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2016/08/07

今日は気まぐれに親父との思い出を語ります。


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私の父親が旧陸軍の将校だったこと。
敗戦後、シベリアに2年余り抑留されたことは何度か書きました。
その父親、戦争のことは多くは語りませんでしたが、たまに印象に残る言葉を残しています。

一つは日本が戦争に負けた理由。
「科学力と生産力が違いすぎた。圧倒的物量を前にした時、精神論だけでは勝てない」
父親は戦後、「これからは自動車の時代だ」と強く思ったそうです。

もう一つ父親が敗戦の理由に挙げたのが旧陸軍の視野の狭さ。
「海軍は外国に行くことも多く、米国を知っていたが、陸軍指導部は米国と日本の国力の差を知らなすぎた」
つまり「井の中の蛙」状態だった陸軍の認識不足が日本を対米開戦に導き、惨めな敗北をもたらしたと父親は言うわけです。

父親は二・二六事件を引き起こした陸軍皇道派に対しても厳しかったですね。
「連中は統制派の悪口を言うばかりで、自分たちならこうするという具体論がまったくなかった」
父親が将校になった時、既に皇道派そのものは失墜していましたが、それでも陸軍内部にはまだ展望なき強硬論が蔓延していたそうです。
ただ、本人もその一翼を担いでいたわけで、反省している風でしたが。

それから、戦後の米ソ対立については、「ソ連が米国に勝てるわけがない」と断言していました。
ソ連軍の捕虜になった時、真っ先に奪われたのは腕時計だったそうです。
日本軍の将校は腕時計は当たり前。
ところがソ連兵は将校でさえそれを持っていない。
しかも食糧も満足ではない。
シベリア抑留で日本兵捕虜が多く命を落としましたが、「ソ連兵自身の食糧が欠乏状態だったのだから仕方がない面もあった」と語っていました。
その時、ソ連軍内部のユダヤ人差別の酷さについても聞かされました。

国民党軍の残虐さに触れた言葉も忘れられません。
援軍の到着が遅れたため父親の部隊は一時退却したそうです。
で、援軍が合流して国民党軍を撃破した後に見たのは信じがたい光景でした。
負傷して退却の遅れた日本兵が山積み状態にされ、生きたまま油をかけられ、焼き殺されていたのです。
藪に潜んでその様子を見ていた兵士は、その後、精神がおかしくなったと言っていました。

それから八路軍(紅軍)の兵士が日本軍に投降してきたときは、びっくり仰天したそうです。
理由が、「国民党軍に捕まるよりは日本軍の方がまだまし」と言うのです。
つまり、国民党軍だと残虐な拷問を加えられたうえで虐殺されるが、日本軍はそこまで酷くはない。
父親は、国民党軍がいかに残虐であるかをその時、痛感したのでした。
で、「生きて虜囚の辱を受けず」を反芻するわけです。

こういう話は、私が左翼学生運動に身を投じたころ、年に何回か食事を共にした時に問わず語りに聞かされました。
そして、毎度のごとく言われた言葉が以下です。
「人間は体力が第一だ。今のお前は、シベリアに抑留されたら1か月も持たない」

父親は、
視野の狭い人間は道を誤る―
独りよがりで他人を批判してばかりいる人間には未来がない―
ソ連は戦争の勝者のように言われるが、その実態は日本よりずっと惨めだった―
社会主義は平等と言うがソ連内部のユダヤ人差別は酷いもんだ―
加害者=日本軍、被害者=国民党軍という構図は一面的すぎる―
どんな世でも体力がなければ生きていけない(健康が第一)―
というようなことを私に婉曲に伝えたかったのだと思います。

父親が亡くなって既に25年。
親不孝ばかりで、申し訳なかったという思いしか残っておりません。
その私がもう還暦。
父親に恥ずかしくないような晩年を築き上げたいと思います。

Shiberia


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【追記】
このエントリは2012/03/20の再掲です。

