全共闘はなぜ消滅したのか?
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永田洋子が死にました。
事実として見れば、老年期に差しかかった女性死刑囚(65歳)の病死に過ぎません。
でも、これがメディアでもネットでも話題になる。
事件が発覚して39年、死刑が確定して18年。
普通なら、新聞記事の片隅にも載らないでしょう。
やはり、連合赤軍(連赤)事件は風化していなかった。
それだけ社会的影響が大きかった事件だった、ということでしょう。
治安事件として、
政治運動として、
思想問題として、
その歴史的なインパクトは無視できない。
私は、この事件をきっかけに、日本の新左翼運動は衰退に向かった、特に学生運動は終焉を迎えたと思っています。
1980年代後半の共産圏崩壊は、それをダメ押ししたに過ぎません。
それほど、この連赤事件の持つ歴史的意味は大きく、深いのです。
1960年代から70年代初頭にかけての学生運動、特に全共闘運動は大学生を中心に、労働者や高校生、そして知識人にまで大きく影響力を広げました。
特に大学生に対する影響力は大きく、1969年までは、主要な大学では、そのシンパまでを含めれば、ほぼ多数派だったと思います。
ゲバ棒に火焔瓶という過激な武装闘争はともかく、反戦・反安保のデモに参加した学生は、当時の大学生の3分の1に及んだと思います。
デモに参加しなくても、心情的には新左翼支持という学生も多くいました。
が、1972年の連赤事件を境に、全共闘はほぼ消滅、政治的デモに参加する学生も激減しました。
そして、1970年代も後半になると、新左翼の影響力はほとんどなくなってしまった。
つまり、全国の大学を席巻した全共闘運動、それを主導した新左翼は、政治的、社会的に極少派になってしまったのです。
あれだけの盛り上がりを見せた全共闘運動が、ぷっつりと途絶え、その後の学生たちにほとんど、いやまったく影響力を残せなかったのはなぜか?
その始まりは、1969年のブント赤軍派の誕生にあると思います。
武装蜂起を目指した大菩薩峠事件、「M作戦」と名づけられた連続銀行強盗、そして日航機ハイジャック、これらの事件に接して、多くの学生が、何かが違うと思い始めたのは間違いありません。
それから、内ゲバの萌芽である革マル派を軸としたセクト(党派)間の暴力的主導権争い。
これも、無党派(ノンセクト)の活動家にとっては、耐えられない事態だったでしょう。
結果、全共闘運動は崩壊に向かい、新左翼は大衆的支持を喪失してしまいました。
で、追い詰められた過激派の一部が唯武器主義に走り、連赤事件を引き起こしたのです。
また、生き残ったカルト3派(革マル派・中核派・革労協)は、大学キャンパスを暴力的に支配、そして個人テロを実行、最後は軍事組織まで作りあげて敵対党派に対する殲滅戦を展開しました。
ここにおいて、新左翼運動は、その歴史的使命を終えたのです。
そして、後世にまったく影響力を残せなかった。
「別個に起(た)って共に撃つ」
これが全共闘運動でした。
つまり、思想的背景や信条が違っても、反権力・反体制で連帯し共に闘う、これが基本でした。
で、この運動を支えた中心的党派は我がブントでした。
ブントは、吉本隆明に影響を受けた者たちや、廣松渉に依拠する者たち、赤軍派のような武闘第一主義の集団、そして各地の(元)独立ブントの連合党、悪く言えば「寄せ集め」でした。
だから、多様な思想的背景を持つ者たちの共闘組織である全共闘と重なり合ったのです。
が、赤軍派が分派(分裂)すると、ブントは一気に弱体化、その後は四分五裂、と言うより「八分十裂」。
そして勢力を伸ばしたのが中核派と革労協。
革マル派は最初からカルトだったので、全共闘運動の衰退やブントの解体に関係なく一定の勢力を維持していました。
ブントが力をなくし、中核派と革労協が新左翼運動の主導権を握る、一方でカルト革マルの暴力的テロが強まっていく、
―そういう状況の中で、闘争ではなく、党派の勢力争いに重点が移っていく、
こうして全共闘運動そのものが存在基盤をなくしていくのです。
そして、連赤事件が全共闘にトドメを刺しました。
当時、なぜ新左翼が影響力を拡大し、全共闘運動が空前の盛り上がりを見せたのか?
