房《ちち》は、形がよくてボリュームがあった。色が抜けるように白い。
 麗華は、最後の布切れも取った。腰から臀《しり》にかけての曲線が豊かで優美である。田島は麗華の裸を眼前にしながら、遠くを見詰めているような眼つきになった。感傷的な気分と卑猥な欲望が交錯して、言いようのない複雑な感情がこみ上げてきた。


3.裏ビデオ

 十二月にしては珍しく雪が舞っていた。田島は黄褐色に変色した天井を見上げながら、フーッとため息をついた。石油ヒーターをつけているのに吐息が白い煙のように吹き出されて、濁った空間に溶け込んでいく。
 ため息を一回つくと寿命が一日短くなる、誰かが言ってたなあ―田島の心の中には空洞が拡がっていた。深い闇の空洞だった。考えることは禁忌《きんき》だった。思考を重ねるほど闇は深くなり、やがて絶望に転化する。田島にとって、思考は絶望の同義語だった。
 闇に耐えるには、思考が欠落したあとの空洞を酒と性で埋めるしかない。酒と性の欲望だけが、闇が絶望に転化するのを辛《かろ》うじて防いでくれる。
 田島は自分の股間に手を伸ばした。躰《からだ》は冷えているのに男根だけが熱く滾《たぎ》っている。ボブ・ディランの歌が流れている。ボブ・ディラン、場末のストリップ劇場で燻《くすぶ》っていた臆病な男。しかし臆病でも、才能さえあればいつしか陽が当たる。

 道を行くためにコーヒーをもう一杯
 下の谷におりる前にコーヒーをもう一杯
 ……
 あんたは読み書きを知らず本棚には一冊も
 本がない
 あんたの快楽には底がなく声は雲雀《ひばり》のようだ
 だけど、あんたの心は海のようだ
 謎めいていて暗い

 田島は、ボブ・ディランの歌を止めた。立ち上がると、壁に掛けてあるダウンジャケットのポケットを探った。皺《しわ》くちゃの札を掴み出すと勘定をした。
 一万二千円じゃあ麗華の店には行けねえな―田島はドアを開けて外に出た。
 雪はやみそうにない。膚を刺すような冷気が襲ってきた。両手をポケットに突っ込み、肩をすぼめて歌舞伎町に向かって歩き始めた。職安通りに出た。至るところにハングル文字のサインが煌《きらめ》いている。言い争うような声が飛び込んできた。韓国語だ。
 もう少し穏やかに喋れねえのかよ、まったく―田島は韓国人や中国人が好きになれない。連中の大声でまくし立てるような喋り方は、田島の癇に触る。傍若無人な振る舞いも気に食わなかった。
 ここは日本なんだぜ―田島は口の中で罵りながら、職安通りを渡って歌舞伎町に出た。歌舞伎町は人間の洪水だった。其処彼処《そこかしこ》でサラリーマンと思しき連中が徒党を組みオダを上げている。
 そうか、十二月の金曜日だもんな―田島には曜日の感覚と季節感が欠落していた。
 田島は十二月が嫌いだった。飼い馴らされた羊の群れが盛り上がっているのを見ると、野良犬にも嫉妬心が湧いてくる。田島は歌舞伎町交番を避けて遠回りをした。未だに警察官の姿を見ると気分が鬱陶《うっとう》しくなる。
 だらしなく間延びした顔のサラリーマンたちを躱《かわ》しながら、田島は、さくら通りに出た。聖獣学園という、どぎつい電飾看板が煌《きらめ》いている。
「いらっしゃいませ」
 店長は言葉遣いは丁寧だが、愛想がない。リュウという名前で、田島の馴染みだった。
「よおっ!」
 田島は声を掛けた。
「田島さんじゃありませんか」
 リョウはあわてて作り笑いを顔に浮かべた。
「景気はどうだい」
「ボーナス月ですからね。それに田島さんの紹介記事のおかげもありますし」
「そうかい。そりゃあ良かった」
「田島さん、今日はどの娘《こ》になさいますか?料金は半額にさせていただきますよ」 
 リョウが媚びるようにして言った。
「毎度すまねえな。じゃあルミ子を頼むよ」
 田島は待合室に案内された。待合室はサラリーマンと若者で満杯だった。男たちは、お互いに相手の存在を無視していた。そこは、家庭や会社や社会から切り離された匿名の第四空間だった。
 サラリーマンたちは一様に冴えない表情をしていた。眼つきだけが卑猥に輝いている。若い男たちは臆病そうに見えた。こういう店以外では、女に声を掛けることができないタイプのようだ。
 この店は、家庭や会社で痛めつけられたサラリーマンや、女に疎外された若い男たちの憩いの場所だからな―田島は、堅実な人生を歩んでいるはずの男たちの眼の奥に、自分と同じような闇を見た。