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コメント

弱気に出れば、敵は強気で傍若無人です、もう頭の悪いお花畑に付き合う必要はありません、まず賠償請求をすべきです、場合には、国際司法裁判所にとりあえず訴え、ただ強制力がないですが、まずできる事からはじめ、後は外交圧力しかないでしょう、いい加減中共へのODAなど止めて、ロシアにも、賠償請求及び外交圧力しかありません。
話はそれからです、話せばわかるなどお花畑は、通用しません、堂々と闘うべきです。

投稿: 政界ウォッチャー三十年 | 2016/08/08 09:20

年代の違いということが、感性に与える影響は馬鹿にできないと思います。
私も父を通じて日本の将兵が人として誇るべき先輩だったことを知っています。
我々の上や下の年代にはそれを実感できない人がいることでしょう。
虚構のモンスターとしての日本兵しか知りようのない人々も確実にいます。
不幸にして戦死された方の子供は親の姿を知りません。
親が出兵していない者はもぐりこんだ朝鮮人を筆頭に国内に多数いるでしょう。
ある意味で、我々は貴重な存在ではないでしょうか。
小池さんも青山さんも同年代ですね。
学生時代に外国に行く自由が得られた年代。
団塊の群れから抜けて個人の生き方を意識した年代。
親分子分の世界を好まない自己責任の年代。
家制度が消え、親と子の人としての関係が再構築された年代。
共通性を感じるがゆえに、なおさら応援したくなります。

投稿: ポッと出 | 2016/08/08 10:29

Venonaコードの解析以来、明らかになってきた大東亜戦争の実際の経緯は、従来考えられてきた東京裁判史観をベースにした戦史とは、まるで異なるものだった。

日本はハメられたのですよ。今、くどくどと具体的な事を書いている余裕はないから、一言だけ。戦前の無声映画に「雄呂血」というのがあります。そのイントロの部分は、大東亜戦争の見直しに重要なヒントを与えてくれるものと確信します。

世人、無頼漢(ならずもの)と称する者、必ずしも真の無頼漢のみに非(あら)ず
善良高潔なる人格者と称せらるゝ者、必ずしも真の善人のみに非ず
表面善事の仮面を被り裏面に奸悪を行う大偽善者、亦(また)、我らの世界に数多く生息する事を知れ

投稿: 喪黒福造 | 2016/08/08 15:56

いつも貴重な情報を掲載いただきありがとうございます。お父君のお話は、日本人の歴史認識を鍛えてくれるとても大切な内容であり教訓ですね。八路軍兵士の投降の話など特にビックリしました。これからもこちらのブログで学んでいきたいと思います。

投稿: 三鷹のアラフォー | 2016/08/08 16:35

血みどろのケンカをしている二人がいるとする。この二人は勝つことに夢中で、ケンカがどのようにして始まり、今、二人のケンカがどのように戦われ、どのような結末を迎え、周囲に影響を与えるかは分からない。時間が経ち、多くの証拠・傍証が加わり、様々な角度から検討が加えられて、初めて全容が分かる。

ここ数年のうちに浮かび上がってきた大東亜戦争の真相は、概ね次のとおり。話しは1936年(昭和11)11月の日独防共協定締結から始まる。

1)日独防共協定が締結されたことで、ソ連は西からドイツ、東から日本(満州)に挟まれる二正面作戦を強いられる形となり、その存在は風前の灯となった。日本はシベリア出兵の折、イルクーツクまで進撃したことがあり、ドイツがやがてソ連領に進軍してくることは様々な情報から明らかであった。事実、ナチス・ドイツによるバルバロッサ作戦まで、あと5年の時間しか残されていなかった。

2)日独防共協定が締結された翌月に西安事件が起きる。西安事件で蔣介石が何を約束させられたかは、なお不明であるが、その後の国民党軍の動きをみれば、日本軍に絶えず攻撃を仕掛け、日本の国力を支那大陸に釘付けにするためであったことは、想像に難くない。(ナポレオン戦争の際、ロシアはフランス軍を自国の広大な領土に引き込み、冬将軍で倒したことがあり、日本軍を支那に釘付けにするという戦略発想は、ロシア人にとっては自然に生まれるものである。)西安事件以後、国民党軍には共産党シンパが大量に入り込み、蔣介石自身、国民党の統制力を失っていたかのようである。

