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2016/05/13

つれづれなるままの自分史 2

依存症の最近の読者は、新しい方が多いようです。
もちろん、度重なる中断にもかかわらず、ずっと依存症を応援してくれている方たちもいます。
が、コメンターの顔ぶれを見ても新しい方のほうがが多い。
そういう方たちにとって、私がなぜ左翼から今の立場に転換したのかを不思議に思う方もいるでしょう。
今日は、そのあたりについて書いてみたいと思います

私は、かつて「つれづれなるままの自分史」を書きました。
2007年5月19日のことです。
このエントリを再掲してもよいのですが、今は改めて書いてみたい
という気持になっています。

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私の原点は、今でも在日、左翼、被差別部落―
だと思っています。
私が生まれ育った田舎は、石炭の積出港で後背地に炭鉱があり、古くからの工業地帯に隣接していました。
しかも、海峡を挟んで朝鮮半島がある。
だから在日朝鮮人がたくさん住んでいました。
小中学生のころは、1学年の5%は在日2世でしたね。
近所にも5軒ほど在日の家があり、当然の事ながら幼なじみもいます。

あまり朝鮮人差別のないところでね。
けっこう子どもたちは仲がよかったです。
都会ではなかったから、戦後の混乱期の朝鮮人による横暴に遭遇しなかったからでしょう。
が、長じて後に知るのですが、大人たちの間には明確な差別意識がありました。
驚いたのは、学校の教師たちにも差別意識を隠さない者がいたということです。
私は、これに激しい怒りを覚えました。

私が左翼になった理由の一つがこれです。
ただ、それよりも、進学校に進んで、受験勉強一本やりの学校教育に対する反発のほうが動機としては大きいと思います。
いい大学に進学していい会社に入る、特別な才能がない限りこれがいちばん幸せなんだよ―
素行不良の私に担任教師は言い放ちました。
そのくせ、自分たちは法に違反したストライキを繰り返している―
この偽善に私は絶望しました。
で、そこから反教師―反学校―反体制と私の意識は変遷していくのです。

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1967年の10.8佐藤訪米阻止闘争で、京大生の山崎博昭さんが死亡しました。
60年安保闘争で東大生の樺美智子さんが死んだことは知っていましたが、それは私にとって歴史にしか過ぎませんでした。
が、山崎さんの死はリアルタイムで、私は大きな衝撃を受けました。

当時、高校1年生だった私は、「どうして学生たちはゲバ棒を振るうんだろう?」「なぜ命を落とすような激しい闘いをするんだろう?」と猛烈に好奇心をかき立てられました。
受験勉強の勝者―京大生―ゲバルト―死、これらが脈絡的につながらず、「なぜ」をどうしても解明したくなったのです。
そして、めぐり合ったのがレーニンの「国家と革命」です。

第一章 階級社会と国家
  一 階級対立の非和解性の産物としての国家
  二 武装した人間の特殊な部隊、監獄その他
  三 被抑圧階級を搾取する道具としての国家
  四 国家の「死滅」と暴力革命

以上が「国家と革命」の冒頭の項目ですが、これを読んだだけで私は目から鱗が落ちました。
これまで悩んできたことがいっぺんにクリアーになったのです。
今の世は階級社会である―
労働者は被抑圧階級であり、国家は搾取と抑圧のための道具である―
プロレタリア革命こそが人間解放への道である―
その革命の本質は暴力革命である―
真の自由は共産主義によって実現される―
「これだ、これ!」
もう左翼にならなければ生きている価値がない。
ここから「革命的左翼」としての私の軌跡が始まるのです。

Hanedatouso             1967年 10.8佐藤訪米阻止闘争 機動隊の阻止線を突破する学生

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中学生のころ、年長の従兄弟から「女工哀史」(細井和喜蔵)を読むように薦められました。
この本を読んだ時はショックでしたね。
そのころから、資本主義に対する懐疑が私の心の中で育まれていくのです。
もちろん当時の時代背景など知るはずもなく、ただただ女工たちが憐れでした。
そして高校に入った私は、「生きる意味」を考えるようになりました。
「何のために生きているのだろう?」と思い悩む日々が続きました。
椎名麟三の本や華厳滝で自殺した藤村操に関する本をむさぼり読んだのもこのころです。

で、思い悩んだ結果、もう受験勉強がバカバカしくなりました。
教師たちがアホらしく見えてきました。
こんな大人になってはいけない、偽善と打算で人生を生きるなんてサイテーだ!
と、私は思うようになったのです。
そのとき、レーニンの「国家と革命」にめぐり合った。
私にとっては必然でしたね、左翼になることが......

