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2012/03/20

今日は気まぐれに親父との思い出を語ります。

私の父親が旧陸軍の将校だったこと。
敗戦後、シベリアに2年余り抑留されたことは何度か書きました。
その父親、戦争のことは多くは語りませんでしたが、たまに印象に残る言葉を残しています。

一つは日本が戦争に負けた理由。
「科学力と生産力が違いすぎた。圧倒的物量を前にした時、精神論だけでは勝てない」
父親は戦後、「これからは自動車の時代だ」と強く思ったそうです。

もう一つ父親が敗戦の理由に挙げたのが旧陸軍の視野の狭さ。
「海軍は外国に行くことも多く、米国を知っていたが、陸軍指導部は米国と日本の国力の差を知らなすぎた」
つまり「井の中の蛙」状態だった陸軍の認識不足が日本を対米開戦に導き、惨めな敗北をもたらしたと父親は言うわけです。

父親は二・二六事件を引き起こした陸軍皇道派に対しても厳しかったですね。
「連中は統制派の悪口を言うばかりで、自分たちならこうするという具体論がまったくなかった」
父親が将校になった時、既に皇道派そのものは失墜していましたが、それでも陸軍内部にはまだ展望なき強硬論が蔓延していたそうです。
ただ、本人もその一翼を担いでいたわけで、反省している風でしたが。

それから、戦後の米ソ対立については、「ソ連が米国に勝てるわけがない」と断言していました。
ソ連軍の捕虜になった時、真っ先に奪われたのは腕時計だったそうです。
日本軍の将校は腕時計は当たり前。
ところがソ連兵は将校でさえそれを持っていない。
しかも食糧も満足ではない。
シベリア抑留で日本兵捕虜が多く命を落としましたが、「ソ連兵自身の食糧が欠乏状態だったのだから仕方がない面もあった」と語っていました。
その時、ソ連軍内部のユダヤ人差別の酷さについても聞かされました。

国民党軍の残虐さに触れた言葉も忘れられません。
援軍の到着が遅れたため父親の部隊は一時退却したそうです。
で、援軍が合流して国民党軍を撃破した後に見たのは信じがたい光景でした。
負傷して退却の遅れた日本兵が山積み状態にされ、生きたまま油をかけられ、焼き殺されていたのです。
藪に潜んでその様子を見ていた兵士は、その後、精神がおかしくなったと言っていました。

それから八路軍(紅軍)の兵士が日本軍に投降してきたときは、びっくり仰天したそうです。
理由が、「国民党軍に捕まるよりは日本軍の方がまだまし」と言うのです。
つまり、国民党軍だと残虐な拷問を加えられたうえで虐殺されるが、日本軍はそこまで酷くはない。
父親は、国民党軍がいかに残虐であるかをその時、痛感したのでした。
で、「生きて虜囚の辱を受けず」を反芻するわけです。

こういう話は、私が左翼学生運動に身を投じたころ、年に何回か食事を共にした時に問わず語りに聞かされました。
そして、毎度のごとく言われた言葉が以下です。
「人間は体力が第一だ。今のお前は、シベリアに抑留されたら1か月も持たない」

父親は、
視野の狭い人間は道を誤る―
独りよがりで他人を批判してばかりいる人間には未来がない―
ソ連は戦争の勝者のように言われるが、その実態は日本よりずっと惨めだった―
社会主義は平等と言うがソ連内部のユダヤ人差別は酷いもんだ―
加害者=日本軍、被害者=国民党軍という構図は一面的すぎる―
どんな世でも体力がなければ生きていけない(健康が第一)―
というようなことを私に婉曲に伝えたかったのだと思います。

父親が亡くなって既に25年。
親不孝ばかりで、申し訳なかったという思いしか残っておりません。
その私がもう還暦。
父親に恥ずかしくないような晩年を築き上げたいと思います。

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個人」カテゴリの記事

コメント

父上様は立派な方だったのでしょうね。
私の場合は祖父になりますが、私の父が小学校に入るか入らないくらいの時に他界したそうです。

祖父は海軍の機関士をしていたそうですが、撃沈され命からがら帰還したと聞いています。
5年ほど寝たきりの状態の末に亡くなったのですが、当時の親族からは、いっその事死んで帰ってくればよかったなどと罵倒されていたと父親からは聞いています。
当時は恩給も無い状態で遺族年金が祖母に入りだしたのも30年程経った後でした。それでも3人の子供を育て孫の私を可愛がってくれました。
当時のことを知る手掛かりは少なくなっていますが、ブログ主のお父様の経験を訊けたこと、有難くおもいます。

