久しぶりに左翼を語ろう
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左翼というのは「平等」とか「平和」という言葉が好きですね。
なぜか?と言うと、「平等」とか「平和」という言葉には、人間が求めてやまない理想が込められているからです。
「格差か平等か?」、あるいは「差別か平等か?」と問われれば、ほとんどの人が「平等」を選ぶでしょう。
「平和」も同じです。
「戦争か平和か?」と突きつけられれば、多くの人は「平和」を好みます。
だから左翼は、自らの支持層を拡大するために「平等」とか「平和」を叫ぶのです。
相手の心に響きやすいですから。
「格差か平等か?」「戦争か平和か?」、2択で迫るのも左翼の特徴です。
2択思考は決断が早くなりますから。
何より単純で洗脳しやすい。
「市民」という言葉も左翼は好きですね。
本来なら「国民」と言うべきですが、「国民」だと何となく「義務感」が生じる。
その点、「市民」には自由で進歩的なイメージと響きがあります。
だから左翼は「市民」を好んで使うのです。
「ベトナムに平和を!市民連合」だと自発的運動に聞こえますが、「ベトナムに平和を!国民連合」では官製運動と思われてしまう。
それと、最近では「環境」も左翼の好きな言葉になっています。
「環境」+「脱原発」、これが今もっとも旬な左翼好みの言葉です。
「放射能」という言葉には誰もが本能的に恐怖を覚えますから、実に効果的です「環境」+「脱原発」。
「平等」「平和」「市民」「環境」「脱原発」―ほんとうに気をつけましょう!皆さん!!!
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ところで、左翼の本質は反「平等」であり反「平和」です。
彼らが「平等」とか「平和」を叫ぶのは戦術に過ぎません。
そもそも左翼の根源(ルーツ)は啓蒙思想にあるのですが、この「啓蒙」という言葉自体が「蒙(もう)を啓(ひら)く」、つまり道理にくらい者や知識に乏しい者を教え導く、という意味です。
そこには「理性と知性を兼ね備えた知識人」と「それに導かれる暗愚な一般大衆」という差別的な思想と構造が存在するのです。
左翼の考え方は啓蒙思想よりさらに進化(?)していて、革命家としての主体形成を成し遂げた者=前衛によって社会変革(革命)は指導されるのです。
当然のことながら、そこには共産主義者(前衛)と一般大衆という厳然たる格差が存在します。
そもそも左翼というのは、「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである」と考えます。
この考え方は、フェミニスト(feminist)の「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(シモーヌ・ド・ボーヴォワール)という言葉に典型的に見て取れます。
この考え方は間違ってはいませんが一面的に過ぎる。
男と女は同権ですが同質ではありません。
したがって、そこには様々な差異があります。
この差異を「差別」と糾弾するなら、それこそ逆差別です。
左翼は人間を肯定的に捉えすぎです。
左翼によれば、人の本質は普遍的で、理性的であり、協働の能力と共有の意志を有しています。
なぜなら人間とは、常に自己と他者を意識し、他者との関係性の中で生きる存在、つまり類的存在であるからです。
そこでは、文化や民族やジェンダーの相違は問題にされません。
つまり人間はインターナショナルなのです。
また労働は、人間にとっては生きがいであり、生命活動が「生きることそのもの」である他の動物とは違う、と認識しています。
にもかかわらず、資本主義下における人間の労働は「個人の生存を維持する手段」に貶められている、だから階級闘争に勝利し、労働者を解放しなければならない、となるわけです。
要は闘争至上主義であり、「平和」主義ではないのです。
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私は、2006年7月13日の共産主義はなぜ破綻したのか?(1)で次のように書きました。
マルクスは、弱冠26歳で書いた「経済学・哲学手稿」の中で、次のように書いている。
「疎外された労働は、人間から(1)自然を疎外し、(2)自己自身を、人間に特有の活動的機能を、人間の生命活動を、疎外することによって、それは人間から“類”を疎外する。疎外された労働は、(3)人間の“類的存在”を、すなわち自然をも人間の精神的な“類的能力”をも、人間にとって疎遠な本質として、人間の個人的生存の手段としてしまう。疎外された労働は、人間からそれ自身の身体を、同様に人間の外にある自然を、また人間の精神的本質を、要するに人間の人間的本質を疎外する」