                         *

「お客さん、ホンバンサービスしてあげようか?もちろん追加料金なんていらないから」
 ルミ子がシャワー室で田島の男根を洗いながら言った。しゃがみ込んだ姿勢で田島を見上げている。いつもながらの屈託のない笑顔だった。
「この店はホンバンは禁止だろう?」
 ルミ子の思いもかけない言葉に、田島は訝《いぶか》りながら訊き返した。
「もちろんお店には内緒よ。その代わり力を貸してほしいんだ」
「どんな力だい?」
 田島は、ルミ子の発育のよい肉体《からだ》を見下ろしながら言った。手を伸ばすと、乳房《ちち》は固くて張りがあった。
「あとで話すから」
 ルミ子は、それっきり沈黙した。ルミ子は間が抜けているけれども、男好きのする愛らしい顔立ちをしていた。田島は、ルミ子の真剣な顔つきを見るのは初めてだった。
 田島はルミ子のあとについて個室に戻った。個室といっても、三畳ほどの殺風景な空間である。この空間と通路を隔てているのは、薄手のカーテン一枚だけだ。少しだけでも大きな声を出せば、周囲に筒抜けになる。田島は、男の体臭と精液の臭いが染みついた粗末なベッドの上で仰向けになった。
 ルミ子は田島の男根に薄いゴムを装着すると、顔面に向かって双球のような臀《しり》を突き出した。田島の眼前にルミ子の秘唇の詳細が明らかにされた。色素の沈着していない小陰唇は、既に半開きになっている。
 足下の壁に鏡が埋め込まれている。鏡の中に、懸命に口の奉仕を続けるルミ子の顔が見えた。見慣れているはずのルミ子の秘唇に、今日はいつもとは違う興奮を覚えた。
 田島は、包皮をめくって女芯を剥き出しにすると、舌の愛撫をお返しした。左手で白くてボリュームのある乳房《ちち》をまさぐり、乳首を指で転がした。乳首が固くしこってきた。田島の男根は、ルミ子の口の中で破裂しそうなくらいに膨張していた。
 ルミ子が、躰《からだ》の向きを変えると、屹立《きつりつ》した男根に手を添えて臀《しり》を下降させた。ルミ子が腰を何度かグラインドさせると、田島は我慢しきれずに放出した。

「お客さん、満足した?」
 ルミ子が小声で囁《ささや》いた。
「ああ、気持ちよかったよ。ところで、どんな力を貸して欲しいんだい?」
 田島も声を落として訊き返した。
「お客さんてエッチな記事を書く記者さんなんでしょう?」
「まあ、記者といえないこともない。でも、あんまり自慢できるようなもんじゃねえな」
「裏ビデオなんかもコネがあるの?」
「フーゾクとアダルトビデオが俺の守備範囲だからな。色んなコネがあるよ」
「だったら紹介したい人がいるの」
 ルミ子は哀願するような眼差しで田島を見た。
「AV女優になりたい娘《こ》がいるのか?」
「そんなんじゃなくて、私のカレシにあってほしいの。面白いビデオ持っているんだ」
「どんなビデオなんだい?」
「ここじゃ言えないけど、とにかく観てもらえば分かると思うんだ。明日は公休だから一日中アパートにいるから」
 ルミ子は、携帯電話の番号とアパートの住所を書いた紙を田島に渡した。
 田島は店を出た。雪はやんでいたが、冷気のせいで膚が痛いほど張り詰めてきた。吐息が白く闇に舞った。田島は腕時計を見た。安物のデジタルは十時三十分を表示していた。
 歌舞伎町の人波は相変わらずだった。職安通りを渡ると急に人通りがまばらになり、あたりが薄暗くなった。大久保通りの手前に差しかかると、髪を栗色に染めた女たちがしきりに誘いをかけてきた。南米系の女たちだ。
「ノーサンキュー」
 田島は薄暗い路地を足早に通り抜けた。
 左門の店で一杯やって帰るか……―田島は灯《あ》かりの点いていない部屋に、このまま帰る気にはなれなかった。

                         *

 京王線の各駅停車は、昼間の下りのせいもあって空《す》いていた。ホームの反対側に停車している急行は、この時間帯でも、かなりの数の人間が座りきれずに立っている。たかだか十分か二十分の距離でも、先を急ぐのが東京に住む人間の習性になっている。
 土曜日のせいもあって家族連れが眼についた。向かいの席に、若い母親に連れられた幼い女の子が座っていた。女の子は田島と眼を合わせると、急に怯えた表情になった。
 そんな眼で見るなよ―田島は優しく微笑み返した。
 子供は正直だ。女の子はすぐに人懐《ひとなつ》っこい顔に変わった。興味深そうに田島を見つめ返している。周りから愛されている顔だった。
 可愛いもんだ―田島は抱き上げてやりたくなった。
 母親と眼が合った。一瞬だった。母親の横顔が見えた。母親は眼で子供に語りかけている。優しい眼差しだった。
 やっぱり縁がねえな―田島は呟《つぶや》いた。
 眼をつむった。何も考えなかった。やがて電車は地上に出た。久々の郊外は田島にとっては新鮮だった。家屋は密集しているが、歌舞伎町界隈とは家並みが違う。
 電車は、二十分ほどで八幡山に着いた。
 