それは、ある意味、必然でした。
まずヴェトナム戦争。
強者が弱者を徹底的に攻撃する。
近代兵器を駆使する強者、貧弱な武器で、民衆の海の中で対抗する弱者、
若者が、弱者に心理的に加担するのは当然でした。
そして、社会や大学に依然として残る古い因習、今とは比較にならない差別や格差。
世界の先進国(フランス、米国、ドイツ、イタリアなど)で起きた学生による反乱も大きく影響しました。
何より、まだ共産主義思想が輝きを放っていた。
今のようなネット社会と違って情報が乏しかったのです。
スターリンの大粛清も、文革の暴虐も十分に認知されていませんでした。
だから若者たちは反体制運動に希望を見出したのです。
が、連赤事件と、それに続く党派間の血で血を洗う抗争(内ゲバ)をきっかけに、多くの左翼学生が共産主義思想に疑問を持つようになり、運動から離脱しました。
また、日本は、高度成長が続き、世の中が年々豊かになっていく、格差が縮小していく、一方で中国の貧しさ、北朝鮮の貧しさが明らかになっていく、
―新左翼に共鳴した若者が離反していく環境が急速に拡大していくわけです。
連赤事件や内ゲバが、共産主義思想の本質的問題であると気づいた学生は少なかったと思います。
が、ほとんどの活動家が「何かがおかしい」と感じたはずです。
こんな思想、こんな運動、付き合ってられないと……
新左翼や全共闘運動が衰退したのは、赤旗を掲げ、インターナショナルを歌ったことが原因です。
革命を空想し、前衛党を空想し、まだ見ぬ理想社会を空想し、現実的には破壊すること以外の具体性は何も持ち合わせていない、
抽象的思考、それも極めて一面的な思考に支配され、具体的な人間、具体的な社会を認識できない、
―これが連赤事件や血塗られた内ゲバを生み出した根本的原因です。
共産主義思想は科学に裏付けられた真理である、歴史には法則がある、その行き先は共産主義社会である、
―こんな思想を信じたから悲劇が繰り返されたのです。
それは、クメール・ルージュによるカンボジア大虐殺に如実に示されています。
ところで、後世にまったく影響力を残せなかった全共闘運動と新左翼ですが、別の意味で影響力を残しました。
暴力と殺し合いには付いていけなかったが、それでも当時の思想を真摯に総括せず、己を正当化した連中。
そういうヤツらが法曹界や教育界、そしてメディアにけっこう就職しました。
だから、信じられないような裁判官や弁護士、反日教師、反日ジャーナリストが跋扈しているのです。
が、彼らも、もう60~65歳と老年期を迎えています。
影響力は格段に減退しています。
まず、若い教師に「反日」はほとんどいません。
また、みなさんは「マスゴミ」とか「アカヒ新聞」と軽蔑しますが、ここ1~2年のメディアの報道姿勢は、私がブログを始めた頃とは随分違ってきています。
それが顕著に表れているのが対中国の報道内容です。
まだまだ偏向していますが、変化の兆しは感じ取れます。
何といっても、全共闘世代のしんがりも来年の3月で定年退職ですから。
もちろん、根津公子教諭の支援者を見れば分かりますが、「反日」勢力はまだまだ根強く生き残っています。
これからも批判し、糾弾の声をあげ続けるのは当然です。
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【追記】
主な新左翼党派の一覧。
共産党除名組
共産同(ブント)戦旗派・叛旗派・情況派・赤軍派etc.
共産同マル戦派
構造改革派(フロント)
トロツキスト亜流
革共同革マル派
革共同中核派
社会党除名組
社青同解放派≒革労協
毛沢東派
共産同ML派
共産党革命左派神奈川県委(京浜安保共闘)
トロツキスト
第四インターナショナル日本支部(四トロ)
連合赤軍(連赤)は、赤軍派の一部(森恒夫ほか)と京浜安保共闘(永田洋子ほか)が合体したものです。
なお、カルト革マル派は全共闘から排除されていました。
【追記2】
このエントリは2011/02/08の再掲です。
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コメント
流れが分かり易く記されています。
もう少し雑に言うと70年前後はベトナム戦争があり、若者達の正義感を煽り、共産主義国例えば中国などがブラックボックスであっただけに何か新しい希望を与える世界を作っているのではないかと肯定的に見られたことでしょう。
それだけに日本社会全体、多数が新左翼にシンパシーを感じていたというものと言えるでしょう。
その後ボックスが開き、文革などの大量殺戮が実態であったというオチでした。
その後、運動の衰退と同期し、高度経済成長のバブル期を迎え若者の関心はまったく違う所に向かいました。
そのでのIFはそのブラックボックスがそのままであったのならさあどうなっていたのかというものです。
投稿: Pin | 2016/07/16 21:14