個人

2018/05/07

北朝鮮を批判するのは、FBにとってNGなのか?


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以下の内容をFBに投稿したら3日間のアカウント停止になってしまいました。

坂 眞
23時間前

日朝対話「1億年後も無理」=北朝鮮紙、圧力姿勢批判

懲りない奴らだ(爆)
1億年経っても顔も見たくねえよ!
独善、無自覚、無恥、冷酷、支離滅裂
この世に存在すること自体が理解不能...

北朝鮮!!!

日朝対話「1億年後も無理」=北朝鮮紙、圧力姿勢批判
(2018/05/06-20:09) 時事通信

かなり前に1回目の警告を受け、その時はノーペナルティだったのですが...
次は3か月の停止になるそうです。
そして4回目でアカウント強制削除。
1回目と今回に共通するwordは「北朝鮮」。
1回目は、沖縄県辺野古の基地建設に反対する在日北朝鮮人(総連)=女性を皮肉っただけ。
「朝鮮人は日本の安全保障に口を出すな!」と...(笑)

北朝鮮を批判するのは、FBにとってNGなのか?

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2018/04/29

再び全共闘運動を語ろう


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1960年代に隆盛を極めた全共闘運動を実体験で知っているのは、私の世代が最後だろう。
当時は「学園紛争のない大学は大学ではない」と言われるほど学生運動が盛んだった。
私は、全共闘運動の端緒は、1967年10月8日の「佐藤首相ベトナム訪問阻止」闘争にあると思う。
この時、羽田空港に通じる弁天橋で、中核派の山崎博昭さん(京大生)が死亡した。
世論は、当時、学生たちに同情的で、特に学生側に死者が出たことでその傾向はさらに強くなった。
そして、ヘルメットにゲバ棒、タオルで覆面というスタイルもこの羽田闘争が初めてだった(と思う)。
なお、わがブントの先輩たちは、ゲバ棒片手に首都高を逆走し、闘争現場に駆け付けた時は闘争は終わっていたらしい(笑)

そして翌年(1968年)の2月に、東大医学部で医学生の誤認処分が明らかになる。
しかし、当時「象牙の塔」と呼ばれ、傲慢で威圧的だった東大医学部当局はこの不祥事に迅速に対応せず、一般学生たちも含めた怒りを買う。
この、きちんとした調査もせずに、日ごろから目をつけていた学生を事実無根で処分した行為は世論の批判を浴びた。
ここから東大闘争が始まり、ブントや中核派、革マル派、解放派、ML派、フロントなどの活動家が、無党派の学生たちと合体して、さらに運動が盛り上がり、最後はあの安田講堂攻防戦になった。
ちなみに、当日、革マル派のみが安田講堂から夜逃げし、これが後の「内ゲバ」の遠因になる。

また、1968年の「フランス5月革命」(パリ カルチェ・ラタン闘争)の影響も大きかった。
当時、神田駿河台に集中していたブント(中大、明大、医科歯科大)を中心に「神田カルチェ・ラタン闘争」が繰り広げられた。

ただ、この全共闘運動は、1969年の11月でほぼ終結した。
10月の国際反戦デー闘争、11月の佐藤訪米阻止闘争、この二つの闘争で学生のみならず反戦労働者も大量に逮捕され、反体制運動は大きな打撃を被る。
しかも、ほぼ同じ時期に山梨県の大菩薩峠で軍事訓練を行っていた、我がブントから分派した「赤軍派」の主力が検挙される。
このころ私は高3で、隊列の最後尾にいる存在だったが、運動が「潮が引くように」衰退していくのが分かった。
ただ、直後に大学生になった私は1972年までブントの活動家を続けた。
しかし、1972年2月に発覚した「連合赤軍事件」で私は極左に絶望し、きっぱりと過激派をやめた。
ただ、その後も部落解放運動や労働運動にかかわり、左翼と縁を切った時は既に29歳になっていた。

こういう経歴を持つ私が2011年12月23日に書いたのが、以下のエントリ「再び全共闘運動を語ろう」である。
以下のエントリをお読みいただき、当時をご理解いただければ幸いである。

Yasudatoride_3

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再び全共闘運動を語ろう

2012年まであとわずか。
早いもので、私が左翼運動に身を投じてから43年が経過しようとしている。
そのころ生まれた人がもう43歳。
時の流れはほんとうに早い。
左翼運動と完全に縁を切ったのは29歳の時だから、それから数えても30年以上が過ぎている。