 ルミ子のアパートは、八幡山の駅から歩いて五分くらいの所にあった。壁に白いサイディングを施した小綺麗な二階建が細い道路に面している。単身者用のアパートのようだ。アパートの手前に停めてある白いBMWが眼に留まった。
 田島は二階まで階段を昇ると、二〇二号室のチャイムを鳴らした。ルミ子は田島を確認すると、チェーンロックをはずしてドアを開けた。
「ほんとうに来てくれたんだ、ありがとう」
 ルミ子は大げさに喜びを表現した。
 ダイニングに入ると異臭がした。食べ物の饐《す》えた臭いだった。テーブルやキッチンに、店屋物の丼やカップ麺の容器が放置されている。ダイニングの奥の部屋に、シャツや下着が乱雑に脱ぎ捨てられているのが眼に入った。部屋の半分ほどを大きなベッドが占めている。
 ルミ子は、爪先で散らかった下着類をベッドの下に押しやった。手慣れた動作だった。振り向くと、いつもの屈託のない笑顔で田島を招き入れた。若い男がベッドに凭《もた》れながらテレビを観ていた。画面が横長の、大きくて薄いテレビだった。
「田島です」
 田島は先に名乗って目尻に笑みを浮かべた。警戒心が強そうな男には、そうした方が打ち解けるのが早いからだ。
「次郎です」
 男は名前だけを名乗った。
 痩身で筋肉質の格好《かっこ》のよい男だった。眼の奥に狡《ずる》さを秘めている。女に寄生して生きているタイプの男に見えた。ルミ子は、この男に身も心も銭《おかね》も捧げているのだろう。
「用件から訊こうか?」
 田島にしては珍しく前置き抜きで切り出した・
「観てもらいたいビデオがあるんです」
 次郎はDVDプレーヤーにディスクを挿入すると、画面のモードをビデオに切り替えた。リモコンの「再生」を押すと、画面に白いトレーナーに黒いロングパンツを穿《は》いた若い女が現れた。カラオケに合わせて、振りをつけてポップスを歌っている。
 歌は、三年ほど前に大ヒットした『ひまわり娘』という曲だった。愛くるしい顔が半ば長い髪に被《おお》われている。化粧気はほとんどなかった。顔も声もどこかで記憶がある。場所はラブホテルのようだった。
 画面が急に変わった。女がシャワーを浴びている。カメラの視線が、形よく突き出した乳房《ちち》から股間に生い繁る陰毛まで舐《な》めるように這っていく。陰毛の先端から、シャワーの湯が滴り落ちているシーンがアップになった。
 カメラが、はち切れそうな臀《しり》を捉えたあと、画面が再び切り替わった。今度はベッドの上だ。いきなり秘唇がアップになった。黒々と密生した陰毛が左右に割られ、膨張した女芯と濡れそぼった膣口が画面を占領している。
 続いて挿入シーンと結合場面がアップになった。画面には、結合場面と切なげに喘《あえ》ぐ女の顔が交互に映し出された。
「まさかだよな」
 田島は生唾を飲み下しながら言った。
「その、まさか、なんです」
 次郎は得意げな顔をして答えた。
「本物の中島円香《なかじままどか》だ、というのか?」
「もちろんですよ。歌声を聴いたら分かるでしょう?透きとおった綺麗な声だからね」
「確かに本人の声だよな」
 本物だ―と、田島も思うようになった。アイドルの顔とむき出しの性器、男の願望が眼の前の画面にあますところなく披瀝《ひれき》されている。男根が膨張して固くなっていた。
「この女は六本木や西麻布のクラブに入り浸りなんです。そこで酔っ払って男漁《おとこあさ》りをしてるんです」
「そういえば、この一年ほどさっぱり名前を聞かなくなったな」
 田島は、中島円香の結合シーンに見入りながら言った。
「誰だか知んないけど、大物の爺様の愛人になっているみたいっすよ。この半年ほどは俺とも付き合ってんです」
「クラブで知り合ったのか?」
「俺、六本木で黒服やっていたんです。そこで、円香のお眼鏡にかなったってわけです。すっげえ淫乱だから爺様じゃ物足りないみたい。まあ、ご本人曰く『セックス依存症という病気』らしいっすけど」
 次郎にとっては、アイドルも一匹の牝《めす》にすぎないようだった。が、田島は、まだ眼の前の映像を事実として受け入れられないでいた。
「よくビデオに撮らせてくれたな」
 田島は半ば呆れ、半ば感心しながら訊いた。
「俺たち頭は悪いけど口はうまいんです。会えないときでも顔が拝めるようにビデオに撮らせてくれ、って頼んだら一発でしたよ。クスリでちょっとハイになっていたのかもしれないけど」
 次郎は、まるで自らの狡猾さを自慢するかのようだった。
「まあ、AV女優もアイドルも紙一重だからな。ありえない話じゃねえ。ところでクスリって覚醒剤《しゃぶ》やっているのか?」
「覚醒剤《しゃぶ》なんて危《やば》いからやらないっすよ。エクスタシーですよ。純度が高いのさえ使っていれば、依存性もないっすからね」
「ほう、そうかい。で、このビデオをどうしろと言うんだ?」
「三百万で買ってほしいんです」
 次郎の眼が懇願するような表情になった。
「高すぎるな。裏ビデオの元売りの相場はせいぜい百万だよ」
 田島がそっけなく応えると、次郎は険しい眼つきになり
「それはデュープしたテープでしょう?これは正真正銘のマスターテープなんです。この世に一本しかないんっすよ。こないだまでトップアイドルだった中島円香のホンバンビデオっすよ」
 と、口を尖《とが》らせた。
「確かにオマエの言うとおりかもな。三百万以上の価値がある代物かもしれねえ。でも、どうしてデュープして捌《さば》かないんだ?」
 田島がなだめるように訊いた。
「捌くルートを知らないし、それに時間もないし。ヤクザに追われているんっすよ。中島円香のホンバンビデオ持ってる、ってダチに喋《しゃべ》ったら、こないだ攫《さら》われそうになったんです」
 次郎は少し怯えた顔になり、眉間に神経質そうな皺を寄せた。
「ヤクザにか?」
「そうです。何故だか分かんないけど」
 田島は一瞬考え込んだ。
「お客さん、助けてよ」
 ルミ子が訴えるような眼つきで口を挟んだ。
「ルミちゃんに頼まれたんじゃあ仕方がねえな」
 田島は昨日《きのう》のルミ子の献身的なサービスを思い出した。危《やば》い分だけ銭《かね》も儲かりそうな気がした。
「月曜日まで待ってくれるか?」
 田島が言うと
「月曜日がリミットです。月曜日が……」
 次郎は思いつめた様子で応えた。