投稿: kochacha | 2012/03/20 17:08

非常に感じ入るお話です。軍の中枢部にいた方の実体験は、なかなか発信されませんので。

1)日本が負けた原因に技術の差を挙げて居られますが、それは違うと思っております。日本の当時の兵器レベルが世界屈指であったのは疑いもない事実と信じており、零戦、戦艦大和のブロック工法や球形艦首、46サンチ砲、主砲鍛造技術、主砲砲台旋回機構などなど、未だに用いられる先端技術、15センチ高射砲、酸素魚雷など、さまざま有ります。

問題は、軍が技術を評価出来なかったこと、せっかく航空戦の優位性を世界最初に証明したはずなのに、巨艦主義から脱しなかったり、長年暗号を変えなかったりなどの戦略の稚拙さが技術を生かしきれなかったこと、乗員の生命を守る思想がなかったために熟練パイロットの損耗が激しかったこと、レーダー技術を理解していなかったことなどが日本の優秀な技術を活かせなかったと考えております。

2)生産力の違いは仰るとおりです。山本五十六は米国視察のあと、日本が勝てる相手ではないと開戦に反対したそうですが、最終的に押し切られると最初の一年で優位に持ち込むからその間に講和を図るべしと主張したとか。

ただ、陸軍が初戦の勝利に沸き立ち、戦争拡大に突き進んだ点は、ご指摘の通りと思います。兵站の確保が呆れるほど無視されていたなども、陸軍の思い上がりを示しているでしょう。また、よりによって、講和の仲裁を、不可侵条約を結んでいたソ連に頼んでいたなども、ソ連という国を理解していなかった日本の外交能力の欠如を示しているでしょう。

3)国民党軍の残虐性は方々で指摘されており、自国民を虐殺した黄河決壊事件など、いわゆる焦土作戦で住民を大量に殺害した例は無数にあります。その罪を日本に押しつけたのが南京虐殺事件と言われております。事実、国民党軍の略奪や虐殺から逃れ、日本軍に保護を求めた中国人が南京に集まったため、人口が増えたとされており、坂様の仰る1-3万人の虐殺があった可能性も、全くないと思います。

4)ソ連が終戦一週間前に参戦したのは、むろん、戦後のアメリカとの覇権を争うためとされていますが、もうひとつ日本が満州に建設した膨大なインフラ、特に重工業の製造施設などを手に入れるためとされています。事実、彼らはそれらのインフラを根こそぎ持ち去り、それが戦後のソ連重工業の発展の礎になったとされています。北朝鮮も同様ですが。いずれにせよ、お父上のご指摘の通り、ソ連がアメリカに勝てる要素は全くなかったのですが、生産力よりも、生産技術の圧倒的な不利が原因と思われます。

翻って、日本が敗戦の廃墟からいち早く世界第二位の経済工業国家になれたのは、ひとえに生産技術力が圧倒的だったからです。戦時中の日本の技術力は決してアメリカ以下ではなかったとの証左ではないでしょうか。

これはドイツにも当てはまりますが、ドイツは当時の先進国をまともに相手にしすぎ、更にアメリカとも戦わざるを得ず、同じく優れた技術を持ちながら勝てなかったのは当然と言えるでしょう。ドイツのめざましい復興もそれを示しています。

その意味で、中国がアメリカを凌駕することはあり得ず、しかも軍事予算と汚職で経済を疲弊させているのは、アメリカに軍事拡大競争に引きずり込まれ疲弊したソ連と酷似しています。アメリカは中国に同じ手法をとっているのではないかと思われますし、中国は十分承知しているもののどうしようもないのでしょう。

5)最後にお父上がおっしゃられたかどうかは存知ませんが、私はあの戦争は不可避であったと思っております。負けはしましたが、戦争をしなかった場合、日本は未だに西欧の隷属を強いられていた可能性が高いと思われるからです。大きな犠牲を払いましたが、戦争をしなければもっと悲惨な犠牲が待っていたと思う根拠が無数にあります。私のブログでも書いていますが。良い例が、朝鮮ではないでしょうか。自ら戦うことを拒否した結果です。

投稿: たかおじさん | 2012/03/20 17:09

ナベツネの下司野郎=左翼の特質、「傲慢」、を絵に描いたような最低の左翼・人間?、かつ大嘘付き

>彼が二等兵として軍隊に入ったとき、戦争は日本の敗北が必至の状況だった。
軍隊は神風特攻隊を送り始めていた。
渡辺氏は、「日本の右翼は現在、特攻隊員を天皇のための自発的な殉教者として称賛する。
しかし、特攻隊員が『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったというのは全てうそだ」と怒りを込めて言う。
そして、「彼らは屠殺場の羊だった。誰もがよろめいていた。何人かは立ち上がることさえできず、運ばれて、機関兵達により無理矢理に飛行機に押し込まれた」と…