3)南京陥落(1937)から真珠湾攻撃(1941)までの支那大陸は、a) ソ連の支援を受ける毛沢東の共産党政権、b)日本の支援を受ける汪兆銘の南京政府、c)英米の支援を受ける重慶政権、の三つ巴の内戦状態だった。アメリカのフライイング・タイガース部隊と日本の戦闘機は支那大陸で度々空中戦を展開しており、日米戦争は真珠湾攻撃より前に既に始まっていた。

4)真珠湾攻撃の直前、日本は蔣介石に肩入れするアメリカから鉄・アルミ等の禁輸措置を受けており、石油の禁輸も受けるにいたって窮地に追い込まれた。アルミは航空機の材料として欠かせず、石油がなければ軍艦も戦闘機も動かない。当然、南方の石油資源を軍事力で得ることが視野に入ってくるが、その場合はシンガポールとマレー半島を掌中に持つ英国、インドネシアを植民地に持つオランダとの衝突が避けられない。

5)真珠湾攻撃の直前、アメリカはフィリピンに爆撃機B17の基地を持ち、ハワイに海軍艦艇を集結させ、軍事的にも日本の直接の脅威になっていた。キューバ危機に際して、アメリカ全土がソ連製ミサイルの射程内に入ったことで、ケネディ政権が第三次世界大戦を決意したことを考えれば、日本がこのときに対米開戦を決意したとしても不当とは云えない。

6)それでも、日本は対米交渉を通じて、様々に妥協の道を探っていた。日本が対英米蘭戦争を決意した転機がハル・ノートであることは良く知られている。重慶政府を支那大陸唯一の正当な政権であると認め、支那から撤兵せよ、という要求事項のあるハル・ノートを突きつけられなければ、日本の陸海軍も内閣も、まだなお開戦をためらい、妥協の余地を探っていたはずだという見解は、戦後、瀬島龍三をはじめとする当時の関係者の一致するところである。

7)ハル・ノートの原案の作成者は、フランクリン・ルーズベルト政権のもとで財務次官補を勤めたハリー・デクスター・ホワイトという人物であり、ソ連のスパイであった。ホワイトに対するソ連の作戦は、日米を戦わせて日本の海軍力を葬ることであり、Operation Snow(雪は白いにかけている)と呼ばれた。ホワイトの他にもルーズベルト政権には多数のソ連のスパイが潜り込んでおり、コミンテルンからアメリカにおけるソ連のスパイへの指令は東西冷戦の初期、Venona Projectと呼ばれ、CIAのもとで暗号の解析が進められた。

8)アメリカが日本を破壊してしまったため、満州はソ連の手におち、万里の長城以南の支那正州は毛沢東の手に落ちた。その結果は、ただちに朝鮮戦争となって丸腰状態の日本を脅かした。戦前の日本が置かれていた立場をようやく理解したマッカーサーは、日本にあった四個師団を朝鮮半島に送り、事実上の米中戦争を戦うことになり、三万七千人の米兵を戦死させることになった。なお、毛沢東が朝鮮戦争に投入した「中国志願軍」は投降した旧国民党軍が主体であり、毛沢東にすれば、潜在的な敵を優勢な米軍の火力で「処分」したに過ぎない。これを中国の言葉で「借刀殺人」という。