 田島はルミ子のアパートを出た。アイドルの結合シーンを目《ま》の当たりにした衝撃が残っていた。外の冷気に触れても男根は熱く滾《たぎ》ったままだった。田島はダウンジャケットのポケットに手を入れた。指に触れたのは小銭だけだった。
 ヘルスなんてとてもじゃねえな―田島は、その足でアダルトビデオのスタジオに向かうことにした。結合シーンを生で見たくなった。歩きながら高田馬場にあるスタジオに電話を入れた。田島が新作の紹介を手がけている制作会社のスタジオだった。
 若い男が出た。スタジオでは、スカウトした女を口説いている最中らしい。グッドタイミングだった。ほぼ間違いなく生のシーンを拝める。ただ、生のホンバンを見た後は、薄汚い部屋に帰って自分の指で欲望を解き放つしかない。惨めな作業だった。


4・光芒

 左門肇は百人町で、號という名前のラーメン店を営んでいる。建物は二階建で、正面は薄汚れたタイル貼りであるが中身は木造である。
 店の二階が住処《すみか》だった。十坪ほどのスペースを二つに仕切り、奥の部屋に畳を敷いて寝床にしていた。片隅に小さなシャワー室が設けられている。手前の部屋には、貧相な家具とは不釣合いのマシンが置かれている。
 マシンは本来、肉体を鍛えるためのものである。が、左門にとっては体力を維持するためのものだった。左門は、ここ数年、肉体の衰えを感じ始めていた。
 人は常に不完全である。だからこそ「型」にこだわる。躰が「型」にはまることによって心も整えることができる。「型」がなければ、人間は彷徨《さまよ》ってしまう。左門の日常も「型」にはまっていた。
 左門は過去を振り返ることがない。将来《みらい》を考えることもない。己の「型」に忠実にその日を生きる、これが現在《いま》の左門だった。
 ラーメン店は、午前十一時半に開店して夜中の一時まで営業する。途中、午後二時に暖簾《のれん》をしまい、五時まで休息する。日曜日が休業日である。
 左門の店は、美味《うま》い、という評判だった。昼食時には行列ができた。

 左門はマシンで汗を流していた。が、部屋はいつもどおりの寒さだった。ブルースが流れている。電話が鳴った。休日に電話が鳴ることは滅多にない。
 田島だ―左門は、少しためらったあとで受話器を取った。案の定、田島だった。一週間に一度だけの休日である。午後からは、剣道の修練に精を出すつもりだった。
 誰にも邪魔をされたくない、というのが本音だった。しかし田島は、どうしても会いたい、といって譲らなかった。
 午後になって田島が訪ねて来た。いつもは活気があふれる店内も、休業日になると途端にくたびれた雰囲気の寂しい空間になる。
 田島の顔は、いつもより、さらにくすんで見えた。まばらに生えた無精髭がくすみを増長している。左門より十歳は年上に見えた。左門は調理場に入り、田島はカウンターの丸椅子に座った。時計は午後二時を回ったところだった。左門はコップ酒を田島の前に置いた。