ナベツネがチョーニチ若宮との対談の中で、「靖国神社に参拝するような議員は読売一千万の力で落選させる」、と抜かした台詞に激怒し、30年来取っていた、「報知」、を即やめ、サンケイスポーツに代えました。
こんな奴が他人をひヒトラー呼ばわりするのですから、私は口が開いたままになってしまいます。

3~4年前、リーグ戦後半、ジャイアンツに負けが混んで優勝に赤信号が点滅し始めたとき、チヤンネル・桜、掲示板への書き込み

町工場の親方ーーー《ジャイアンツが勝つ法》
「ナベツネを叩き出して、お祓いすること」

昔の話ーーーチャンネル・桜掲示板より。

>その1年前に岸信介総理が安保成立に、自民党副総裁・大野伴睦を協力させるために、エサで釣った。

>そのエサが、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約である。その立会い人が、右翼の巨頭・児玉誉士夫である。
当時、児玉は極道筋にも顔がきいた。三代目山口組・田岡一雄
錦政会・初代会長稲川裕芳らとは特に親密なる関係にあった。

>この大野伴睦に総理譲り渡す誓約とりかえし場には、財界からは、萩原吉太郎・北海道炭礦汽船社長、永田雅一・社長

>こんな恐ろしい連中が、立会い人・見届け人・連判状もあるに、大野伴睦は簡単に岸信介に約束を反故にされる。岸さん辞職の日に
右翼に尻をブスリとやられる・・この話は官に入り、岸さんを抱いた池田正之輔先生より聞いた。

>>表の世界と裏の世界を一緒くたにしてわゆけましぇん
はらわたをさらけ出してわ、政治の根幹がくづれてまぅ
やくざの親分を政治の表通りにさらしてわゆけなぃ
清濁あわせ飲む、なんつー文句もあるが、こりも表通りを
闊歩させるわけにわゆかん。

このとき、岸総理が言った、有名な台詞

「肥桶を床の間に据えるわけにはいかない」

党人派の大物、大野伴睦、と言えば、反射的に思い出す言葉は、《汚職》、です。
当時、日本の代表的評論家、大宅壮一が、大野伴睦の口利き・収賄体質を痛烈に批判し、大騒ぎになりました。裁判沙汰になったかどうか知りませんが大変な騒ぎでした。
大宅壮一もよほど腹にすえかねたのか、思い切って言ったもんだと思いました。

大学時代の私の友人は、大野伴睦が大嫌いで、「汚職と言えば、『俺を入れないテはない』、と必ず顔を出す奴だ」、と怒っていました。

大野伴睦はこのくらいにして。

党人派・大野伴睦、の会合の際、いつも隣に座ってデカイ面をしてまくし立てる男がいました。大野派の番頭でもなく、もちろん陣笠でもない、議員でない人間でした。よく事情を知らない人が、「あいつは一体誰だ?」、と訊ねたところ、
「読売・政治部の、ナベツネこと、渡辺恒雄、という人間だ。」、と言われたそうです。

叩けばホコリのでる政治家は新聞,特に全国紙の記者には徹底して気を遣います。
その政治的権力を徹底して、(というか、相手の弱みに付け込んで)、利用し、持ちつ持たれつ、戦後間もなくの、日本共産党・東大細胞の活動家、渡辺恒雄は社内出世街道を突っ走りました。

視覚に比べて嗅覚は鈍い私ですが、新聞雑誌で、ナベツネの写真を見ると、何ともクサクてかなわいません。

投稿: 町工場の親方 | 2012/03/20 17:15

初めてコメント致します、いつも興味深く貴ブログを拝見致しております。

私はある地方のいわゆる大陸引揚者用に作られた住宅地で育ちました、ほとんどの住民は満州からの引揚げ組です。
父は北京で終戦を迎えましたが父から生前戦争について聞いたことはほとんどありませんでした。
母は時々大陸からの引揚げ、特に満州からの引揚げの苦難を語っていました。母自身は北京からの引揚げ者です。
一般市民がどれほどの苦難を伴い日本に帰ったかはブログ主様を始め皆さんご存知の事と思います。

自分も含めて親たちから戦争の話を聞いた世代はどんなことであれ記録にとどめておくべきなのでは・・と思っています。
お父様が戦争を通してブログ主様に残された教訓は貴重で尊いものですね。

お父様がロシア軍について語ったことで思い出したのですが、
(現在ヨーロッパに住んでおります)去年TVのドキュメンタリーでユダヤ人収容所の解放についての番組を見ました。
収容所の場所によりロシア軍に解放されたところは悲惨だったようです。開放に来たロシア軍兵は収容所のユダヤ人女性に強姦の限りを尽くしたというものです。
証言していた女性の友人はそのせいで亡くなったと話していました。 収容所生活、開放に来たロシア兵による強姦・・・どんな精神状態で過ごしたのか胸が痛みました。
大陸引揚げ日本人女性にも蛮行の限りを尽くしたようですが・・・。

