今日は久しぶりに全共闘運動を語ろう
読者の方から、以下のようなコメントをいただきました。
古い記事でしたが、大変勉強になりました。昨今お騒がせのしばき隊・SEALDs・ReDEMOS・・・要注意ですね。
2015/12/15 19:58
R
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古い記事とは以下。
2011/06/28
今日は久しぶりに全共闘運動を語ろう
1960年代後半から70年代初頭にかけて全国の大学を席巻した激しい学園闘争。
このブログの読者でも、当時、何故あれほどまでに学生運動が高揚したのかよく解らないという方が多い。
私は、解らなくて当然だと思う。
なぜなら理由が多岐にわたるからだ。
まず最初に、当時の革命党派について説明しておこう。
全学連、新左翼、全共闘、いずれも当時の左翼学生運動を指す名称だが、その内容は違う。
全学連は、全日本学生自治会総連合のことで、読んで字の如し、学生自治会の連合組織である。
新左翼というのは、社会党や共産党などの既成左翼と違う「新しい左翼」という意味で、もっぱら反日本共産党の左翼過激派を指す。
全共闘、これがもっとも有名だが、これは全学共闘会議の略称で、党派と無党派、そして個人の共闘組織であり、中央大は全中闘、同志社大では全学闘を名乗った。
なお、革マル派は東大闘争後、全共闘から完全に排除された。
党派には、大雑把に言って、トロツキズム、 ローザ・ルクセンブルク主義、構造改革派、毛沢東主義の流れがあった。
もっとも影響力があったのはトロツキズムとその亜流で、第4インター(通称「4トロ」)や革共同両派(中核と革マル)はこの流れにある。
ローザ・ルクセンブルク主義の影響は社青同解放派(革労協)に強く見られ、この党派だけは日本共産党を出自としない(出自は社会党)。
構造改革派の代表格は統一社会主義同盟であり、通称を「フロント」と称した。
毛沢東主義は、日本マルクス・レーニン主義者同盟・通称「ML派」がもっとも有名だった。
では、私が所属した共産同(ブント)はどの流れに属したのか?
実は、今もってこれがはっきりしない。
共産主義社会を目指し、暴力革命を掲げていたからマルクス主義の党派であったことは間違いないが、組織内にはトロツキズムに近い者から吉本隆明に強い影響を受けた者まで様々な立場の人間がいた。
つまりブントというのは、党派としての明確な主義(ism)がなかったのである。
ざっくりと言えば、革共同に対する対抗意識が組織の求心力だった。
主義(ism)があったとすれば、それは、党組織建設より闘争(運動)を優先するという「ブント主義」。
革共同(中核と革マル)においては、「プロレタリア的人間としての主体の形成」が求められ、「プロレタリア的人間への自己変革をなし遂げた者によって構成される強固な“前衛党”」が革命闘争を指導するとされた。
これに対しブントは、「人間の自己変革は革命闘争の中でこそ実現できるもので、闘争と切り離して主体の形成を求めれば、それは宗教になる」と強く批判した。
これが中核派の「党の戦略・戦術」と、ブントの「戦略・戦術の党」の違いとなって表れたのである。
で、管理教育と成績至上主義への反発が根底にあった私には、当然のことながら革共同(中核と革マル)は不可だった。
反体制を標榜する者が、暗愚な大衆を指導する“前衛”=「イデオロギー的権威」を志向する、これは私には理解不能と言うか、許せないことだった。
ブントというのは全共闘に重なる。
異なる主義主張を持った者が「暴力革命」という一点で同盟する、つまりブント自体が全共闘的党派だった。
だから中央大全中闘や同志社大全学闘は、丸ごとブントたりえたのだ。
が、こういう闘争第一主義の組織は、運動の高揚期は大きな力を発揮するが、衰退期に入るとその存在価値を失くす。
我がブントが、70年安保闘争の敗北後に四分五裂したのは当然のことだったのかもしれない。
また、こういう組織から赤軍派が派生したのも、ある意味では理解できる。
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皆さんは、連合赤軍と赤軍派を同じものと認識しているかもしれない。
が、この二つは明確に違う。
赤軍派はブントだったが連合赤軍はそうではない。
ブントの名誉のためにも、このことだけははっきりとさせておきたい。
連合赤軍は、ブント赤軍派の落ちこぼれと、「権力は銃口から生まれる」という毛沢東の教えを単純に信仰した京浜安保共闘(日本共産党革命左派)が合体したものだ。
当時、赤軍派は銀行強盗で得た資金を有していた。
一方の京浜安保共闘は真岡市銃砲店襲撃事件で銃を手に入れていた。
この「資金はあるが銃がない」赤軍派の一部と、「銃はあるが資金がない」京浜安保共闘が、何の思想的整合性もなく、ただ「武装蜂起」という一点のみで野合したのである。
山岳ベース事件における大量リンチ殺人は、ブント主義の対極にある。
が、そのリンチ殺人にブント赤軍派の一部が加担した。
そこには「プロレタリア的人間への自己変革」を求める革共同的な思想が背景にある。
「プロレタリア的人間=革命戦士としての主体の形成が不十分」=小ブルジョア(プチブル急進主義)として糾弾され、暴力による総括が実行されたのだ。
これは毛沢東主義者(京浜安保共闘)の発想である。
リーダーが、田宮高麿から「ゲバ棒一本持てんやつに戦争ができるか」とコケにされた森恒夫だったこと、その相棒が「女としての自分に100%の劣等意識を抱いていた」永田洋子だったことも不幸だった。
そして彼らは極寒の山岳地帯に追い詰められ、極限状態にあった。
中核派と革マル派が、血で血を洗う凄絶な内ゲバを繰り広げたのも「プロレタリア的人間への自己変革」に原因がある。
革マル派から見れば、中核派は「プロレタリア的人間への自己変革」が不十分なプチブル急進主義者であり、解体するべき存在である。