「ブルースでも聴くか?」
「いや、静かな方がいい」
「休みなんで何も準備していないんだ」
「気にしないでくれ。昼飯は食ったよ」
 田島は眼を伏せていた。相談事があるときの常だった。
 一息置くと田島が切り出した。
「女をどう思う?」
「女?……」
 予想外の質問に、左門は返答に窮した。
「オマエはプロだろう?女の……」
 左門は少し間を置いて、逆に訊き返した。
 田島の真意を測りかねた。しかし、回りくどいのが田島だ。左門は思い直して言葉を続けた。
「そんなことを俺に訊きにきたのか?」
「……自信がねえんだ、女に」
 コップ酒を舐《な》めると、田島はショートホープに火をつけた。
「二十年以上も人間の下半身を取材し続けてきたけど、女という生き物がつくずく解らなくなった……」
 田島は煙を吐き出しながら言った。
「女だって田島がどういう生き物か解らないだろう?」
 左門は軽くいなした。今さら女に関する問答をする気になれなかった。
 それでも田島は続けた。
「所詮《しょせん》、女と男は別の生き物なんだよな。でも、昔はまだフーゾクとかアダルトビデオの女が理解できたんだ。女にも、それなりの理由っていうか理解できる状況があった」
「今はないのか?」
「最近の女はまるで別世界の生き物みてえだ」
 田島は、嘆いているというより最近の女に憤っているようだった。
「銭《かね》しかねえだろ?いつの時代も」
 左門の言葉はぶっきらぼうだった。
「それだけじゃ理解できないんだ」
 そう言い返すと、田島はほんの少しだけ沈黙した。言いたことを言葉に出せずに苛《いら》ついているようだった。それでも、また話を女に戻した。
「昨日も撮影現場を覗《のぞ》いたんだが、もう即《そく》ズボなんだ」
 田島はコップ酒を呷《あお》った。二本目のショートホープに火をつけて煙を深く吸い込んだ。胸の奥に今日の本題が詰まったままだった。
「即って?……」
 業界用語が分からない左門が訊いた。
「釣りあげられて一時間も経たねえのに、もうカメラの前でホンバンを始めるんだよ」
「スカウトされて一時間も経たないのにか?」
 その手の話にあまり関心がない左門も、さすがに少し昂《たか》ぶりを覚えた。
「その娘《こ》は一年前まで親父の仕事の関係でアメリカにいたらしい。いわゆる帰国子女ってヤツだ。これが、また可愛いんだよ」
 田島の眼の色が明らかに変わっていた。
「たまたまだろう?」
 自らの惑いを振り払うように左門が言った。
「それが、そうじゃねえんだ。帰国子女だけじゃねえ。普通の女子大生とか普通のOLとか。そんな女ばっかりだよ。『普通』って一体なんだい?」
 田島の目《ま》の当《あ》たりに、自分好みの、しかも帰国子女の結合シーンが再現されていた。気持の昂《たか》ぶりに嫉妬と憤りが入り混じって田島の息が荒くなっていた。
「裕福な家庭に育った娘《こ》が、たかだか五十万円で人様に見せられない姿をカメラの前に晒《さら》す、おかげで死ぬまで結婚できそうにねえよ」
 いまいましそうに顔をしかめると、田島はコップ酒を干した。
「時代が変わったのさ。世の中が変われば女も変わる。弁証法《べんしょうほう》は正しかったのさ」
 そう言って左門は田島の言葉を遮《さえぎ》り、話の向きを変えた。
「ところで、まだ結婚する気があるのか?」
「冗談だよ、冗談」
 田島は笑いながら打ち消した。眼の奥に照れがあった。左門は、田島が女にこだわる理由が解らなかった。何を今さら、という感じがした。
「一度くらい現場に連れて行けよ」
 軽い気持で左門は言った。
「やめといた方がいい、見ているときは興奮するけど、あとで何とも耐え難い気持に陥ることがある。女に対する価値観が一気に崩壊して収拾がつかなくなるんだ。フーゾク二十年の俺でも、未だにそうなることがある」
 左門の冗談に、田島は真剣な眼つきをして応えた。
 フーゾクの代名詞のようなこの男も、まだ女に何かを求めている。おぞましい世界に生きていても、どこかに相容《あいい》れない自分がある―左門は笑う気になれなかった。田島は、自らの「型」と本質的な己との間で揺れている。身につまされる思いがした。