心情的に左翼と絶縁したのは、もう少し後になる。
35歳の時、成田から米国に向けて初めて旅立った時だ。
まだ三里塚の新空港反対運動は続いていた。
その昔、反対運動の隊列にいた私を何とも説明しがたい感情が襲った。
単なる後ろめたさではない。
もういいだろう、という自分もそこにはいた。
そして、ジョン・F・ケネディ空港に降り立った時、そういう気持は完全にふっ切れた。

革命闘争、部落解放運動、労組活動、その時々で私の立ち位置と思想はかなり異なったが、左翼であり続けたことだけは変わりがない。
極左の学生、被差別部落の講師、公務員労組の末端活動家、ここまではまったくの左翼だったし、革命を完全にあきらめていたわけではない。
が、海と言えば関門海峡しか渡ったことのなかった私が、いきなりたった一人で太平洋を越えることになったころには、もう革命の「か」の字も心の中には存在しなかった。
もっと言えば、革命なんてぜったいに、ぜった~いに起こりえない、と思っていた。
が、やはり左翼の、特に過激派の動向は常に気になっていた。
三里塚の新空港反対運動もその一つだった。

----------------------------------------------------------------------

私が自らを「元極左だった」と語るのは、もちろん自慢するためではない。
そんなこと知られずに済むなら、それに越したことはない。
今ではもう時効だが、犯罪行為(当時は革命的行為)を犯したことは間違いない。
それでも「元極左」を名乗り、過去を語るのは当時を知ってほしいからである。
学生の集団的政治活動としては近代史において最大で、且つもっとも過激だった全共闘運動。
1960年代半ばから70年代初頭にかけて隆盛を極めた極左の運動が、再びこの国で起きることはないだろう。
そういう意味では空前絶後の出来事だった。

当時、全国的課題では東京の中央集会に2万人以上が結集した。
地方での動員数を合算すれば、その数は4~5万人に達していたと思う。
集会やデモには参加しないが、心情的に全共闘支持だった学生も数多く、間違いなく学生においては多数派だった。
1969年には、全国の大学で紛争校165校、うち封鎖・占拠されたものが140校を占めた。
今で言う「偏差値の比較的高い大学」のほとんどが封鎖・占拠された、と言っても過言ではないだろう。
当時のメディアでも「紛争のない大学は大学ではない」などという差別用語?が紹介されたりしたものだ。

では、なぜ、そんなに全共闘運動は盛り上がったのか?
学生の支持を集めたのか?
私は全共闘世代の最末尾である。
全共闘運動には助手や大学院生も参加していたから最年長は1944年生まれあたりだと思う。
つまり来年68歳になる人たちから60歳になる人たち(1952年早生まれ=私)が全共闘世代である。
私の学年は高校時代に全共闘運動の洗礼を受けた。

この1944年~1952年早生まれには共通するものがある。
一つは戦後の貧しさを知っているということだ。
今日のメシにも困る人がいる、それを体験的に知っている。
次に戦争への恐怖が現実にあった。
大人になる過程が東西冷戦の真っ只中と重なる。
また、戦後の民主主義教育を受けた世代であり、テレビドラマや音楽、ファッションで米国的豊かさや自由に憧れた世代でもある。
そんな世代にとって、教師を含めた大人たちは権威主義的で古い道徳観の塊に見えた。

貧困、戦争、権威主義、古い道徳観、これらが若者たちを反体制に走らせた大きな原因であることは間違いない。
反貧困、反戦、反権威、反道徳、これらが全共闘世代の共通項である。
ただ、これだけが全共闘運動の隆盛をもたらした原因ではない。
それまでは、学生運動の中心は学生自治会の連合体である全学連だった。
が、全共闘は学生自治会とは違う。
学生自治会は、ほぼ党派(セクト)とイコールだった。
日本共産党系か反日本共産党系か、そのいずれかであり、全学連の運動は党派の運動だった。

が、全共闘は全学連と違い、その圧倒的多数は無党派だった。
つまり組織に規則らしい規則はなく参加するのも離脱するのも自由。
党派的縛りがないから気楽と言えば気楽、だから麻雀の代わりにデモに参加する者もいれば、党派より過激な行動を取る者たちもいた。
「別個に立って共に撃つ」という言葉がそれを象徴している。
そして、これが空前絶後の反体制運動を生み出したとも言える。