投稿: 同世代 | 2012/03/20 18:19

お父さんは、本当の反省が出来る方だったんですね。日本軍の欠点も外国軍の欠点も冷静に分析出来る。
本当の反省分析によって、より良い選択が出来ると思います。
視野の広い生き方は、全員が出来ることではないでしょう。新聞、雑誌、ネットは日本軍絶対善玉論、日本軍絶対悪玉論の極論で溢れ返っていますから。まあ、新聞テレビは殆ど、日本軍絶対悪玉論ばかりですが。
日本人全員が視野の広い生き方は出来ないのですから、視野の広いリーダーを選べれれる方法はないものでしょうか?

投稿: | 2012/03/20 18:38

いい話ですね。

恐らく当時は反発の方が多かったのではないかと思いますし、また今にして思えばもっと会話をしていればという気持ちがあるのかもしれません。

父親と息子の仲が良いと悪いでは息子である本人の人生が大きく変わります。

投稿: Pin | 2012/03/20 18:40

う~ん、素晴らしいお父上ですね。さすがに将校になられるだけのご見識をお持ちです。よくシベリアで2年間もご無事でしたね。小生の祖父も同じ位抑留されていたそうですが、とに角赤化が酷かった、と言っていました。満洲に駐留していた留守番部隊らしいのですが、ロクに戦わずに武装解除された様です。もっと色々と戦場の話などを聞いておくべきだったと悔やんでいます。

投稿: 素浪人 | 2012/03/20 18:40

私の祖父もシベリアに連れて行かれ二年あまり強制労働させられていました。祖父は下っ端の兵士でしたが、もしかしたらブログ主様のお父様と一緒だったかもしれませんね。
六年前に大往生。本日お墓参りに行ってきました。

投稿: ちはやぶる | 2012/03/20 19:19

坂さん、こんばんわ  初めまして

ずっと、以前から拝見させていただいております。

坂さんとは、色々な面でちょっと似ているところがあります。

父親が将校で関東軍で戦後ソ連抑留を経験したことがあること

書物が好きでブルースが好きで・・・私の場合はこれにR&Bとロックとゴスペルが追加されますが

左翼の活動経験はありませんが(坂さんより少し若い世代です)、心情的に少し憧れがあったこと(思想的にではなく大衆の集団行動にです。坂さんと違って、思想的には若い頃も右翼的な考えでした)

なんとなく、気になってこのブログ読んでいました。

御父さんの話が出てきたので、つい書き込みします。

私が小さかった頃の遊びは、それこそ親父と戦争ごっこばかりでした。親父が息子とやりたかったのか、私は戦争ごっこしか記憶がありません。

ある時、その遊びはパタッと終りました。私が戦争ごっこをやろうとねだっても、親父がやらなくなったのです。そればかりか、毎週親父と一緒に視るのを楽しみにしていた戦争映画「コンバット」の始まる時間に、ホタルを取りに行こうと言うのです。ホタルなんか、今取りに行かなくても何時でも行けるじゃないか、と言っても今行くと言うのです。大好きだった親父と、大好きだったコンバットが視れなくなると言って、随分泣いてゴネたと思います。

その頃を境にして、私の戦争ごっこの記憶は途絶えました。

私は大きくなってから、偶に振り返ってみることがあります。急にコンバットからホタルになった訳を。
小さかったので、記憶はまったくありませんが、一つの仮説を持っています。

山口二矢の日本社会党委員長浅沼稲次郎暗殺事件です。山口の父親は陸自の将校でした。

この事件をきっかけに、きっと、私の母親や母の実家の兄などから親父は注意されたのではないかと・・・
「若し、だいじな長男が道を誤ったらどうするのか・・・・」と
「戦争ごっこばかりやってなくて、子どもは子供らしく遊ばせろ・・・」と

坂さんの「 問わず語りに聞かされました・・・」という件を読んでいて思いました。

私の親父は本当に軍隊の事は語りません。大学生ぐらいの頃だったでしょうか「所謂、統帥権の干犯とはどういう事だったのか」、一度だけちょっと真面目に聞いたことがあります。

親父は少し考えてから珍しく真剣に、「私は、あまりよくわからないから、お前が自分で勉強して調べて結論を出してくれ」と言いました。親父が語らないことは本当に徹底していました。なんとなく、上記の仮説は正しかったと踏んでいます。

しかし、三つ子の魂百までとはよく言ったものです。親父との戦争ごっこが私の思想的原点です。

私はほんの少しだけ法学を齧っただけですが、銃をつきつけられ、強制的に施行させられた法律や契約は無効ではないでしょうか。現行憲法の改正などしてはいけない。破棄宣言をするべきです・・・・もう少し穏やかな手段でいいのですが。