 田島は三本目のショートホープを口にくわえた。火をつけると、前歯の欠けた歯茎からヤニ臭い煙を吹き出した。黄色い煙が中途半端に宙を舞った。
「ちょっと相談したいことがあるんだ」
 酒のおかげで気持がほぐれたのだろうか、田島はやっと本題を切り出してきた。
「なんだ?早く言えよ。回りくどいのがオマエの欠点だ」
 左門が催促すると、田島はまた眼を伏せた。右手で左手の親指をいじっている。
「……銭《かね》を貸してくれよ」
 二杯目のコップ酒を一口だけ呑み下すと田島は唐突に言った。
「銭《かね》を貸せ?そんなことだろうと思っていたよ。ギャンブルはいい加減にしたらどうだ。このままだと歌舞伎町にもいられなくなるぞ」
「そんなんじゃねえんだ」
 田島は深刻な顔をして左門を見上げた。
「いくらいるんだ?」
「三百万だ」
 少しためらったあとで、田島は恐る恐る金額を口にした。じっと見つめ返すと眼が哀願していた。
「絶対に返す。トイチでいいんだ。儲かる当てがあるんだ」
 田島が銭《かね》を借りに来るのは珍しいことではなかった。が、今日は額が違った。
 銭《かね》に無頓着な男が一体どうしたんだ?―左門は田島の顔を凝視した。
「何に使うんだ?誤解するなよ。オマエを信用していないわけじゃない。ただ、三百万は大金だ。使い途《みち》くらい教えてくれたっていいだろう?」
 田島は、しばし黙り込んだ。そして
「……三丁目の金瓶梅という店に好きな女がいるんだ。麗華という娘《こ》だ。この娘《こ》を助け出したいんだよ」
 と、意を決するようにして言った。
「風呂屋の女か?さっき女が理解できなくなったと言ったばかりじゃないか。おかげで結婚できそうにないと喚《わめ》いていたのはどこの誰だ?」
 左門はからかうようにして皮肉を返した。田島がどこまで本気なのか理解しかねた。
「その女は違うんだ。しごく当たり前の娘《こ》なんだよ。俺が見てきたような頭のネジがはずれた女とは違う。もともと風呂屋で働くような女じゃねえ」
 田島は、言いたいことをうまく言葉にできず、もどかしそうだった。
「女は信じられないと言いながら、自分の惚《ほ》れた女だけは特別だと思う。そんな甘い考えはとっくに捨てたんじゃないのか?」
「俺はずっと陽の当たらない場所で生きてきた。これから先も同じさ。生きる支えもねえ。オマエのように意思堅固でもねえ。要は意気地なしのクズだ。でも、麗華にだけは心が燃えるんだ」
 辛辣《しんらつ》な左門の言葉に田島は、むきになって言い返した。
 女が信じられなくなった、と言ったのは、田島流のパラドックスだったのか?はにかみ屋の田島らしい、と言えばそれまでか―左門はまだ理解できないでいた。
「三百万で、その女を助けられるのか?」
「それは無理だ。麗華は月に二百万以上稼ぐ。しかも氷川会の堂本という男のスケだ。堂本が手放すわけがない。だから三百万を元手に銭《かね》を儲けて麗華を連れて逃げる」
「ヤクザのネットワークから逃れられると思っているのか?」
「それは大丈夫さ。俺だってトーシローじゃない。水商売や裏社会に近づかなければ、連中だってそう簡単に探す術《すべ》はねえ」
 田島は命を懸けている。いつもは頼りなげな眼が強い光芒《こうぼう》を放っている。左門にはそれが分かった。ずっと逃げ続けていた男が、今、闘おうとしている。
「分かった。なんとかしよう。ただし三百万は大金だ。無駄にしないでくれ」
「ありがとう。恩に着るよ。麗華は借金と覚醒剤《しゃぶ》でがんじがらめにされている。このままだとボロボロにされる。下手をしたら香港か東南アジアの魔窟に身売りされちまう。そうなったら俺は死んでも死にきれねえよ」
 左門の脳裏を嫌な予感がよぎった。闘いには、それにふさわしい強靭な肉体と精神力がいる。そのいずれもが田島には欠けていた。
 田島は己の「型」を壊した。が、それも自らが選んだ道だ―左門は余計な口出しをすることをやめた。


5.恐喝

 大久保通りにある公衆電話ボックスにくすんだ顔の男がいた。受話器を手にしている男は眼だけが輝いている。輝きは、男の抱く期待と強い意志を感じさせた。男はメモを見ながら電話番号をプッシュしている。
「森プロダクションでございます」
 若い女のやわらかい声がした。
「権田といいます。森社長をお願いします」
「お待ちくださいませ」
 電話が保留になった。受話器の向こうには森プロに所属する歌手のヒット曲が流れている。
 「権田」と名乗った男は田島だった。田島は中島円香《なかじままどか》のビデオを手に入れていた。
 円香は森プロダクションに所属している。森プロは、この数年でめざましい躍進を遂げていた。昨年は、芸能プロでは珍しい株式の上場を果たしていた。
 田島は、夕刊紙や出版社系週刊誌と深い付き合いがある。芸能界の情報は比較的に手に入りやすい立場にあった。森プロの事務所は表参道にある。経営者は、森正平という業界でも有名なやり手だった。
「お待たせいたしました」
 電話の声は別の女に変わっていた。
「森は、ただいま来客中で電話に出ることができません。お差し支えなければご用件を承りますが」
 女の物言いは事務的だった。
「森さんに中島円香の件で重要な話がある、と伝えてくれ。それでも電話に出ないのなら仕方がない」
 田島の声には恫喝しているような響きがあった。
「お待ちくださいませ」
 女は少し訝《いぶか》しげな声になった。電話は再び保留された。
「モシモシ」
 低くて張りのある声がした。
「森さんか?」
「そうです」
「ビデオは観てもらえたかい?」
 凄みのある声色《こわいろ》で田島は言った。
 田島は、ビデオのクライマックスの部分だけをデュープして森に送りつけていた。
「どこであのビデオを手に入れたのですか?」
 森が尋ねた。丁寧で冷静な声だった。
「余計な質問はやめろ。マスターテープと引き換えに二千万円を用立ててもらいたい」
 田島は単刀直入に言った。
 田島は五十年以上の人生の中で、恐喝など一度もしたことがない。人を騙したり裏切ったりするのも性にあわない。が、今回だけは違った。
「そんな大金、すぐには無理ですよ」
 森は、田島の焦りを見透かしたようにゆっくりと応えた。
「天下の森プロが何を言っているんだ!二千万くらいのはしたガネは手許においているだろうが!」
 田島の声が凄みを増した。
「……」
 森は無言になった。コイツはプロだ―そう確信した。
「午後三時に渋谷のハチ公前に二千万円を持ってくるんだ。布製の手提げ袋に入れてな。左手には『週刊芸能』を持て。それを目印にする。『週芸』は今日が発売日だ。どこででも手に入る」
「マスターテープを渡していただけるんですね」
 田島の勢いに圧倒された森は、その要求に屈するように応えた。
「約束する」
「ハチ公前ではマスターテープかどうか確認できないじゃありませんか?」
 森の声は平静を装っていた。 
「こちらだって二千万円が本物かどうか確認できない。お互い様だ」
「そうですか、分かりました」
 そう応えると、森は電話を切った。