----------------------------------------------------------------------

思い返せば私たちの学生生活は貧乏と言うか質素と言うか。
冷蔵庫や洗濯機はもちろんテレビもない。
4畳半に共同トイレ、風呂なし、これが当たり前、まさに「神田川」の世界だった。
大学の授業以外はサークル活動に精を出すか、麻雀をするか、喫茶店で議論の花を咲かせるか、アルバイトをやるか、それくらいしかない。
外で飲むだけのカネもないから、誰かの部屋に集まって生ぬるいサントリー・ホワイトをチビチビ呑む。
そこは、まさに「口角泡を飛ばす」空間。
こういう環境だと、本をよく読むようになる。
そして読む本と言えば、吉本隆明、高橋和巳、大江健三郎、柴田翔、羽仁五郎、井上光晴、倉橋由美子などなど。
左翼運動をやる条件がそろいすぎている。

それと比べれば、今の若者は恵まれている。
私に言わせれば恵まれすぎ。
世の中にも、食うに困る人間っていないだろう?周りに。
住む家がない者もほとんどいない。
ホームレスなんてわがまま、と言うしかない、私から見れば。
それだけ日本は豊かで格差の少ない国、社会になったのだ。

1970年代後半になって明らかに社会も学生も変わった。
それは1980年代後半のバブルで決定的になった。
当時の日本は世界一豊かな国だったのだから。
失われた20年と一口に言うが、当時の豊かさの名残は今も随所にある。
徐々に崩れかけてはいるけれど。

----------------------------------------------------------------------

全米規模で「ウォール街を占拠せよ(OWS)」運動が続いている。
運動は欧州にも波及している。
が、わが国では呼応する動きがあったもののさっぱり盛り上がらない。
1968年に全共闘運動が、フランス五月革命に触発される形で全国の大学に燎原の火のごとく広がったのと好対照である。
それだけ日本は平和で安全で、格差の少ない豊かな国と言うことだ。

この国の左翼は、おそらく先が長くない。
復活するとしたら、借金まみれの財政をこの先も一向に改善できず、むしろ悪化させて経済危機に陥った時だろう。
が、私は、日本も日本人もそれほどバカではない、と信じている。

Senkiha  これは明大和泉キャンパスだったと記憶している。ブント戦旗派の戦闘部隊。

【追記】
私が共産主義に疑問を抱くようになったのは上の記事に書いてある「左翼と縁を切った時」よりずっと前です。
1972年の連合赤軍事件はショックでした。
彼らの一部に私と同じブント(共産同)出身の活動家がいたからなおさらです。
もう絶望的な気分になりましたね。
72年5月の「御茶の水解放区闘争」の後、私はブントを離脱しました。
多くの仲間が検挙されたあとで辛い決断でしたが、もう限界でした。

私より後の学年から急激に学生運動の熱気が失せたのも、やはり連赤事件が大いに影響していると思います。
なぜ彼らが、ああいう風になってしまったのか?
ismの持つ必然とはいえ、いまだに総括できません、完全には。


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2018/01/28

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2017/09/05

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2017/09/04 @星野リゾート 界 伊東


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2017/01/20

極私的エントリー


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以下は、2005年9月5日に書いたエントリの再掲です。
当時は既に人気ブログランキングの第1位だったと思う。
その順位を意識した重圧なのかなあ...
けっこう「書くこと」に悩んでおります、11年以上前!!!

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昨日、できるだけ正確な記事を書こうと、財政関連のサイトを20以上閲覧していたら、エントリーを書くのに5時間以上を要してしまった。
本当に疲れた。で、今日は、極めて私的なエントリーを上梓することにした。ご容赦を・・・

私は、17歳のときに左翼運動に身を投じ、21歳からは2年間、部落解放運動に参加した。限界を感じた私は、大学に復学し卒業した。
民間企業は相手にしてくれないので、地方公務員試験を受けた。幸い上級職で合格できた。自治労の支部である職場の労組は共産党が主流派で、社会党系は反主流派だった。
私は社会党系の青年部で精力的に活動した。しかし、すぐに裏が見えた。肝腎なときに当局と妥協するのだ。私は執行部と対立した。

私は、9年間にわたって政治に直接関わった。学生運動、部落解放運動、労働運動。偽善というか、欺瞞というか、運動によって違いはあるのだが、組織の論理が個を抹殺する。これが政治の現実だった。
組織の論理に大義があれば、まだ許せる。が、そんなものはどこにもない。自己保身の官僚主義そのものだった。
※ただ、全共闘運動だけは違う、と今でも思っている※

