今日もまた、徒然に語ります。
私は、よく「世の中に絶対はない」と言います。
これは、私の左翼体験からくるもので、何かを「絶対」と思い込むほど危険なものはありません。
連合赤軍の大量リンチ殺人にしろ、オウムのサリンテロにしろ、「絶対」が存在したからこそ起きたのです。
人間社会には絶対的真理など存在しません。
真理は、その時代、その空間によって変化していくものです。
にもかかわらず人間は、常に真理を求め続ける。
「絶対」である「真理」を。
なぜなら、その方が楽だからです。
しかし、その時点で人間は、カルトに侵されることになります。
私たちは、自らの主観を対象化する作業が欠かせません。
そうすることによって、物事を相対的に捉える柔軟性を獲得できます。
私が、常々「左右のカルトは受け容れられない」と言うのは、こういう柔軟性の欠如した人たちのことです。
たとえば歴史認識です。
左のカルトは、戦前の我が国の歴史を「軍国主義」として断罪します。
そして我が国は、基本的人権の抑圧された後進的社会であったと。
一方、右のカルトは、戦前の我が国に非はなく、戦争は外国の謀略によるものだと言います。
社会も立憲君主制の民主的なものであったと。
が、どちらも間違っていますね。
あの戦争は必然であったし、どちらかが悪いわけではありません。
お互いに祖国防衛戦争であり、裏返せば侵略戦争です。
ここにおいて防衛戦争であったか侵略戦争であったかの論争は不毛です。
どの国も自国の存亡をかけて戦わざるを得なかった、そういう時代だった、これが事実です。
当時の我が国が、欧米と比較して基本的人権に制限があったことは否めません。
が、それは時代的限界だったと私は思います。
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私がネット世論に違和感を感じるのは、自己対象化がまったくできていない事例が多いからです。
何かを信じ、何かを絶対
化している論調が多い。
たとえばTPPです。
「TPPは亡国の道」みたいな主張が多い。
で、その主張は特定の人物の主張に依拠している。
が、私は「TPPは亡国の道」とは一概には言えないと思います。
デメリットもあればメリットもある。
ただ、今のままではデメリットの方が大きいから私はTPPには反対です。
消費税増税も同じです。
増税しなくても日本の財政は破綻しない、社会保障制度も維持できると言う主張。
これも特定の人物の主張に依拠しているわけですが、これは詭弁です。
消費税増税は避けられません。
が、増税の前にデフレの脱却が必要、今重要なのは増税よりデフレ脱却、という主張は一理あります。
と言うか、もっと大胆な景気刺激策を政府は打ち出すべきです。
消費税増税ばかりが焦点になること自体おかしいわけで、肝腎なのは景気対策です。
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石原慎太郎はかつて、「俺は極右にして極左だよ」と語ったそうです。
私が石原を好きなのはここですかね。
私の中にも保守とリベラルが同居しているからです。
何でも守れば良いというもんじゃない。
時代は変化しているのです、常に。
時代にそぐわないもの、不合理なものは常に変えていくべきです。
もちろん変えてはならないものもあります。
その第一は天皇の存在です。
ところで、自民党が10年間で200兆円、公明党も同じく100兆円に上る公共投資を柱とする防災対策を次期衆院選政権公約(マニフェスト)の目玉にするそうです。
自民党は「国土強靱化基本法案」、公明党は「防災・減災ニューディール」。
私は、これを否定しません。
中身をよく見ないと何とも言えませんが、防災のための大胆な投資は必要だと思いますし、それが景気対策になれば一石二鳥。
ただ、これまでの公共事業に見られた利益誘導と無駄遣いだけは絶対に許してはなりません。
~文中 敬称略~
手紙/岡林信康
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コメント
言葉の定義が歴史学上でも決まっていないでしょうから、我が国だけでなく祖国防衛戦争か侵略戦争かで判定は出来ないと思いますね。言えるとすれば、我が国の場合、明らかに祖国防衛の『性質が極めて強い』戦争を戦って来た、ということでしょうか。インドシナ半島やインドネシア攻略などは仏蘭などから見れば侵略でしょうが、我が国が目指していた経済的自由圏の確立の前には止むを得なかったでしょう。
要は大義が有ったか無かったか、が重要なのではないでしょうか。戦中以前の我が国は決してメリケンが起こしたイラク戦争的な、戦争の為の戦争には係わっていないのは明らかです。
投稿: 素浪人 | 2016/05/11 21:38
>人間社会には絶対的真理など存在しません。