 田島は山手線の内回りに乗った。新宿と渋谷の間は昼間でも混んでいる。安物のデジタルを見た。午後二時を表示していた。
 電話をかけてから銭《かね》の受け渡しをするまでの間隔は、できるだけ短くする必要があった。森に余計な準備をする時間を与えないためである。二千万円という要求金額も、即座に用意できる現金の範囲を予測して決めた。
 ハチ公前は相変わらず人の洪水だった。渋谷は狭い。しかもハチ公前は待ち合わせのメッカなので人が滞る。混雑は足の踏み場もないほどだった。
 田島はセンター街を歩いて時間を潰した。得体の知れない若者が、のべつ幕なしに行き縋りの人に声をかけている。
「あなたは人生に不安を感じていませんか?」
 若者は相手構わずだった。
 聖霊教会の勧誘か?―田島は、何かに取り憑かれたような眼つきの若者を一瞥した。
 渋谷は、田島にとって違和感を禁じえない街だった。異星人たちに占拠された空間に思えた。
 森プロの事務所からハチ公前までは、二十分もあれば十分である。行き交う人混みの中に『週刊芸能』と重そうな手提げ袋を持った若い男が立っていた。三時五分前だった。
 田島はアポロキャップを目深にかぶり、白いマスクで顔を覆っていた。異様な風体《ふうてい》だったが、渋谷の雑踏の中ではあまり目立たなかった。田島はハチ公の前を通り過ぎた。センター街の入り口まで歩くと踵《きびす》を返した。
 再びハチ公前に来た。渋谷の街とは馴染まない雰囲気の男たちが、人混みに紛れて四方に配置されている。男たちは、獲物を捜《さが》し求めるような鋭い目つきをしていた。
 田島は取引を中止した。危険すぎた。東急プラザの前まで歩くと森プロに電話を入れ、森を呼び出した。
「森さんか?ずいぶんたくさんの友達を引き連れて来たな。これじゃあ取引はできない。その気になりゃあこのビデオで一億の商売ができるんだ。俺の善意が分からないのか?」
「権田さん、そりゃ誤解ですよ。誰も友達なんて連れていっていません……」
 森は明らかに狼狽《ろうばい》していた。己の打った手が失敗するなんて思いもしなかったからだ。
「もういい。直《じか》の取引はやめだ。今から俺の言う口座に二千万円を振り込むんだ。そうすればマスターテープを送ってやる」
「間違いなく送ってくれる保証はあるんですか?」
「森さん、俺もバカじゃない。危《やば》い橋はできるだけ渡りたくないんだよ。あんたを騙して、ハチ公の周りにいるような怖い連中に追い込まれるのはゴメンだ。銭《かね》が入ればこんなビデオは一刻も早く手放したいんだ」
 森は躊躇《ちゅうちょ》していた。しかし相手はプロだ。円香のビデオの流出を防ぐためには、権田と名乗る男の要求を呑むしかない。
 マスターテープが送られてくる保証はない。デュープにいたっては確かめようもない。が、今日のところは銭《かね》を払うしかない。善後策は、そのあとで考えるしかなかった。
 森は決断した。
「分かりました。二千万を指定の口座に振り込みます。その代わり間違いなくマスターテープを送ってくださいよ。それからデュープは絶対にしないでください。約束してくれますか?」
「約束する。ビデオのことも中島円香のことも忘れる」
 田島は、約束の金額が振り込まれればマスターテープを送るつもりだった。面倒を引きずりたくなかった。ただ、一本だけはデュープすることにした。田島は銀行口座を告げた。

                        *

 田島は昼過ぎに眼を覚ました。部屋の中は相変わらず寒い。石油ヒーターに火を点けると、お湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れた。
 顔も洗わずに朝刊を読むのが日課だった。社会の底辺に沈んでいても、新聞を読む習性だけは変わらない。新聞を読まないと、世の中から隔絶されたような気分になるのが嫌だった。
 ショートホープを咥えながら社会面に眼を通したとき、田島は一つの記事に釘付けになった。左隅に掲載されていた記事は、若い男女の死体が車のトランクから発見されたことを告げていた。
 車は、静岡港のはずれの海中に沈められていた。昨夜遅くに、白い車がダイブするのを目撃した者がいたらしい。二人は両手両足を縛り上げられ拳銃で射殺されていた。
 新聞には身元を調査中と書いていたが、年のころや身体的特徴が次郎とルミ子に重なり合った。しかも、ルミ子から、実家は静岡県と聞いたことがある。車は白いドイツ製、と書いてあった。アパートの手前の駐車場に停まっていた白いBMWを思い出した。田島が次郎に、ビデオと引き換えに三百万円を渡してから十日が経っていた。
 いちばん足のつきやすいところに逃げやがって―田島は口の中で二人を罵っていた。