特に部落解放運動には絶望した。崇高な理念を掲げているのだが、実際は「物取り運動」だった。暴力で行政や一般市民を威嚇する。「糾弾闘争」=暴力である。
それでも部落大衆が恵まれるのなら、まだ我慢ができた。しかし、一部の者のみが御殿を建て、部落大衆はそれほどの恩恵を受けなかった。要は、部落の中に新しい差別が生まれたのである(怒)。

公務員を辞めた私は、商売を始めた。しかし、すぐにダメになった。そこから私の本当の人生が始まった。紆余曲折はあったが、今は人生でいちばん安定している。オカネでは相変わらず苦労しているが、精神が安定しているのだ。

やっぱり私は反米であり、日本と日本人が大好きであり、この国と国民に誇りを持っている。今は、日の丸と君が代を抵抗なく受け入れられる。
幸い、家族には恵まれた。子供たちは私を尊敬してくれている。妻には心から申し訳ないと思っている。

これからも、日本の主権と独立にこだわり続けたい。社会的「逆不公正」は絶対に許さない。真の弱者には膝を折りたい。

構造改革は、けっして弱者切捨てではない。日本が沈没すれば強者も弱者もない。
いや、強者は国が破綻しても、まだ恵まれている。いちばん困るのは弱者なのである。共産党や社民党の主張は破滅への道である。だまされてはならない。

私は、最近、親鸞の「他力本願」に魅せられている。「南無阿弥陀仏」、これが究極ではないかと・・・
無神論者として50年以上を生きてきて、最近そう思う。
人間って何なのか?人生って?生きる意味って?
そんなことを、思春期以来、何十年ぶりかに考える今日この頃である。

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2016/12/09

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春の靖国神社は七分咲きです。

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2016/10/09

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今年6月、右腕を骨折したにもかかわらず、その翌日に伊豆・下田温泉をスーパービュー踊り子号で訪れた時のものです。

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2016/08/07

今日は気まぐれに親父との思い出を語ります。


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私の父親が旧陸軍の将校だったこと。
敗戦後、シベリアに2年余り抑留されたことは何度か書きました。
その父親、戦争のことは多くは語りませんでしたが、たまに印象に残る言葉を残しています。

一つは日本が戦争に負けた理由。
「科学力と生産力が違いすぎた。圧倒的物量を前にした時、精神論だけでは勝てない」
父親は戦後、「これからは自動車の時代だ」と強く思ったそうです。

もう一つ父親が敗戦の理由に挙げたのが旧陸軍の視野の狭さ。
「海軍は外国に行くことも多く、米国を知っていたが、陸軍指導部は米国と日本の国力の差を知らなすぎた」
つまり「井の中の蛙」状態だった陸軍の認識不足が日本を対米開戦に導き、惨めな敗北をもたらしたと父親は言うわけです。

父親は二・二六事件を引き起こした陸軍皇道派に対しても厳しかったですね。
「連中は統制派の悪口を言うばかりで、自分たちならこうするという具体論がまったくなかった」
父親が将校になった時、既に皇道派そのものは失墜していましたが、それでも陸軍内部にはまだ展望なき強硬論が蔓延していたそうです。
ただ、本人もその一翼を担いでいたわけで、反省している風でしたが。

それから、戦後の米ソ対立については、「ソ連が米国に勝てるわけがない」と断言していました。
ソ連軍の捕虜になった時、真っ先に奪われたのは腕時計だったそうです。
日本軍の将校は腕時計は当たり前。
ところがソ連兵は将校でさえそれを持っていない。
しかも食糧も満足ではない。
シベリア抑留で日本兵捕虜が多く命を落としましたが、「ソ連兵自身の食糧が欠乏状態だったのだから仕方がない面もあった」と語っていました。
その時、ソ連軍内部のユダヤ人差別の酷さについても聞かされました。

国民党軍の残虐さに触れた言葉も忘れられません。
援軍の到着が遅れたため父親の部隊は一時退却したそうです。
で、援軍が合流して国民党軍を撃破した後に見たのは信じがたい光景でした。
負傷して退却の遅れた日本兵が山積み状態にされ、生きたまま油をかけられ、焼き殺されていたのです。
藪に潜んでその様子を見ていた兵士は、その後、精神がおかしくなったと言っていました。

