日の丸・君が代を否定するのは
死線を越えて戦った兵士たちに対する冒涜
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一昨日、父の思い出を書いたのはお彼岸だったからです。
お墓が九州福岡にあるので、なかなかお参りできなくてね。
20日は父の遺影に向かって手を合わせました。
ところで、20日のエントリでああいう記事を書いたのは、実際に戦地で死線を越えて戦った兵士たちの思いが今に伝わっていないと思ったからです。
私のこれまでの記憶では、戦争体験者が語る記憶は悲惨なものばかり、そんな気がします。
が、実際に最前線で敵と戦い、最後は武装解除で捕虜になった兵士たちの思いは「悲惨」ばかりではありません。
私の父は、シベリアでの抑留生活を「辛かった」とか「悲惨だった」などと一言も語りませんでした。
実際は、過酷そのものであったことは想像に難くありません。
しかし、そういう言葉はおくびにも出さない。
父は帝国陸軍軍人であったことに誇りを持っていましてね。
軍人時代に授与された勲五等の勲章は大事にしていました。
また、どうやって持ち帰ったのか、軍刀も床の間に置いていました。
父親たちは「戦友会」という親睦の会を何年かに1回、持ち回りで行っていましたが、父は亡くなるまでそれを欠席したことがありません。
一度、車で戦友会の会場まで送って行ったことがありますが、そこに集まっていた50名を超える方々は、皆さん堂々として貫禄がありましたよ。
そういう光景を見ていると、「悲惨」とか「残酷」というイメージがこびり付いている旧軍の姿が少し違って見えるんですよね。
もちろん戦争ですから「悲惨」も「残酷」もたくさんあったでしょうが、最前線の兵士たちはそれを当たり前のことだと思っていたように感じます。
だって、彼らは国を、国民を、そして家族を守るために戦っていたのですから誇りを抱くことはあっても懺悔する気持ちにはなれないでしょう。
戦争とは「敵を殺すこと」ですから。
私の父は正義感が強く、差別や理不尽が大嫌いな人でした。
戦地で部下が憲兵から理不尽な目に合わされたとき、その憲兵をぶん殴ったそうです。
憲兵隊と言えば当時は泣く子も黙る存在だったと聞いていましたから、すごいなあと思いましたが、父はそんなこと当然といった風でした。
また、地元の被差別部落の有力者が毎年、盆暮れに必ず贈答品を持って訪ねて来ていました。
不思議に思った私が母親に聞くと、部隊の中で父は差別的言動をいっさいせず、逆に可愛がったからだ(と、その方がおっしゃた)そうです。
戦争に負けて故郷に帰っても、上官と部下の絆が続く、私は父を誇らしく思ったものです。
シベリアには65万人もの日本軍将兵や満蒙開拓団員が抑留されました。
そのうち死者は、日本側の調査だけでも約5万3千人に上ります。
また、ソ連崩壊後の資料公開によって明らかになった事実によれば、終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいました。
このうち約107万人がシベリアやソ連各地に送られ、強制労働させられたと見られています。
米国の研究者ウイリアム・F.ニンモの著書「検証-シベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したとされています。
まさに戦争犯罪そのもの、約34万人の方々にはかける言葉も見つかりません。
考えてみれば、私の父も、その戦友の方々も約34万人のうちの一人になっていたかも知れないんですよね。
もしそうだったら今の私は存在しないわけで、亡くなられた方々には申し訳ないですが、私は運命の幸運と残酷さをつくづく感じます。
で、生き残った父は、元帝国陸軍軍人であったことに誇りを抱きながらその後を生き抜いた。
心の深層までは解りませんが、戦死した仲間、抑留中に命を落とした仲間を背中にしょって生きていたのかもしれません。
戦後の父は保守ではありませんでした。
自らは中道がいい、と言っていました。
いわゆる自民党のハト派ですね。
それでも祝祭日には必ず日の丸を玄関に掲げておりました。
政治のことはほとんど話しませんでしたけどね、お互い。
ただ、反共主義者でしたが共産党よりも社会党を嫌っていました。
節操がないと。
今日、私が再び長々と父のことを書いたのは、父を含め実際に戦地で死線を越えて戦った兵士たちの心に思いを致したからです。
小学生のころに見た「南の島に雪が降る」というNHKドラマを思い出しましたね。
ドラマの舞台は戦争末期、飢えとマラリアに苦しむニューギニアの首都マノクワリ。
そこでは、仲間の慰安と士気高揚のために兵士自身によって劇団が作られました。
その物語が「南の島に雪が降る」です。
私は、死線から生還した兵士たちの大半は、戦争を「悲惨」とか「残酷」とか捉えていなかったと思います。
父の口から出てくる抑留中の話も、作曲家の吉田正さん(国民栄誉賞)が同じ収容所にいて、彼の歌で癒されたというエピソードがもっぱらでした。
確かに実際は「悲惨」と「残酷」が満ち満ちていたことでしょう。
が、それでも彼らはその中で必死に戦い、そして懸命に生きたのです。
私は軍国主義を批判し、旧軍を貶めるのは、最前線に立たなかった者や、実際の戦争を知らない戦後生まれのインテリたちだと思います。
もちろん当時の国家指導者たちは批判されてもやむを得ないでしょう。