私は、学生たちがゲバ棒を振るう理由がよく解りました。
よし!俺もゲバ棒を持とう!新左翼運動に参加しよう!
そう決意した私が知り合ったのが、ブント(共産同)の活動家でした。
1969年、まだ17歳、高3のころです。
そこから1972年5月13日の「神田武装遊撃戦」まで、3年間にわたる私の極左人生が始まったわけです。

Syagakudo                     ブントの学生組織 社学同のヘルメット

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もっとも、私の左翼活動家としての魂は、同年3月に発覚した連合赤軍による山岳ベース事件(集団リンチ殺人)で完全に萎えていました。
駿河台で火焔瓶を投げたのは、ある種のケジメでした。
これで検挙されてオシマイにしよう、そう思って「神田武装遊撃戦」に参加したのです。
が、運良くというか、運悪くというか、この闘争に参加した活動家の半数近くが検挙されたのに、私は生き延びてしまいました。
で、結局、組織を抜けて田舎に帰り、1年に及ぶ「引きこもり生活」が始まるのです。
依存症になったのはこのころですかね、恋人にもふられましたし。

過激派の運動から脱落した私は、自身を総括できないまま1973年に部落解放運動に加わりました。
と言っても、差別糾弾闘争や狭山差別裁判に抗議する集会に参加したわけ ではありません。
そのころ行われていた識字学級や補充学級の講師になったのです。
当時の被差別部落には文字を読み書きできない大人がたくさんいました。
高校進学率も5割くらい。
一般の高校進学率が9割を超えていた時代にもかかわらずです。
なんと言っても私が驚いたのは、50軒以上ある家庭の中で新聞を購読している家が1軒しかなかったという現実。
そこで私は2年近く、中学生に受験勉強を、大人たちに文字の読み書きを教える活動をしたのです。

で、その2年間で、私はさらに左翼運動に疑問を抱くようになりました。
部落解放同盟(解同)幹部による公私混同と物理的恩恵にこだわる多くの部落大衆の姿を目の当たりにしたからです。
要は、運動の理念なんて関係ない。
より多くのモノとカネが手に入ればよい。
すべてとは言いませんが、それが部落解放運動の否定的側面だったことは間違いありません。
実際は、「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」という水平社宣言とは無縁の世界だったのです。

Kanda_yugekisen                 1972年 5.13神田武装遊撃戦 私はこの中にいました。

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当時、大学を退学していた私は、もう左翼運動に嫌気して復学を願い出ました、1975年のことです。
同級生のほとんどは既に卒業しており、さびしい学生生活でしたね。
で、結局、7年がかりで大学を卒業しました。
もちろん就職先なんてありません。
まず、大学の就職課(だったと思う?)が斡旋してくれません。
しかも、悪いことにオイルショックの影響がまだ残っていました。
そんな中、まだ公務員の年齢制限には該当しないことが分かりました。
そこで、仕方なく公務員試験を受けて、ある政令指定都市の上級職員になったのです。
が、ここでも労組の活動に励むことになり、5年後に退職する破目に陥りました。

結局、私が左翼から解放されたのは事業を起こして倒産したことによります。
その後の数々の修羅場。
これが私の人間を見る目を変えました。
社会の捉え方を変えました。
人間は理論では説明できない、人間社会は科学では解明できない。
人間の原点は欲望ではないのか?
その欲望と理性との葛藤が「生きる」ということではないのか?

欲望に囚われた人間は人間であることを忘れる。
理性に縛られた人間は人間存在を理解できない。
人間というのは複雑で、奥深くて、きれいなところとドロドロとしたところが併存している。
理屈では割り切れない。
そんな人間が寄り集まって作る社会はもっと複雑だ。
という当たり前のことに気付いた時は、すでに30代も半ばを過ぎていました。

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その後、めぐり合った人たちの好意もあって私は人生を立て直すことができました。
人間、どん底に落ちても一生懸命に頑張るという気持をなくさなければ何とかなるものです。
誠実に生きていれば、よき先輩、よき仲間にめぐり合えます。
義務を果たさず、権利のみを主張する人は救われません。
自らを自覚できず、妬(ねた)みと嫉(そね)みで我が身を焦がす愚かな人は成長しません。
努力するという意思、感謝するという気持、これがなければ人間は進歩できないのです。

努力と感謝、これがあれば、能力のある人が努力して成果を手に入れても妬んだりしない、たとえ敗者になっても弱者に落ちることはない、必ず復活できます。
私はそのことを、どん底の生活の中から学びました。
そして家族を得た私は、その大切さを初めて知りました。
家族が大事と思う気持ちは、社会が大事、国家が大事という気持ちに発展していきます。
私の、そして家族の今の生活は、日本を作ってきた先人たちのおかげである、そう思うようになったのです。
そこにおいては、尊敬する父親の存在も大きく影響していました。