それから八路軍(紅軍)の兵士が日本軍に投降してきたときは、びっくり仰天したそうです。
理由が、「国民党軍に捕まるよりは日本軍の方がまだまし」と言うのです。
つまり、国民党軍だと残虐な拷問を加えられたうえで虐殺されるが、日本軍はそこまで酷くはない。
父親は、国民党軍がいかに残虐であるかをその時、痛感したのでした。
で、「生きて虜囚の辱を受けず」を反芻するわけです。

こういう話は、私が左翼学生運動に身を投じたころ、年に何回か食事を共にした時に問わず語りに聞かされました。
そして、毎度のごとく言われた言葉が以下です。
「人間は体力が第一だ。今のお前は、シベリアに抑留されたら1か月も持たない」

父親は、
視野の狭い人間は道を誤る―
独りよがりで他人を批判してばかりいる人間には未来がない―
ソ連は戦争の勝者のように言われるが、その実態は日本よりずっと惨めだった―
社会主義は平等と言うがソ連内部のユダヤ人差別は酷いもんだ―
加害者=日本軍、被害者=国民党軍という構図は一面的すぎる―
どんな世でも体力がなければ生きていけない(健康が第一)―
というようなことを私に婉曲に伝えたかったのだと思います。

父親が亡くなって既に25年。
親不孝ばかりで、申し訳なかったという思いしか残っておりません。
その私がもう還暦。
父親に恥ずかしくないような晩年を築き上げたいと思います。

Shiberia


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【追記】
このエントリは2012/03/20の再掲です。

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2016/08/01

再び全共闘運動を語ろう


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2012年まであとわずか。
早いもので、私が左翼運動に身を投じてから43年が経過しようとしている。
そのころ生まれた人がもう43歳。
時の流れはほんとうに早い。
左翼運動と完全に縁を切ったのは29歳の時だから、それから数えても30年以上が過ぎている。

心情的に左翼と絶縁したのは、もう少し後になる。
35歳の時、成田から米国に向けて初めて旅立った時だ。
まだ三里塚の新空港反対運動は続いていた。
その昔、反対運動の隊列にいた私を何とも説明しがたい感情が襲った。
単なる後ろめたさではない。
もういいだろう、という自分もそこにはいた。
そして、ジョン・F・ケネディ空港に降り立った時、そういう気持は完全にふっ切れた。

革命闘争、部落解放運動、労組活動、その時々で私の立ち位置と思想はかなり異なったが、左翼であり続けたことだけは変わりがない。
極左の学生、被差別部落の講師、公務員労組の末端活動家、ここまではまったくの左翼だったし、革命を完全にあきらめていたわけではない。
が、海と言えば関門海峡しか渡ったことのなかった私が、いきなりたった一人で太平洋を越えることになったころには、もう革命の「か」の字も心の中には存在しなかった。
もっと言えば、革命なんてぜったいに、ぜった~いに起こりえない、と思っていた。
が、やはり左翼の、特に過激派の動向は常に気になっていた。
三里塚の新空港反対運動もその一つだった。

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私が自らを「元極左だった」と語るのは、もちろん自慢するためではない。
そんなこと知られずに済むなら、それに越したことはない。
今ではもう時効だが、犯罪行為(当時は革命的行為)を犯したことは間違いない。
それでも「元極左」を名乗り、過去を語るのは当時を知ってほしいからである。
学生の集団的政治活動としては近代史において最大で、且つもっとも過激だった全共闘運動。
1960年代半ばから70年代初頭にかけて隆盛を極めた極左の運動が、再びこの国で起きることはないだろう。
そういう意味では空前絶後の出来事だった。

当時、全国的課題では東京の中央集会に2万人以上が結集した。
地方での動員数を合算すれば、その数は4~5万人に達していたと思う。
集会やデモには参加しないが、心情的に全共闘支持だった学生も数多く、間違いなく学生においては多数派だった。
1969年には、全国の大学で紛争校165校、うち封鎖・占拠されたものが140校を占めた。
今で言う「偏差値の比較的高い大学」のほとんどが封鎖・占拠された、と言っても過言ではないだろう。
当時のメディアでも「紛争のない大学は大学ではない」などという差別用語?が紹介されたりしたものだ。

では、なぜ、そんなに全共闘運動は盛り上がったのか?
学生の支持を集めたのか?
私は全共闘世代の最末尾である。
全共闘運動には助手や大学院生も参加していたから最年長は1944年生まれあたりだと思う。
つまり来年68歳になる人たちから60歳になる人たち(1952年早生まれ=私)が全共闘世代である。
私の学年は高校時代に全共闘運動の洗礼を受けた。