それと、東京裁判で有罪とされた人達の名誉回復です。東京だけでなく東南アジア各地で連合国によって有罪とされた人達の名誉回復もです。

先祖を敬わない民族は、自らを否定することになります。明治維新以後の近代日本の歴史をもっと子ども達に教えなくてはいけません。

日清戦争も日露戦争も大東亜戦争も間違っていません。極東の朝鮮半島は力の拮抗する地政上の要所なのです。今までもこれからも。ただ、日本が遥か太平洋に出てゆくのはいけません。真珠湾攻撃は間違っていました。

遥か太平洋を越えて、なぜアメリカがアジアまで進出してくるのですか。フィリピンだけでは足らず、なぜ支那大陸まで進出しようとするのか。黄色人種が何千年と暮らしていた土地です。黄色人種の争いには理由があるのです。
しかし、白人がなぜ、日本列島に原爆を落とすのか。住民の殺戮だけを目的とする東京絨毯爆撃の理由は。はるばる太平洋を殺戮用爆弾を輸送してきて黄色人種のせん滅をしようとする理由は?

ベトナム戦争の理由はなんなのでしょう。アメリカの産軍共同体の経済活動でしょうか。

たった1回、世界中で1番強い相手に負けただけじゃないか。いったい何時までその国の冊封国家でいるのか、なぜ大和民族は眼を覚まさないのか。


坂さん、紙面をたくさん使わせていただきました。今夜は少し熱くなったかな

これからもご活躍、応援します。

投稿: 山口二矢 | 2012/03/20 20:52

私も渡邊は大嫌いです。大野に取り入って出世した男です。元左翼で頭のなかが左翼なのでどうしょうもない人間です。元左翼の人のなかには頭の中までは左翼ではないひともおりその方々はまっとうな人生を歩んでいます。
しかしかなり前の渡邊に対するインタビュ-のなかで認知症の奥さんに対する愛情があふれていました。だから心底渡邊がどうしようもない人間か分からない状況です。

投稿: たかさん | 2012/03/20 21:37

私の祖父は陸軍の技術将校(終戦時は中佐)でした。
主に戦車の運用とか、輸送関係を研究する立場に居たものと思われます。
戦後、プラント輸出などに関わり、何冊かの本も出していましたが、死後、持ち物を調べていると、晩年何かの懸賞論文のために書いたらしい原稿が出てきました。
残念ながら、すでに老耄していた時期で、論文としての体裁はまるで整っていませんでしたが、戦争中に軍当局が、技術分野や輸送分野の仕事にきわめて冷淡だったという怒りが噴出しているかのような文章でした。

──輜重輸卒が兵隊ならば
 蝶々とんぼも鳥のうち──

という、当時よく口にされていたという小唄のフレーズが繰り返し引用されていました。
(このフレーズは軍の中では息が長かったようで、西南戦争の頃に

──鎮台さんが兵隊ならば……

と同じような形で口にされていたと聞きます)
戦車の運用思想の拙劣さについては、戦車将校だった司馬遼太郎氏も何度も書いておられますし、輸送のいい加減さもいろいろな人が指摘しています。
私は、当時の日米に、最先端における技術力の差がそれほどあったとは思いませんが、その技術力を評価し運用する側のレベルが段違いだったのだと考えています。
要するに、軍の上層部が科学技術に弱く、せっかく自国に高度技術があるのに使いこなせなかったという面が大きいのだろうと思います。
……ただしこのことは、現代でもある程度言えるのではないかと思われるところが、少々情けないですね。
技術立国などと言いながら、政治家たちが日本発の技術についてどのくらい理解しているのか、どうにも心許ないです。

投稿: 面毒斎 | 2012/03/20 22:24

管理人さん
私の父方の叔父も関東軍からシベリヤ抑留でした。同時代の方々には同じような身内を持つ方々が多いのでしょうね。叔父は応集兵だったので将校ではなく下士官のようでした。抑留時代の話は殆どしなかったのも、良く似ています。亡くなって数年してから、高齢になった戦友が大切にしていた、叔父からの軍事郵便を送ってくれました。その内容から初めて、叔父がソ連侵攻の西の最前線だったハイラル要塞にいたことがわかり、そのときどんな心境だったのか、深く考えこんだものです。元気な間は戦友会に欠かさず出席いていました。隊報が「いわれなき虜囚」だったのが、心情を押し計るよすがです。
ソ連軍の様子の話は、同じ内容です。それに加えて、兵士の知的水準の低さを言っていました。母方の叔父は大陸戦線で負傷し戦病死。私の生後2ヶ月でした。兄に聞くと、眼帯をしていたという。完全な憶測ですが、国民党軍の鉛むき出しの銃弾にやられてのでは、と思ったりします。軍属だった父、母と徴用工だった祖父もまた被爆しました。こちらもあまり語りたがりませんでしたね。至近距離だったので、惨状の中を歩いたそうです。しかし、核武装推進論でした。サヨクの言う「十羽一からげ」の粗雑論では解けない複雑さを認識しなければならないと思います。
尚、敗戦の原因を陸と海の認識差だけに求めるのは問題あるかと・・。お父様ご存命の時代は確かにそのような論が優勢だったようですが。今日は我が身にも似た覚えのあるお話をありがとうございました。
付録に実話の笑い話を一つ。(報道されました)
昔、親善訪問で日本にきたイタリア海軍が、某大企業の造船所を見学して曰く「日本はこんな立派な工場があるのになぜもっと軍艦を作らないんだ?、一度負けたくらいでくよくよするな。俺たちはいつも負けている」