中核派からすれば、革マル派は「“前衛党”建設」を口実にして革命闘争に敵対する反革命・権力の手先となる。
元々が同根だから近親憎悪的な側面も強い。
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60年安保を闘った学生と70年安保を闘った学生は明確に違う。
60年代安保世代の目の前には絶対的貧困と核戦争の恐怖があった。
そして時代は、左翼の世界に君臨していたスターリンの権威が地に落ちたころだった。
まさに今までの前衛党が否定されたのである。
だから60年安保闘争は、日本共産党を飛び出した(除名された)学生細胞が中心となって担うことになった。
彼らを突き動かしたのは、反貧困、反核、反米、そして反日本共産党である。
70年安保世代の時代も貧困は残っていた。
が、時代は高度成長の真っ只中で、日々生活が豊かになっていた。
こういう背景の中で、彼らは反貧困だけではなく、既成の権威や管理体制に異議を突きつけた。
つまり反貧困に反権威と反管理が加わったのである。
60年世代にとって日本共産党は、憎むべき敵でありながら、彼らを生んだ親でもあった。
が、70年世代にとっての共産党は単なる反革命でしかなかった。
共産党も既成権威の一つであり、打倒の対象だった。
60年世代は多くが学生服を着ていた。
70年世代の定番は、ジーンズにスニーカーとロン毛。
私の髪も肩より長かった。
ジョーン・バエズやPP&M、あるいはボブディランなどの反戦・反体制フォークソングに親しんだ者も多く、ビートルズにのめり込んだ者もいた。
また、柴田翔、高橋和巳、倉橋由美子、井上光晴などの著作が好んで読まれた。
このような精神的・文化的背景の中で、既成の権威や体制による管理・抑圧に対する反抗心が醸成されたのである。
ベトナム戦争も大きかった。
弱者=ベトナムを侵略し無差別に人民を殺害する強者=米国、その極悪な米国に追随する日本。
極めて解りやすい「正義と悪」の構図が目の前に示されていたのである。
このベトナム戦争、多くの一般市民や者が反戦運動に参加していた。
より敏感な学生が、反戦に立ち上がるのは自然の成り行きだった。
つまり、70年安保闘争≒全共闘運動の根底にあったのは既成権威の打倒、管理体制からの自由、ベトナム反戦であり、それに反貧困と反権力が合流したのである。
それが多くの学生の共感を呼び、無党派=ノンセクト・ラディカル主導の全共闘運動が高揚したのだ。
「別個に起(た)って共に撃つ」、これが全共闘運動である。
要は、思想的背景や信条が違っても、反権力・反体制で連帯し共に闘う、これが基本だった。
もちろん共産主義を志向した者も多かったが、共産主義革命が実現すると信じていたのは少数派だったと思う。
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全共闘運動が高揚した背景には当時の学生の生活環境も大きく影響している。
高度成長で豊かになったとはいえ、多くの学生は冷蔵庫はもちろんテレビもなく、4畳半の風呂なし共同便所の安アパートで暮らしていた。
居酒屋で呑む酒代もなく、娯楽と言えば麻雀くらいだった。
実際、麻雀と同じレベルでデモに参加していた学生たちもいる。
が、この全共闘運動、山岳ベース事件で瀕死の状態に陥ってしまった。
ジーンズにスニーカーとロン毛、ジョーン・バエズやPP&M、あるいはボブディランなどの反戦・反体制フォークに親しんだ者にとって、大量リンチ殺人など絶対に受け容れられない出来事だったからである。
そして、革共同両派(中核と革マル)及び革労協の凄絶な内ゲバが全共闘運動に止めを刺した。
全共闘運動で圧倒的多数を占めた無党派=ノンセクト・ラディカルの大半は、ゲバ棒を捨て髪を切り、普通の社会人として巣立っていった。
彼らは今でも政治的には左だと思う。
おそらく社民党や民主党を支持している。
私のような深刻な挫折(内ゲバや武装闘争)を経験していないから、左翼時代が「良き思い出」になっているのだ。
そして、彼らの歴史認識は「日本が悪い」。
こういう者たちを目覚めさせるのは難しい。
私たちは、若い世代に「正しい歴史」を受け継がねばならない。
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コメント
全共闘運動はリンチ事件等によって目が覚める人や、運動家から引退した人は多いようですが、事件がなければ現在まで続く運動たりえたのでしょうか…。
もう高度経済成長は望めず、劇的に社会が変化することは難しいと考えてますので、シールズみたいな組織は長く続くこともあり得るのかなと考えます。
思想や信条が異なっても共同の敵を打倒するための共闘では、私は戦いを長引かせるだけで平和とは無縁と考えています。
同じことが共産党主導で野党連合して、もし自民党を引き摺り下ろすことが成功したとして、連合党内での争いになると、彼らは考えてないのでしょうか…?
投稿: T | 2015/12/17 00:56
日本が悪い といいつつ その日本に住んでいて。
反権力といいつつ その権力に守られた治安の良さの
なかで 自由を主張し謳歌している人々。
何故 自由に反権力を主張できるのか を 考えたこともないのでしょう。 平和憲法と同じく 理想を主張していれば皆が助けて守ってくれると思っているのですかね。
投稿: sirouto | 2015/12/17 09:49
この前保守系のラジオ番組に共産党の小池氏が出てましたが
話す内容に論理も何も無く、現政権のやり方は悪いみたい
なことを垂れ流すのみ。
多分共産党内では議論をまったくしてないのでしょう。
赤軍派の内ゲバは議論していてまともな事を言ったひとが
殺されたのでは?と勝手に思ってます。
投稿: kaz | 2016/01/05 14:50