再び全共闘運動を語ろう
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1960年代に隆盛を極めた全共闘運動を実体験で知っているのは、私の世代が最後だろう。
当時は「学園紛争のない大学は大学ではない」と言われるほど学生運動が盛んだった。
私は、全共闘運動の端緒は、1967年10月8日の「佐藤首相ベトナム訪問阻止」闘争にあると思う。
この時、羽田空港に通じる弁天橋で、中核派の山崎博昭さん(京大生)が死亡した。
世論は、当時、学生たちに同情的で、特に学生側に死者が出たことでその傾向はさらに強くなった。
そして、ヘルメットにゲバ棒、タオルで覆面というスタイルもこの羽田闘争が初めてだった(と思う)。
なお、わがブントの先輩たちは、ゲバ棒片手に首都高を逆走し、闘争現場に駆け付けた時は闘争は終わっていたらしい(笑)
そして翌年(1968年)の2月に、東大医学部で医学生の誤認処分が明らかになる。
しかし、当時「象牙の塔」と呼ばれ、傲慢で威圧的だった東大医学部当局はこの不祥事に迅速に対応せず、一般学生たちも含めた怒りを買う。
この、きちんとした調査もせずに、日ごろから目をつけていた学生を事実無根で処分した行為は世論の批判を浴びた。
ここから東大闘争が始まり、ブントや中核派、革マル派、解放派、ML派、フロントなどの活動家が、無党派の学生たちと合体して、さらに運動が盛り上がり、最後はあの安田講堂攻防戦になった。
ちなみに、当日、革マル派のみが安田講堂から夜逃げし、これが後の「内ゲバ」の遠因になる。
また、1968年の「フランス5月革命」(パリ カルチェ・ラタン闘争)の影響も大きかった。
当時、神田駿河台に集中していたブント(中大、明大、医科歯科大)を中心に「神田カルチェ・ラタン闘争」が繰り広げられた。
ただ、この全共闘運動は、1969年の11月でほぼ終結した。
10月の国際反戦デー闘争、11月の佐藤訪米阻止闘争、この二つの闘争で学生のみならず反戦労働者も大量に逮捕され、反体制運動は大きな打撃を被る。
しかも、ほぼ同じ時期に山梨県の大菩薩峠で軍事訓練を行っていた、我がブントから分派した「赤軍派」の主力が検挙される。
このころ私は高3で、隊列の最後尾にいる存在だったが、運動が「潮が引くように」衰退していくのが分かった。
ただ、直後に大学生になった私は1972年までブントの活動家を続けた。
しかし、1972年2月に発覚した「連合赤軍事件」で私は極左に絶望し、きっぱりと過激派をやめた。
ただ、その後も部落解放運動や労働運動にかかわり、左翼と縁を切った時は既に29歳になっていた。
こういう経歴を持つ私が2011年12月23日に書いたのが、以下のエントリ「再び全共闘運動を語ろう」である。
以下のエントリをお読みいただき、当時をご理解いただければ幸いである。
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再び全共闘運動を語ろう
2012年まであとわずか。
早いもので、私が左翼運動に身を投じてから43年が経過しようとしている。
そのころ生まれた人がもう43歳。
時の流れはほんとうに早い。
左翼運動と完全に縁を切ったのは29歳の時だから、それから数えても30年以上が過ぎている。
心情的に左翼と絶縁したのは、もう少し後になる。
35歳の時、成田から米国に向けて初めて旅立った時だ。
まだ三里塚の新空港反対運動は続いていた。
その昔、反対運動の隊列にいた私を何とも説明しがたい感情が襲った。
単なる後ろめたさではない。
もういいだろう、という自分もそこにはいた。
そして、ジョン・F・ケネディ空港に降り立った時、そういう気持は完全にふっ切れた。
革命闘争、部落解放運動、労組活動、その時々で私の立ち位置と思想はかなり異なったが、左翼であり続けたことだけは変わりがない。
極左の学生、被差別部落の講師、公務員労組の末端活動家、ここまではまったくの左翼だったし、革命を完全にあきらめていたわけではない。