9)結果から見れば、満州・支那正州をスターリンと毛沢東の手に渡してしまったアメリカは朝鮮戦争を戦わざるを得なくなり、政略的には敗れたと見るべきである。よって、フランクリン・ルーズベルト大統領、コーデル・ハル国務長官、ヘンリー・スチムソン国防長官の「反日戦争狂三羽カラス」ではなく、アメリカにもっとマトモな政権が存在し、日本の立場を理解していれば、朝鮮・満州・蒙古に築かれていた「防共回廊」は有効に機能し、ソ連から延安に軍事援助するルートは遮断され、毛沢東が統一支那の国家主席として出現する余地はなかった。毛沢東の出現は支那民衆にとっても、このうえない災厄でもあった。

10)第二次大戦の真の勝者は、東アジアに限ってみればスターリンのソ連であり、日本とアメリカは共に負組みである。

投稿: moguro fukuzo | 2016/08/12 12:32

私が昭和大戦の再学習・再検証をしようと思い立ったのは、3年ぐらい前でしょうか。

2012年9月、尖閣の国有化に端を発する支那の反日暴動を見て、自分のこれまでの支那に対する見方が根本的に誤っていたことを痛感した私は、黄文雄・石平・宮崎正弘・宮脇淳子といった支那ウォッチャーが書いた本を片っ端から読み漁っていました。

書名は忘れましたが、黄文雄氏と石平氏の対談本のなかで、次の一文に目が釘付けになりました。

・・・三光作戦というが、日本語の「光」には明かりの意味しかないのに、中国語の「光」には空っぽにするという意味もある。三光作戦という言葉は中国語ではないのか・・・

ハッと思った私は、児島襄(こじま・のぼる)の日中戦争5巻のなかに「全面清光」という小題があったことを思い出し、当該項を参照してみました。

「全面清光」は、蔣介石の北伐軍が上海で行った共産党員殲滅作戦、いわゆる四・一二クーデターを扱った項のことでした。

「騙された!」と率直に感じました。

児島襄は、1970年代後半から1980年代にかけて一世を風靡した戦史作家であり、その頃、私は大学生からゼネコンに就職して新米社員だった時代に当たっていて、歴史に非常に興味を持っていた私は、この人の本をずいぶんと読み漁ったものでした。

もう一つ、私が当時、読み漁った歴史本は、中公バックスの中の世界の歴史シリーズや日本の歴史シリーズです。これは、今は文庫本ですが当時は単行本であり、歴史の入門書としては最も詳しく各項を記述している本の一つとみなされていました。

いわゆる「三光作戦」(皆焼け、皆殺せ、皆奪え)は中公バックスの中の日本の歴史シリーズだけでなく、当時、出版されていた多くの歴史書に、日本軍がそうした作戦を行ったと書かれていましたし、中学校以来、学校の先生も、そのように教えていたはずです。

しかし、今、分かっていることとして、中央公論社は一時、マスクス経済学に心酔した社員に占領されていたこと、日教組もいわゆる「東京裁判史観」に立った自虐史観しか教えていない、ということです。

もうひとつの疑問として、あの60年代安保を戦った若者たちは、どこへ行ったのだろう、ということがあります。

1972年の「あさま山荘事件」は、私が高校に入学する直前に起きたことです。学生がヘルメットを被り、投石とゲバ棒で機動隊と激しくやりあっていた安保闘争は、この事件以後(より正確には、「あさま山荘事件」に先立つ「山岳ベース事件」が世に明るみに出た以後)、急速に下火になっていきました。

大部分は企業に就職したに違いないが、相当数はマスコミ界や教員へ流れたのではないか。

つまり、当時のゲバ学生を支えていた理論的支柱である共産主義なりマルクス主義は、新聞や教育、映画などへの形を変えて、世に広められたのではないか。そうすると、1970年代の後半あたりに私が「三光作戦は日本軍がやった行為」として、自然に受け入れていた事と矛盾しなくなります。

人は、とくに反証や異論がない限り、「ああ、そうですか。専門家が云うなら、そうでしょうね」と受け入れるものです。真っ白なキャンバスのような若い時代の頭脳に、最初に下絵を書かれてしまうことが、どんなに恐ろしいことか、を感じざるを得ません。(続く)

投稿: moguro fukuzo | 2016/08/13 04:17

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