投稿: 団塊老人 | 2012/03/20 23:10

坂様こんばんは。

お父様のお話…
『共産主義黒書』という邦訳された本にも「戦争中、人民解放軍に加わるくらいなら、日本軍支配地域へ逃げるほうを選ぶ青年の数は多かった」と書かれている部分があります。

また、イザベラ・バード『朝鮮紀行』には、日清戦争の時、(奉天の人々は)「いっそ日本軍が占領して安全と秩序を取り戻してくれないものかと願う被害者も多かった」と書かれています。

日本の左翼が作り出した「日本軍悪玉論」のせいで、真実が歪められているのではないでしょうか。

それから、「シベリア抑留」だって、日本共産党が推奨していたことや、日本社会党がソ連の友党だったために抑留者から預かった手紙を捨て、嘘の報告を国会でしたことも、なぜか問題にされませんよね。

日本共産党も、社民党も、プロ市民の方々も、なぜか「シベリア抑留」という強制連行については何も語りませんね。
密入国者の朝鮮人(韓国人)を「強制連行で連れて来られた」と言い張るくせに、シベリア抑留者のことは何も語らない。

韓国人の売春婦には「強制連行」と騒ぎながら、中国東北部、朝鮮半島でソ連兵や中国共産党、朝鮮人に多くの日本人女性が強姦され、殺されたというのに何も語らない。

日本って、変な国ですよね。

投稿: ちゃお | 2012/03/20 23:14

いつも読ませて頂いています。勝手ですが気になったので書かせて頂きます。
1.よく前の大戦は米国の物量に負けた。海軍より陸軍により大きな責任がある。と言われていましたが、これは言訳だと思っています。米国に負けたのは物量だけではありません。学校成績重視の年功序列システムのため戦争に勝つ為に必要な指揮官の能力が大きく劣っていたと考えます。又失敗した指揮官から学ばず更に更迭、降格をしなかったことが大きいのではないでしょうか。海軍は米国のことをより知っていたのに開戦に賛成したのですからより責任は重いはずです。
2.陸軍の戦闘機に乗っていた親族に話を聞いたことがあります。この人曰く(特攻を志願するものは1歩前へ出ろと言われたけれど俺は出なかったよ)本当ですか?と何度も確かめましたが。当たり前のような顔をしていました。
海軍は命令で特攻させたようですが陸軍は違っている人もいたようです。

投稿: ダスティ | 2012/03/21 00:01

長崎への原爆投下は、三菱海軍工廠のジェットエンジン破壊であったと、私のじぃさんは言い残して被曝の後遺症で死んだそうです。海軍工廠で働いていたのは事実だがそれはいかがかとも思うが。

被曝の時は工場は頑丈であちこちが壊れていたが、倒壊はしていなかった。門番の海軍さんが皆倒れていたそうで、自宅に帰りついたら箪笥が支えになって家は半壊状態、もう一度工場へ戻って、ジェット燃料を持ち帰りカンテラ油にしたそうです。

子どものころより、長崎への投下は長崎が雲が晴れたからとかいうことを聞いていたので、まさか、三菱の海軍工廠のジェットエンジン破壊が狙いであったとか、本気には出来ませんでしたが、話が具体的であるため、エンジンに関しては本当の話のようです。

つまり、エンジンが出来上がれば、最速の戦闘機ができあがり、制空権は我が方のものになった可能性があったのです。原爆開発よりもジェット戦闘機とは海軍はスマートだなと思います。開発できずに、惜しかったです。

開発できていれば、もしや・・・・百人斬り授業も英雄の話として肯定的なファンタジーになっていたのかもしれません。

とまれ、百人斬り授業を許さない!!