絶対的真理があるとすれば、それはただ一つ。
ぱよちんブサヨの脳は機能不全だということでしょう。
投稿: やす | 2016/05/12 16:59
真理とは何かとか、どのイデオロギーは正しいのかとか、これらは人間の都合で生み出された思考であって、本質は「その時代の仕組みや流れに適合したものが生き残る」という、生物学的なものに過ぎないと、常々考えている私です。
だから私からしたら、国家というものは、その仕組みを自分たちの都合のよいものにしようとする、自分たちが安定できる、繁栄できる仕組みにしようとする、逆に敵対国に都合のいい仕組みにされてしまえば、圧迫され、翻弄されることになる、ということになります。
大戦後、ソ連と対立し始めた資本主義諸国は、ソ連をユーラシア大陸の中に押しとどめようとする「ソ連包囲網」を築こうとしたアメリカを中心として繁栄できる仕組みを構築し、共通の秩序を作り、交易をしてきたというわけですね。
その中で西側諸国は発展してきた。
日本は最もその恩恵を受けた国の一つだと思います。
そしてどうしても発展に必要なもの、それはエネルギーです。
現代社会では、それは主に石油が該当します。
このエネルギーをどの国が手に入れるか、支配するかは、安定し、繁栄する重要な要素なのだと思います。
不条理と言われる戦争も、この視点から見れば理解出来たりするのかもしれません。
ソ連崩壊で独り勝ちとなったアメリカですが、力をつけてきた中国が「自国に都合のよい仕組み」に作り替えようと、アメリカに挑戦し始めてくるようになりました。
しかもそれは、アメリカの力の源である「海洋覇権」をわが物にしようとする行為を含んでいます。
その下準備も、尖閣諸島に代表される東シナ海獲得の騒動や南シナ海の領有権主張と人工島建設、そしてパキスタンとミャンマーを親中にすることによる中国内からのインド洋進出ルートの確保とインド洋に面する諸国への港湾建設へと進み、勢力圏確保に必要な兵站と通信設備の建設も着々と進んでいます。
最も、そのいくつかは、アメリカの妨害が入っているのですけど。
日本はやっと南シナ海に面する国々と軍事的な協力を始めたばかりで、国内では未だに「専守防衛」とか言っている状態。
ここでトランプ候補の言うようにアメリカに引かれたら、次にアジアの秩序を作るのは中国ということになってしまいます。
投稿: すぷー | 2016/05/12 22:34
>私たちは、自らの主観を対象化する作業が欠かせません。
物事を相対化するには知識がいります、それも膨大な量の。
歴史問題でも経済問題でも知識のある人間ほど、判断は慎重になりますね。むしろ知識がある故に、判断ができない、判断を留保するという態度が生まれてきます。
ウチの親父はそんな大知識のある人間ではありませんでしたが、それでも自分が(旧制)中学の時に起こった2・26事件の意味をずっと考えていましたね。
今の水準からみれば、撃った方も、撃たれた方も、どちらも立派に思える。天チャンの怒りはもっとも。しかし、一体、あの事件が成功していたらどうなっていたのか、少なくとも対米戦は避けられたのではないか、なんてね。
あの日の朝、父が登校すると全校生徒が講堂に集められ、登檀した校長の口からは「青年将校、青年将校と云うが…」に始まる事件への激越な弾劾の演説が始まったそうです。すっくと立ち上がる配属将校、それを「配属将校はなぜ立ち上がるのか、お座りなさい!」と咎める校長。
これが朝ドラか何かでしたらね、自由主義的な信念を貫く立派な校長と軍国主義の手先のような、つまらん配属将校との対決の場面になるのですが、しかし、現実はそうではないのです。
校長が立派なのはその通りなのですが、その配属将校の中佐も誠に人格者で、生徒が不祥事を起こすと、率先して貰い下げに行ってくれるような、慈愛心あふれる人物だったようです。後に、戦時中の部下の捕虜虐待の責任をとる形で、香港で刑死したそうですが。
中学生の親父たちはどちらが正しいのか、判断がつきませんでした。知識がないですからね、校長がえらく立派に思えるのも、軍人さんを贔屓する気持ちも、そんなもんはただの気分でしかない。
その後、当時の史料を読み、三島由紀夫の「英霊の聲」における「などてすめろぎは人となりたまいし」という呪詛の声まで聞くに及んで、一層判らなくなったというのが正直なところではないでしょうか。
私たちは歴史に対する大審問官ではない。答を書けば良いというものではありません。ましてや己れの人生を通しての答が、他人の答案のコピペでは余りに悲しい。
それに人間は、これは何かと考えている時が、一番賢く見えるものなのですよ。
人生で判断できないことは、まことに多いですし、また判断しない方が良いこともしばしばあります。
多少、私も長く生きて、やっとそういうことが判ってきました。
投稿: レッドバロン | 2016/05/13 22:13