が、海と言えば関門海峡しか渡ったことのなかった私が、いきなりたった一人で太平洋を越えることになったころには、もう革命の「か」の字も心の中には存在しなかった。
もっと言えば、革命なんてぜったいに、ぜった~いに起こりえない、と思っていた。
が、やはり左翼の、特に過激派の動向は常に気になっていた。
三里塚の新空港反対運動もその一つだった。
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私が自らを「元極左だった」と語るのは、もちろん自慢するためではない。
そんなこと知られずに済むなら、それに越したことはない。
今ではもう時効だが、犯罪行為(当時は革命的行為)を犯したことは間違いない。
それでも「元極左」を名乗り、過去を語るのは当時を知ってほしいからである。
学生の集団的政治活動としては近代史において最大で、且つもっとも過激だった全共闘運動。
1960年代半ばから70年代初頭にかけて隆盛を極めた極左の運動が、再びこの国で起きることはないだろう。
そういう意味では空前絶後の出来事だった。
当時、全国的課題では東京の中央集会に2万人以上が結集した。
地方での動員数を合算すれば、その数は4~5万人に達していたと思う。
集会やデモには参加しないが、心情的に全共闘支持だった学生も数多く、間違いなく学生においては多数派だった。
1969年には、全国の大学で紛争校165校、うち封鎖・占拠されたものが140校を占めた。
今で言う「偏差値の比較的高い大学」のほとんどが封鎖・占拠された、と言っても過言ではないだろう。
当時のメディアでも「紛争のない大学は大学ではない」などという差別用語?が紹介されたりしたものだ。
では、なぜ、そんなに全共闘運動は盛り上がったのか?
学生の支持を集めたのか?
私は全共闘世代の最末尾である。
全共闘運動には助手や大学院生も参加していたから最年長は1944年生まれあたりだと思う。
つまり来年68歳になる人たちから60歳になる人たち(1952年早生まれ=私)が全共闘世代である。
私の学年は高校時代に全共闘運動の洗礼を受けた。
この1944年~1952年早生まれには共通するものがある。
一つは戦後の貧しさを知っているということだ。
今日のメシにも困る人がいる、それを体験的に知っている。
次に戦争への恐怖が現実にあった。
大人になる過程が東西冷戦の真っ只中と重なる。
また、戦後の民主主義教育を受けた世代であり、テレビドラマや音楽、ファッションで米国的豊かさや自由に憧れた世代でもある。
そんな世代にとって、教師を含めた大人たちは権威主義的で古い道徳観の塊に見えた。
貧困、戦争、権威主義、古い道徳観、これらが若者たちを反体制に走らせた大きな原因であることは間違いない。
反貧困、反戦、反権威、反道徳、これらが全共闘世代の共通項である。
ただ、これだけが全共闘運動の隆盛をもたらした原因ではない。
それまでは、学生運動の中心は学生自治会の連合体である全学連だった。
が、全共闘は学生自治会とは違う。
学生自治会は、ほぼ党派(セクト)とイコールだった。
日本共産党系か反日本共産党系か、そのいずれかであり、全学連の運動は党派の運動だった。
が、全共闘は全学連と違い、その圧倒的多数は無党派だった。
つまり組織に規則らしい規則はなく参加するのも離脱するのも自由。
党派的縛りがないから気楽と言えば気楽、だから麻雀の代わりにデモに参加する者もいれば、党派より過激な行動を取る者たちもいた。
「別個に立って共に撃つ」という言葉がそれを象徴している。
そして、これが空前絶後の反体制運動を生み出したとも言える。
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思い返せば私たちの学生生活は貧乏と言うか質素と言うか。
冷蔵庫や洗濯機はもちろんテレビもない。
4畳半に共同トイレ、風呂なし、これが当たり前、まさに「神田川」の世界だった。