これは、それなりに有名な一節である。が、ちょっと難解で、理解できない方も多いと思う。私は次のように理解している。
人間は本来、社会的生き物である。個体としての存在ではなく、自分と同じ存在である他人との関わりの中での自分である。
つまり人間は“類的存在”なのである。
その“類”としての生活から、資本の下で賃労働に従事する人間は疎外されている。
賃労働によって、人間に特有の活動的機能である労働が、「個人の生存を維持する手段」に貶められている。
本来の人間は、自分の生命活動(生きること)を意欲や意識の対象にしており、社会的生き物=“類的存在”であろうとする。そこに自由や生きがいを感じるのであり、動物の生命活動が「生きることそのものである」のとは明らかに違う、と......が、私は思う。人間も動物であると。
まず「生きることそのもの」が「生命活動」の第一義的目的であり、それは本能の領域に存する。自分の「生命活動(生きること)」を意欲や意識の対象にできるのは、その第一義的目的が満たされた後の話である。
そして、世界中のすべての人々が、その第一義的目的を満たされる日は、未来永劫にわたってありえない。人間は弱い。常に「欲望」に負けそうになる。「理性」だけでは対応できない。
ここにおける人間は、「下部構造としての経済が云々」や「人間の社会的存在が云々」では理解できない。もっと奥深い、「人間存在」そのものが抱える根源的な問題なのではないか。
だから強制的規範としての法律がある。倫理や道徳がある。宗教心も、倫理や道徳を涵養する上で欠かすことができない。
そもそも、「人間存在」を「科学できる」と思うことそのものが、大きな間違いなのである。
また、2007年5月19日のつれづれなるままの自分史では以下のように書きました。
結局、私が左翼から解放されたのは事業を起こして倒産したことによる。その後の数々の修羅場。これが私の人間を見る目を変えた。社会の捉え方を変えた。
人間は理論では説明できない。人間社会は理論では解明できない。
人間の原点は欲望ではないか。その欲望と理性との葛藤が「生きる」ということではないか。
欲望に囚われた人間は人間であることを忘れる。理性に縛られた人間は人間存在を理解できない。
人間というのは複雑で、奥深くて、きれいなところとドロドロとしたところが併存している。理屈では割り切れない。
そんな人間が寄り集まって作る社会はもっと複雑だ。
そんな当たり前のことに気付いた時は、すでに30代も半ばを過ぎていた。
人間は理性的で、その人間性は普遍的、そして働くことを生きがいに感じ、協働と共有を志向する、とは思えないのです、私には。
一部の人たちを除いて。
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コメント
久しぶりにボーヴォワールの、その言葉聞きました。彼女の小説は翻訳されているのは全て読みました。懐かしいです。何故かサルトルには馴染めなかったのも思い出しました。カミュの方が好きで、カミュとサルトルは仲が悪かったと知って何故か納得したものでした。
投稿: はるかぜ | 2016/05/17 20:11
>そもそも左翼の根源(ルーツ)は啓蒙思想にあるのですが、この「啓蒙」という言葉自体が「蒙(もう)を啓(ひら)く」、つまり道理にくらい者や知識に乏しい者を教え導く、という意味です。
啓蒙思想について、呉智英さんが著書『サルの正義』のなかで「啓蒙の暴力」という興味深い事を言っています。
>人間は光と闇を同居させる複雑な存在である。闇の同居を認めない思考はなるほど明るい。しかしこの明るさは「啓蒙の暴力」を生む。啓蒙illuminationは、その原語の通り闇の存在を許さない。闇の絶滅を目指す。そして、啓蒙の暴力の結果、闇の不気味さとは違うのっぺりした明るい不気味さが現れる。北朝鮮の宣伝映画を見るときに感じる、あの不気味さがそれだ。まちがえてはいけない。逆ではないのだ。新興宗教の信徒たちの顔に浮かび、北朝鮮の善男善女たちの顔に浮かぶ、あの不気味な明るい笑顔は、啓蒙の欠如によるものではない。啓蒙の光に照らしだされた闇の欠如によるものだ。
・・・と。
それから
>また労働は、人間にとっては生きがいであり、生命活動が「生きることそのもの」である他の動物とは違う、と認識しています。