 田島は二千万円を手に入れていた。計画は思った以上にうまくいった。あとは麗華を連れて逃げるだけだった。
 二千万円を振り込ませた口座は、顔見知りのチンピラから買ったので追及される心配はなかった。しかし、次郎とルミ子が口を割っていれば、たちまち追っ手は田島に迫ってくる。
 田島は焦ってきた。とりあえず左門を訪ねることにした。
 左門の店は休息時間だった。
「これ返すよ。ほんとうに感謝している」
 田島は三百万に三十万円を上乗せして左門に渡した。眼の奥に既に光芒はなく、怯えが潜んでいる。
「オマエは一体、何をやっているんだ?」
 左門は詰問調で尋ねた。田島のことが脳裏から離れなかった。が、回答はなかった。
「とにかく俺は、今日の夜中に麗華を連れて東京を脱出する」
 田島は、必死で闇の中に光を見出そうとしているように見えた。左門は問いつめるのをやめた。
「何か手伝えることはないのか?」
「オマエには学生のころから助けてもらってばかりだからな。今度だけは自分の力で決着をつけたいんだ。それからコイツを預かってくれ」
 田島はポケットから新宿駅のコインロッカーのキーを取り出した。
「落ち着いたら必ず連絡するから、それまで預かっといてくれ。場所は京王線の改札口の近くだ。別に危《やば》い物じゃねえ」
 店の中には黒人の音楽が流れていた。
「ブルースか?休み以外の日に音楽を流すなんて珍しいな」
「この時間帯はいつも流している。そうしないと暇で間が持たないんだ」
「誰が歌っているんだ?」
「マディ・ウォーターズだ。ピアノはオーティス・スパン、ハープはリトル・ウォーターかな。お気に入りの一枚なんだ、これが」
「俺は今でもボブ・ディランだ。ニグロは灰汁《あく》が強すぎる」
「先入観を取っ払うとそうでもないぜ。昔みたいに黒人・差別・悲惨-なんてステレオタイプに聴くから鬱陶《うっとう》しくなるのさ。猥褻《わいせつ》で喜怒哀楽がストレートで、俺の嫌いな歌舞伎町にぴったりだ。8ビートっていうのは人間の下半身を直撃するリズムなんだな。ブルースを聴いていると息子がビンビンだ」
「昔のローリング・ストーンズに雰囲気が似てるな」
「マディ・ウォーターズはミック・ジャガーの師匠だからな。しばらく聴いていったらどうだ?今のオマエには余裕が必要だよ」
 田島は、左門に言われるまで自分の焦りを自覚していなかった。ブルースをしばらく聴いていると、心身がほぐれてくるのが分かった。
 音楽っていうのは不思議なもんだ―初めてブルースを聴いたような気分になった。
「田島、ブルースってのはけっして暗い歌じゃない。なぜか解るか?貧乏で惨めで明日に希望のない男に暗い歌は似合わないんだよ。粗野で猥褻で、切なくて哀しくて、でも暗くない。めげちゃいけないんだよ。オマエもブルースを歌ったらどうだ」
 オマエの気持はありがたいけど、俺はもう別の世界に向かっているんだ―田島は左門に感謝しながら號を後にした。
 左門の店を出てメタリックグレーのミニバンをレンタルすると、田島はいったんアパートに帰った。身の周りの物をまとめてミニバンの後尾に放り込んだ。あとは、麗華が仕事を終えるのを待つだけだった。時間はまだたっぷりとあった。
 田島は逃走経路を頭の中で反芻した。零時半に左門の店の前で麗華を拾う。新宿ランプから首都高に乗って、とりあえず名古屋まで逃げる。そこから先は、その時点で決めるつもりだった。
 田島はアパートを出て麗華の店に顔を出した。躰を洗ってもらい、お互いの肉体を貪りあった。
 麗華の肉体《からだ》を銭《かね》で買うのは今日までだ。明日からは二人でひっそり暮らそう―田島は麗華の決意を再確認した。
 金瓶梅を出た。再びアパートに帰ると仮眠を取った。眼を覚ますと顔を洗い、インスタントコーヒーを飲んでショートホープを吸った。時計はもうすぐ零時を回るところだった。
 もう、このアパートも新宿も永遠にオサラバだ―田島は部屋を出た。
 田島は暗がりに眼を凝《こ》らした。遠くに黒い塊が薄っすらと見えただけで、物の動く気配は感じられなかった。
 大丈夫そうだな―田島は、あわせた両手に息をかけると、ドアを開けてミニバンに乗り込もうとした。
 暗がりの中に突然エンジン音が響いた。田島は本能的に身構えた。遠くにあった黒い塊が猛然と近づいてくる。塊は一台の黒いワゴンだった。
 タイヤの軋む音がした。黒いワゴンは、ミニバンが動けないように直前に急停車した。黒っぽい服装の男たちがワゴンから飛び出してくるのが視界に入った。
 田島の躰が竦《すく》んだ。逃げようと必死になるのだが、足が動かない。大声をあげた。力の限りの声を出して助けを求めた。それが田島にできる最大の抵抗だった。アパートや周辺の住民が飛び出してきた。パン、パン、パン、乾いた音が立て続けに弾けた。
 田島は胸と腹部に焼けつくような痛みを感じた。心臓が口から飛び出しそうなくらい鼓動が激しくなった。意識が混濁してきた。眼の前で麗華が微笑んでいる。
 麗華の顔が左門に変わった。助けを求めようとしたが声が出ない。膝の力がぬけた。膝をアスファルトの路面に着いたところで意識が途切れた。
 再びタイヤの軋む音とゴムのこげる臭いがした。


つづく

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