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2016/06/03

俺たちに明日はある


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以下は、2007/04/24(つまり9年前)に書いたBlogのEntryです。↓

今日は徒然に書きたいことを書こう。

私は過去が過去なだけに無神論者である。
神様なんて、これぽっちも信じていない。
が、宗教は否定しない。

こういう気持になったのは40歳を超えてからだ。
別に、マルクスが宗教を全否定していたわけではない、ということを知ったからではない。
大自然に対する畏怖の念。
祖先に対する畏敬の念。
目に見えない世界。
想像を絶する日々の出来事。
これらが、科学では計りしれない理屈抜きの観念を私にもたらした。

それから、倒産と億単位の借金を30代で背負う破目になったことも大きく影響している。
人間の“業”とでも言うのだろうか。
人の欲望は際限がない。
それは不条理そのものである。

ライオンは満腹の時に獲物を襲わない。
同類を殺すこともない。
が、人間は満腹を知らない。
平気で同類(人間)を殺す。

マルクスは「意識が人間の存在を決定するのではなく、人間の社会的存在が意識を決定する」と看破した。
若いころの私は、これを“真理”だと思った。
が、人間存在を決定するのは本能ではないか?
社会的存在にかかわりなく邪悪な意識は存在する。
それが人間ではないか?
私は、そう思うようになった。

「わかっちゃいるけどやめられねえ」
この親鸞の苦悩を私は50歳が近くなって初めて実感した。

50代も半ばをすぎて、親鸞に傾倒するようになったのはこのためだ。
別に祖先が浄土真宗だったからではない。

そう言えば、この間、浄土真宗の僧侶から感心された。
なんで、そんなに親鸞聖人に詳しいのか?
と...

悩むべきだ、人間は。
落ち込む時だっていっぱいある。
が、きっと未来はある。
あきらめないでほしい。
自分を捨てるのは、もっとも卑怯な行為だと思う。
逃げるな!闘え!!!

俺たちは生きるのが本能だ!!!

親鸞の教えは“革命思想”だった。
だから弾圧されたが、一向一揆という革命的闘いも実践した。
それもこれも、親鸞の教えが“人間そのもの”だったからだ。

19720513_meidaistreet
1972年5月13日の明大通り。私は、この中にいました。


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【追記」
このエントリは2007/04/24の再掲です。

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コメント

ひとつだけ。
ライオンは結構同類殺しをやりますし、満腹であっても楽に取れるなら獲物を狩ります
部族内のメスは血族関係にあり、個体数が少ないから部族同士の接触がまれである、したがってなかなか殺し合いまではお目にかかれないってだけです
すべての哺乳類は一定の生活密度を超えたら同類殺しに走るでしょう
先生の話の基本を否定するものではないことはわかってもらえると思います

投稿: | 2016/06/04 08:23

少し矛盾した言い方になるかと思いますが、

特に宗教を信ずるわけではないが、宗教心は必要と思う。
特定の神や仏への帰依はないが、“Something Great”の存在をどこかに感じている。

私の状態を表した言葉です。

かくも曖昧で不安定である揺らぎそのものが自分のように感じます。

このような答えは出てこない自問自答のなかに精神の張りを感じるときがあります。
哲学は苦手ですが哲学的思考には惹かれます。


単純に「何か」を信じられる人を見て、時に「単純だなあ」とやや侮蔑の念を含んで思いながらも「羨ましく」感じることもあります。

この歳(年齢非公表ですが・・・)になって、省察の機会を与えてくれるこのブログに感謝します。

投稿: Ethos | 2016/06/04 09:35

若い頃読んだフランスのカトリック作家のリラダンが書いた「残酷物語」の中に、忘れがたい一編があります。

若いユグノー教徒(プロテスタント)の士官が、迫りくる大迫害から逃れるべく、弾圧の主導者たるカトリック系の王妃の暗殺を図ります。王妃の部屋に忍び込み、剣を突きつけると、すっかり観念した王妃は、お前もキリスト教徒なら、私が最後の祈りを神に捧げることを許せと言う。士官は当然にそれを許可するのですが、それで神に祈りだした彼女は、己の救済の為には祈らないのです。ただひたすら、全身全霊を上げて、大なる過ちを犯そうとするその青年士官の魂の救いの為に祈りを捧げる。それを聞いていた士官はまったく殺意を喪失してしまうのでした。

それで「王妃様、私はどうしたらいいのでしょう?」と尋ねる彼に、王妃は限りなく優しく慈悲深い微笑みを浮かべながら、このように答えるのです。

「さあ行きなさい、我が子よ、断頭台へ」

これは坂様にしたら「非人間的」と思われるでしょうか。しかし、より人間的で、融通無碍に思われる仏教が、(極端なことを言えば無為徒食するばかりで)何物も生まず、人間に対して冷酷無慈悲なまでに論理的であろうとしたキリスト教が近代社会を開いた。私はその不思議さを、ずっと考え続けています。

投稿: レッドバロン | 2016/06/04 19:41

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