投稿: amotoyamatotake | 2012/03/21 00:35

拝啓、板さま。
私の家も職業軍人の家系です。
父は幼年陸士で、戦後は陸自でした。
叔父はシベリア抑留の最後の帰国組で昭和33年に帰国しましたが、廃人同様でした。
父の同期生は、現役仕官として多く戦没しました。
いや職業軍人に限らず、大正一桁は従軍して一番戦死した世代でしょう
父からは、多くの話を聞いて育ちました。
2,26の時士官学校の将校生徒として動揺せずに如何に振舞えるか心構え事。
大東亜戦争開戦香港攻略戦時に後方で国府軍への警戒線を戦車装甲車で張り、苦労した事。
ちなみに父は、騎兵から戦車兵に転換し南支派遣軍所属の捜索連隊だったそうです。
父からは口癖のように、日本は滅びちゃったんだぞ、今の日本は国じゃないんだといっておりました。
陸自では、機甲でアメちゃんの(これも口癖)軍事学を研究教育する側でしたから、実感がこもってました。
物量、教育、作戦運用など反省点はあまり余るほどあったわけですからね・・・
ただ、面白かったのは昭和28年の警察予備隊創設時には陸海将校が入隊して、陸自にも海兵出の方がいらっしゃたことです。私の子供時代に御殿場の官舎で多くの父の同僚の幹部の方にお会いしましたが、子供の質問に真剣に答えていただきました。海軍が一番だめだったのは、兵站線を知らなかったことや、艦隊決戦主義で持久戦の概念を持たなかった。陸軍も海軍もベタ金の参謀が、官僚主義で責任を取らなくてよいように立ち回り、結果は現場の実戦部隊に押し付けてしまうなど等々。長じて、本を読み理解した訳ですが。
今度父の遺品を検めてみようと思います。書き溜めていたようでしたから、軍人の軌跡をたどれると思います。
そういえば、司馬遼太郎はわかってないと教えてくれました。最後の学徒動員組みでは教育が足りずに浅薄だと実例を教えてくれました。ナベツネもその口ですかね・・・

投稿: 騎兵 | 2012/03/21 04:27

同世代の人間として、父親世代が戦争でいかに苦労したか今更ながら痛感します。
私の父は当時よくあった再招集で中支戦線にて輜重兵だったと聞きますが、戦争の話はあんまりしませんでした。
父との会話は坂さんのほうが多かったでしょう。

坂さんにお聞きしたいのですが、父親がシベリヤ抑留当時の悲惨な経験を語ってもやはりコミュニズムが自由主義より優れているとお考えでしたか。

というのは、私たちの世代のコミュニズムへの憧れというのは当然、赤い教師の影響が一番でしたが、それと同じくらいソ連や中国の実態が分からずその国の人民が平等で幸福だとの間違った認識に立っていたのではないかと思います。

いまでは、すべて嘘っぱちであったと判明していますが当時はメディアが真実を報道することもなかったし、実際国が閉じていてわからない部分も多かったとも思います。

一時期、コミュニズムも優れているところがあると誤認識したわが身の反省です。


投稿: Rascal | 2012/03/21 08:04

皆様「少ない会話」でも、お父上お祖父様のご心情を好く汲み取っておられるご様子で、亡き方々はお喜びだと存じます。
私の父は虚弱体質で国内組でした。南方の収容所帰りと靖国の弟達への遠慮をいつも何処かに持っている感もありました。娘ばかりの家庭では話しても仕方がないと思っていたのか、せがんでも戦中戦後のことは余り教えてくれませんでした。明治帝と乃木将軍を尊敬し「あるべき日本」を信じ過ぎていた印象が残っています。
父の友人で中国戦線の衛生兵だった人は、ご家族とバラバラの引き上げで、終戦の年の春生まれの長男は缶詰の空き缶をお骨壺代わりにして奥様が隠し守って帰ってこられたそうです。その友人は衛生兵と言うことで戦後何度も「石井部隊」関係の取り調べをされたそうですが、その時のことを「何があったか知らない者は幾らでも居たということを頭から信じていない調べ方されてもなあ」と何度か云っていました。
海軍兵だったという人は、小学生の私が山本五十六提督のことを聞きたがるので沢山話して下さいましたが、後で父の云うのには「あれは全部嘘、からかわれたんだよ。沢山の戦友が亡くなった人に興味で聞くものじゃない」と叱られたこともありました。

坂様のお父上は陸軍内部のことをご存じでしたから陸軍の欠点をお話されたと存じます。以前NHKの戦争検証シリーズ番組を角川文庫だったかに転載されたもので読んだのですが、例えばガダルカナルへの陸軍の展開は海軍の強い要請に依るもので、ガ島が何処にあるのかさえ当時陸軍では不案内だったし、展開するには補給の確保も論じられた。とありました。この文庫本は去年の震災で痛みが酷く捨てた中の一冊なので、今文章をそのまま記述出来ませんが、それまで「陸軍は兵隊を使い捨て」風な印象を植え付けられた居たのね、と気づいたきっかけの文章でした。