『新スタートレック』で描かれている24世紀の世界では「貨幣経済が廃止」されています。しかもその理由が「自分を高めるという哲学に基ずいて」というのだからあきれるしかありません。
『新スタートレック』では24世紀の世界を進歩した理想社会と描いていますが、こんなものを理想社会と考える連中がいまだに・・・しかもハリウッドにいると言うのが信じられません。
共産主義的なものにシンパシーを感じているものが意外な所に意外に多く、いまだに存在しているのが実情でしょう。
投稿: V-ger | 2016/05/17 21:33
V−ger様ご紹介の、「闇の不在」(呉智英氏)で、思い出した言葉があります。
学校の先輩のB氏が語っていた 「新宮殿には鬼がいない」との言葉です。B氏は長く歌会始めの講師をなさってました。と言うか、先祖代々そういうお家柄の方でしたので。
この言葉は、明るい啓蒙主義は宮中にまで及んでいることへの警句と、私は取りました。マルクス・レーニン主義はともかくも、薄められたサヨク思想は社会の各層に侵入し、蔓延しているのです、しばしば本人も気づかぬままに。
日本では「近代化」とは無条件で良い言葉になっています。そう言えば、タクシー近代化センターなんてのもありましたな。タクシー内の忘れ物を預かってくれる。(笑)
日本では保守を自認しながら、しかし近代化の問題点については無頓着という者が圧倒的に多いのです。正直なところ、そんなのは、保守とはお世辞にも言えませんわな。せいぜいが愛国心のある近代主義者、或いは愛国心のある自由主義者か社会主義者でしょう。それならそれで良いのですが。国想う心があるのは、人としてごく当たり前のことで、本来、保守の要諦でも何でもありません。
愛国心を忌避する変態左翼のお陰で、余計に日本語の概念の混乱に拍車が掛かっていると、私は見ております。
一度、すっきりする方法はないものでしょうか。
投稿: レッドバロン | 2016/05/17 23:42
左翼的連中は絶対善、反論し難い其の時代では絶対的善だとされる事象に便乗したがる傾向が有る。
差別問題に便乗。
地球温暖化問題に便乗。結局の所一部の勢力の利権を造り出すことに加担する、本質は地球温暖化問題では無く自治体のごみ処理費用、ゴミ処理場問題のラベルの貼り替え問題、三社会的勢力の利権問題と云う側面の方が強い問題である。
嫌煙権問題に便乗し喫煙を悪だと断罪し喫煙者を社会的に葬ったに等しい蛮行を行ったのもサヨク的な偏狭な思考思想が齎したものだと云えるだろう。
他
上記はさておき
サヨクの妄想の拠り所は性善説に有り。人間には欲望が無いとされなければ成り立たず。性善説で無ければ成り立たないのが左翼の理屈で有る。
投稿: ⅠRISING 燦々 | 2016/05/18 09:00
コミュニストは個性を認めませんね。
なぜなら、個性とは能力の差であり、差があると共産主義は成り立たないからです。
社会の構成員に得意分野や不得意分野があってはならないのです。
コミュニストが理想とする社会は人間性を認めません。
坂さんご指摘の通り、普遍的な人間性など存在しないから。
葛藤に満ちた人生、「普遍」は独り善がりに過ぎません。
愛や平和のカタチは千差万別。
普遍という言葉で一括りする考え方は傲慢に過ぎるでしょう。
投稿: やす | 2016/05/18 15:26
今の日本における、幅を利かせている左翼はまさに「変態」であり、総理や政権への「アンチ」でしょう。
今回の「女性死体遺棄事件」は、変態どもの「炎上」を引き起こしました。
ここに来て米兵による飲酒運転逮捕は、まさに弾薬庫に飛び火した事態になりかねません。
それにしても、変態どもは犠牲になった女性のことを心から考えているのではなく、自分たちが騒ぎたいがために彼女の死を利用しているように感じます。
そもそも、基地があったからその女性が事件に巻き込まれたのでしょうか。
実際、沖縄や各地の「抗議運動」はまるで「待ってました」と心から言わんばかりに始まってますし、使用されているプラカードは同一規格・同一内容に見えます。
そして何と言っても、各地で開かれる各種デモと同じような顔ぶれに感じます。
にも拘らず、マスコミはこれらの運動を「市民」による「平和」運動だと報じるんですよね。。。
東日本大震災では変態どもは、復興予算の用途や被災地の復興について政府や総理を吊し上げましたが、今回の熊本地震では原発が無いせいか何一つ騒ぎませんね。
変態どもは、「総理や政権について攻撃できる」ことが第一であり、被災者や被災地のことなどどうでも良いのではないか?と感じます。
投稿: 成田あいる | 2016/05/22 17:45