実は、私は左翼だったころと本質は変わっていないと思います。
今でも、強者に弱く弱者に強い人間が大嫌いです。
権力を持った者の理不尽は許せません。
予期せぬ出来事の結果、弱者に甘んじざるをえない状況に陥った人には救いの手を差し伸べるべきだと思いますし、予断と偏見による差別は受け入れられません。
が、被害者を気取って筋の通らない要求をする者、妬みと嫉みから努力し成功した人を攻撃する輩は許すことができません。

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やはり、人間は歴史を学ぶことが大切です。
それもプロパガンダではなく、実証的な、裏付けのしっかりとした歴史です。
そうすれば、中韓の捏造史観に毒されることもありませんし、カルト左翼に罹患することもありません。
逆に言えば、日本の歴史はすべて素晴らしかった、というカルト右翼の無謬史観に洗脳されることもありません。

私は、歴史を学び直したことで、日本と日本人に誇りを持つようになれました。
明治維新とその後、短期間で欧米列強に伍するまでになったのは、まさに“奇跡”でしょう。
ヘタをすれば列強の植民地になってもおかしくなかった。
それだけ先人たちは賢明で偉大だったということです。
戦後の高度成長も、よく“奇跡”と欧米から言われますが、明治の“奇跡”がなければ戦後もありえませんでした。

真の歴史を学んだ結果、今の私は「より日本人らしい日本人」になれました。
「日の丸」が掲揚されれば心が高揚するし、「君が代」が流れれば厳かな気持になれます。
日本人であることに誇りを感じ、こんなに安全で平和で豊かな国の礎を築いてくれた先人たちに感謝したい気持でいっぱいです。

価値観は時代とともに変わっていくものですが、(象徴)天皇だけは未来永劫にわたって変わることはないと確信しています。
それは日本と日本人の歴史であり文化であるからです。
日本人は永遠に天皇のもとにある、私は日本がある限りそう思います。

いつまでも謙虚な日本人でありたい
そして、権利と義務は表裏であることを、いま一度確認したい
と、心の底から思うこのごろです。


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このエントリは→2011/04/20の再掲です。

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コメント

70年代左翼への道は一つは高等教育を受けている者である学生や大学卒業者であるのともう一つは当時の低学歴、低所得者、並びに労組が主導する労働者であったと思えます。
若者だけに強い正義感が土台にあり、また被搾取意識を日頃持っていたりする者にマルクス・レーニンは説得力を持ったのでしょう。

しかしそれが時間の経過と共にマイナーな存在となっていったにも関わらず正に残滓として日本全体に染み付いて増殖を企んでいるところに現代的問題があると思えます。

それは具体的に目に見えるものであって、社民党がいまだに存在していることやその前身の社会党の逃げ先が民主党、つまり現民進党という合法政党として一定の存在感を持っていること。
日弁連という司法の一方の組織自体が左翼であるということ。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/human/constitution_issue.html
日教組、地方教祖という左翼組織が全国ネットで存在し、九州大分や北海道など特に力を持った地域も存在するということ。
メディア自体に汚染が蔓延し、歴史認識の軸が左に傾いているところを中心軸として報道する現状。
など衰退しつつあるとはいえ重要なポイントポイントは左翼が握っていると言っても過言んではないとも思えます。

それらの多くは左翼の世に青春時代をおくり、いちご白書として社会人となりそれぞれの場所で幹部となっていった者たちも多数いるでしょう。
特に当時のまま現在も左翼であるという非転向と言うか視野狭窄左翼は少数でしょうが、その周囲には傾いた層が重層となっているように思えます。
そこにこの言葉が当てはまるのではないでしょうか。
それらが後継者を増やそうとする動きが気がかりです。
>欲望に囚われた人間は人間であることを忘れる。
理性に縛られた人間は人間存在を理解できない。

そして良質な日本の将来を妨害しているのが左翼などです。
但し社会的弱者の拠りどころが左翼に結び付きやすい現状はあります。

投稿: Pin | 2016/05/13 19:43

極めて観念的な捉え方かも知れませんが、我が国に極左やパヨクらが未だに一定の勢力を保てているのは、やはり狂産シンパがワンサと居たGHQによる戦後体制が未だに続いているせいではないでしょうか。戦後痴呆自治やニホン狂匪の合法化や公職追放や労働争議の激化は、皆GHQの画策した結果になって今に至っているのですから、日本国家否定志向に向かいやすい極左共に栄養たっぷりの培地を与えた様なものです。

今日の結論:戦後日本国民が未だに戦後体制に生きている、いや(悪い意味で)生かされていることを認識してこそ、この国は真に蘇る!パヨク共はカビみたいなものであり、風通しをよくすれば雲散霧消し生存さえ出来ない!

投稿: 素浪人 | 2016/05/13 22:44

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