大学の授業以外はサークル活動に精を出すか、麻雀をするか、喫茶店で議論の花を咲かせるか、アルバイトをやるか、それくらいしかない。
外で飲むだけのカネもないから、誰かの部屋に集まって生ぬるいサントリー・ホワイトをチビチビ呑む。
そこは、まさに「口角泡を飛ばす」空間。
こういう環境だと、本をよく読むようになる。
そして読む本と言えば、吉本隆明、高橋和巳、大江健三郎、柴田翔、羽仁五郎、井上光晴、倉橋由美子などなど。
左翼運動をやる条件がそろいすぎている。
それと比べれば、今の若者は恵まれている。
私に言わせれば恵まれすぎ。
世の中にも、食うに困る人間っていないだろう?周りに。
住む家がない者もほとんどいない。
ホームレスなんてわがまま、と言うしかない、私から見れば。
それだけ日本は豊かで格差の少ない国、社会になったのだ。
1970年代後半になって明らかに社会も学生も変わった。
それは1980年代後半のバブルで決定的になった。
当時の日本は世界一豊かな国だったのだから。
失われた20年と一口に言うが、当時の豊かさの名残は今も随所にある。
徐々に崩れかけてはいるけれど。
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全米規模で「ウォール街を占拠せよ(OWS)」運動が続いている。
運動は欧州にも波及している。
が、わが国では呼応する動きがあったもののさっぱり盛り上がらない。
1968年に全共闘運動が、フランス五月革命に触発される形で全国の大学に燎原の火のごとく広がったのと好対照である。
それだけ日本は平和で安全で、格差の少ない豊かな国と言うことだ。
この国の左翼は、おそらく先が長くない。
復活するとしたら、借金まみれの財政をこの先も一向に改善できず、むしろ悪化させて経済危機に陥った時だろう。
が、私は、日本も日本人もそれほどバカではない、と信じている。
これは明大和泉キャンパスだったと記憶している。ブント戦旗派の戦闘部隊。
【追記】
私が共産主義に疑問を抱くようになったのは上の記事に書いてある「左翼と縁を切った時」よりずっと前です。
1972年の連合赤軍事件はショックでした。
彼らの一部に私と同じブント(共産同)出身の活動家がいたからなおさらです。
もう絶望的な気分になりましたね。
72年5月の「御茶の水解放区闘争」の後、私はブントを離脱しました。
多くの仲間が検挙されたあとで辛い決断でしたが、もう限界でした。
私より後の学年から急激に学生運動の熱気が失せたのも、やはり連赤事件が大いに影響していると思います。
なぜ彼らが、ああいう風になってしまったのか?
ismの持つ必然とはいえ、いまだに総括できません、完全には。
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コメント
そうやって学生闘争に明け暮れた連中が、ろくな企業に就職できないで向かった先がマスコミや大学です。
学生運動が衰退したのちは日教組を使って若者を洗脳することに取り掛かりました。
インターネットがない時代は悲惨です。インチキな大人の言うことをころっと信じこまされます。
投稿: | 2018/04/30 22:30
戦後に育った世代は、やっぱり、GHQによる情報統制されたなかで育ったのが大きいんじゃないかと思います。軍部がアメリカに対して無謀な戦争をしかけたし、アジアにひどい惨禍をもたらした。情報の与えられなかった民間人はどちらかといえば被害者的な立場で、これからはアメリカの指導のもと、自由と平和な国に作り替えないといけない。それはGHQが作ったシナリオであって、テレビで流れる真相箱のように報道が巧妙に操作されていたわけですが、子供たちはそれに気がつかず、おとなたちも敗戦していまさら戦後体制に歯向かうこともできずそう信じるのが子供たちの幸せを作ることにもなると納得させていたんじゃないかと想像してます。
投稿: | 2018/05/13 13:13