将校個人の誰彼を取り上げられ、中には一身に悪評を注がれる人も、時間が経って、実は彼はそんな人ではなくこんなに立派な人だった。と好転し、またその逆もあり、で棺を覆っても分からない事って多いですね。単純に信じてしまわないように心して居ようと思いながら、小説になるついつい思い込んで居る自分が口惜しいです。

投稿: よれこ | 2012/03/21 15:14

コメント欄の皆さんのお話が濃密過ぎて読み切れません!一つ一つじっくりと拝読いたします。

坂さんのお父様のお話は本当に貴重な証言で、我々戦後世代がみな読むべきものだと思います。同時に、あの時代に左翼運動に身を投じた坂さんのお気持ちも理解できる気がします。程度の差はあれ、我々は皆時代の影響を強く受けているものです。

私は皆さんよりかなり下の世代ですが、それでも子供の頃は「日本は米国の圧倒的な物量に負けた」という意見と、「日本は技術力で負けた。だから今度は技術で負けたらいかんのだ。」という意見をよく聞きました。70年代ごろまでは平気でマスコミでもそうした事を言っていた気がします。

戦争が有無を言わさず悲惨で悪いものと決めつけられるようになったのはバブル期以降、いや90年代に入ってからだった気がしています。やはり戦争に行かれた方が引退されてからでしょうか。

また色々な事を勉強させて頂きたいです。

投稿: おれんじ | 2012/03/21 20:14

坂様とは同年代なので、当然お父上とウチの父もほとんど同年代でしょうか。

戦前の、父が束の間の平和な学生生活を送っていた時のこと。東京宝塚劇場にて、貴賓席に来ていたドイツ大使オットーが万雷の拍手を浴び、ナチス式の敬礼で応えるのを見たそうです。どえらい格好良かったそうですよ。
劇場国家ナチス・ドイツと宝塚…物凄い相性ですね。宣伝省を持っていた国だけのことはあります。

そんな趣味の父は 昭和17年の正月に、美少女と二人で天馬に跨って七色の雲の上を駆けてゆく生涯最高の初夢を見たそうで、そうしたら直後に召集令状が来たと。父の場合、オチがあるのですね。(笑)

な訳で、善通寺の師団、丸亀の連隊に配属され、以来三年半に渡り中支を転戦。ウチは職業軍人はいないのですが、祖父はいわゆる一年志願兵で砲兵科の予備士官として日露戦争に従軍。曾祖父は士族隊として西南戦争に参加。みなお務めを果たしております。

難戦の果てに 連隊長が「軍旗にお別れをせよ!」帝国陸軍は最後にこのセレモニーをやるのですね。
連隊旗手がするすると出てきて、父達兵隊は士気が上がるどころか、これで終わりかとがっかりし、それでも務めは果たさなくてはならないと、結果、命長らえますが、その程度に自覚的な国民でした。

学校で御真影を拝する時にも、生意気盛りの中学生達は、若くて美しい皇后陛下ばかり注目していたそうで、愛媛という風土もあるのかもしれませんが、戦前と言っても、そんなコチコチではありません。

ただ医薬品の不備により、助かる傷病兵も助からなかったこと。近接戦闘にあれだけ勇敢なわが歩兵に対戦車用の火器が何一つなく、敵の戦車が出てくるとお手上げであったこと。無念の事実だけは指摘しておりましたね。

それ以外に 国軍を誹謗するとか、戦前の社会を否定するとかいう風は微塵もありませんでした。
父は亡くなりましたが、今でもドイツ映画の「会議は踊る」やアメリカ映画の「オーケストラの少女」とかを見ると、そこに父の青春の残映があるような気がして 不思議な気持ちになります。

坂様のお父上の属された関東軍将校団の方、何人か存じ上げておりますので、そのお話はまた次の機会に。

投稿: レッドバロン | 2012/03/22 15:12

日本の敗戦以前と敗戦以後にまたがった親子関係は、それ以前とそれ以後のものよりも深い断絶があるような気がします。
なにしろ社会体制が180度変わりましたから。
戦前も戦後も親子共々ほぼ同じ教育と良識の中で育ってるといえますが、この戦中親と戦後の子というタイミングの親子関係だけは全く違います。
これは他の世代の親子関係にはない特徴だと思います。
これに匹敵するのは日本では維新前と維新後くらいではないか。
幕藩体制の真っ只中で生きた親と、新政府の方針で「丁髷頭を叩いてみれば因循姑息の音がする。ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする。」みたいな教育をうけた子の間にあった断絶ほどに深いような気がします。
そしてそれだけに受けた教育や育った環境や良識は違っても、親子は親子だ、と印象深く示唆するのもこの世代を措いて他にはないと思えます。

投稿: ブルー | 2012/03/24 05:29

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