私の父も批判的でしたし。
が、その批判と、戦前を否定し日本と日本国民を貶める言動は似て非なるものです。
政権を批判することと国家を否定することはまったく違うと言うことです。
日の丸・君が代を軍国主義の象徴と批判し、それを否定するなんて戦地で死線を越えて戦った兵士たちに対する冒涜です。
私は絶対に許しません。
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【追記」
このエントリは2012/03/22の再掲です。
異国の丘
作詞:増田 幸治
補詞:佐伯 孝夫
作曲:吉田 正
一、
今日も暮れゆく異国の丘に
友よ辛かろ切なかろ
我慢だ待っていろ嵐が過ぎりゃ
帰る日も来る春も来る
二、
今日も更けゆく異国の丘に
夢も寒かろ冷たかろ
泣いて笑うて歌って耐えりゃ
望む日が来る朝が来る
三、
今日も昨日も異国の丘に
重い雪空日がうすい
倒れちゃならない祖国の土に
たどりつくまでその日まで
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コメント
いい記事です。私も内容に全く賛同です。
ただ。今の人々にはこの内容が素直に賛同できないのでしょう。何故かわかりませんが。(日教組のせいだという人もいますが)
実際に体験した人々は、言っても理解されないという、(絶望か諦めの)中で、黙って 戦後の日々の生を全うしていったのだと思います。
もう体験した人は殆ど生きていません。
結局過去の(正しい)体験を有していない日本は一体どこへ行くのでしょう。
投稿: sirouto | 2016/06/02 17:12
昔の正しいことが否定され続け 左翼の言葉が、大きくなっている❗もう普通の日本人は我慢の限界に来ていると思う 私もその一人だが、実際に私の祖父も戦地で戦死したと親から聞いたことがあります。
ただ どういうところで戦い戦死したかは定かでない いま思うことはいろいろな サイトでの真実が拡散していることは大変良いことですが、これを全国に知らしめるのは並大抵ことでは無いでしょうね もう少し政府には日本国の代表としての誇りを持っていて欲しいと思いますね 今すぐにやらなければ手遅れ間近です。じいちゃんの名誉のために
投稿: 天照大御神 | 2016/06/02 20:09
小生のジイサン(鬼籍)も抑留帰還組でした。この祖父のすごい所は、まるで敗軍の兵とは思えない士気を帰還後も維持し続け、現状に悲憤慷慨していたことですね。中でも小生を含め孫世代に戦場での話(抑留後はソ連の工作員みたいな立場になった兵隊も居たとかも聞きました)を面白おかしく話してくれたのが印象的でした。この点が、戦後は口をつぐんで話さないことが多いと聞く戦中世代の人達とは決定的に違っていました。この祖父が居たからこそ、小生は皇軍に悪い印象を持ったことはガキの頃から全く有りません。でも父は嫌がっていましたね、祖父の武勇伝?を聞くのを。
投稿: 素浪人 | 2016/06/02 21:52
最高裁が狂っている
大正世代は戦争を一生懸命戦い、戦後復興を一生懸命にしたと言われています。
その生き残って働いた人たちの後ろには戦地で日の丸を背負って死んでいった多数の戦友がいるし、内地で死んでいった親族がいます。
戦後、米国、中国、韓国、ソ連などが破れた日本という弱者に一方的な仕打ちをしました。
そんな只の戦勝国にそれを機会と見たのか、踊らされたのか、率先して延命を図ろうとしたのか日本人の一部が和奸とでもいうのも常に存在します。
ところで今回最高裁が日の丸に関しての裁判で判断を下しました。
そこでまたもや出て来るのが左翼です。
戦後レッドパージまでの間日本の左翼が潜り込んだ所は様々有ります。
大学が重要な拠点でしたが、そこからの広がりは現在に至るまで政党、メディア、その他多数の方面に渡ります。
その一つが法曹界ですが、その一方が弁護士(所謂人権弁護士)という存在、そして今回の問題の一方、裁判官というものです。
日の丸を尊重するという当たり前の事の出来ない戦後の左翼司法界、狂っているという言葉以外ありません。
これでは日教組も最高裁も同じ組織と言っても過言のようには思えないということです。
投稿: Pin | 2016/06/02 22:40
こんにちは、日弁連、日教組、自治労など同じ穴のムジナでしょうか。私には裏に大きな団体がいるような気がするんですが。
投稿: | 2016/06/03 00:55
ちょっと遅いですが感動したので投稿します。
私の父は昨年95歳で永眠しました。従軍した世代です。父はほんとうは硫黄島に行くはずでしたが、直前に変更され八丈島に派遣されました。もし父が硫黄島に行っていたら今の私は多分存在しなかったでしょう。父は大学を繰り上げ卒業させられ将校として戦地に赴きました。父も正義感が強かったようです。子供のころ私は父の戦時体験を興味深く楽しんで聞いていました。
今私は皇居を毎日ランニングしていますが、その前に必ず靖国に参拝しています。父の代わりに硫黄島で戦死した人が必ずいたはずです。私の場合は直接的ですが、今の日本人は全員は英霊に恩義があるはずです。その方たちを冒涜するのは許せません。ブログ主様の今回のお話には深く共感しました。偶然過去の記事を読んで遅れましたが書き込みました
投稿: 八丈島 | 2016/06/22 22:37