この1944年~1952年早生まれには共通するものがある。
一つは戦後の貧しさを知っているということだ。
今日のメシにも困る人がいる、それを体験的に知っている。
次に戦争への恐怖が現実にあった。
大人になる過程が東西冷戦の真っ只中と重なる。
また、戦後の民主主義教育を受けた世代であり、テレビドラマや音楽、ファッションで米国的豊かさや自由に憧れた世代でもある。
そんな世代にとって、教師を含めた大人たちは権威主義的で古い道徳観の塊に見えた。

貧困、戦争、権威主義、古い道徳観、これらが若者たちを反体制に走らせた大きな原因であることは間違いない。
反貧困、反戦、反権威、反道徳、これらが全共闘世代の共通項である。
ただ、これだけが全共闘運動の隆盛をもたらした原因ではない。
それまでは、学生運動の中心は学生自治会の連合体である全学連だった。
が、全共闘は学生自治会とは違う。
学生自治会は、ほぼ党派(セクト)とイコールだった。
日本共産党系か反日本共産党系か、そのいずれかであり、全学連の運動は党派の運動だった。

が、全共闘は全学連と違い、その圧倒的多数は無党派だった。
つまり組織に規則らしい規則はなく参加するのも離脱するのも自由。
党派的縛りがないから気楽と言えば気楽、だから麻雀の代わりにデモに参加する者もいれば、党派より過激な行動を取る者たちもいた。
「別個に立って共に撃つ」という言葉がそれを象徴している。
そして、これが空前絶後の反体制運動を生み出したとも言える。

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思い返せば私たちの学生生活は貧乏と言うか質素と言うか。
冷蔵庫や洗濯機はもちろんテレビもない。
4畳半に共同トイレ、風呂なし、これが当たり前、まさに「神田川」の世界だった。
大学の授業以外はサークル活動に精を出すか、麻雀をするか、喫茶店で議論の花を咲かせるか、アルバイトをやるか、それくらいしかない。
外で飲むだけのカネもないから、誰かの部屋に集まって生ぬるいサントリー・ホワイトをチビチビ呑む。
そこは、まさに「口角泡を飛ばす」空間。
こういう環境だと、本をよく読むようになる。
そして読む本と言えば、吉本隆明、高橋和巳、大江健三郎、柴田翔、羽仁五郎、井上光晴、倉橋由美子などなど。
左翼運動をやる条件がそろいすぎている。

それと比べれば、今の若者は恵まれている。
私に言わせれば恵まれすぎ。
世の中にも、食うに困る人間っていないだろう?周りに。
住む家がない者もほとんどいない。
ホームレスなんてわがまま、と言うしかない、私から見れば。
それだけ日本は豊かで格差の少ない国、社会になったのだ。

1970年代後半になって明らかに社会も学生も変わった。
それは1980年代後半のバブルで決定的になった。
当時の日本は世界一豊かな国だったのだから。
失われた20年と一口に言うが、当時の豊かさの名残は今も随所にある。
徐々に崩れかけてはいるけれど。

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全米規模で「ウォール街を占拠せよ(OWS)」運動が続いている。
運動は欧州にも波及している。
が、わが国では呼応する動きがあったもののさっぱり盛り上がらない。
1968年に全共闘運動が、フランス五月革命に触発される形で全国の大学に燎原の火のごとく広がったのと好対照である。
それだけ日本は平和で安全で、格差の少ない豊かな国と言うことだ。

この国の左翼は、おそらく先が長くない。
復活するとしたら、借金まみれの財政をこの先も一向に改善できず、むしろ悪化させて経済危機に陥った時だろう。
が、私は、日本も日本人もそれほどバカではない、と信じている。

Bund2


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【追記】
私が共産主義に疑問を抱くようになったのは上の記事に書いてある「左翼と縁を切った時」よりずっと前です。
1972年の連合赤軍事件はショックでした。
彼らの一部に私と同じブント(共産同)出身の活動家がいたからなおさらです。
もう絶望的な気分になりましたね。
72年5月の「御茶の水解放区闘争」の後、私はブントを離脱しました。
多くの仲間が検挙されたあとで辛い決断でしたが、もう限界でした。

私より後の学年から急激に学生運動の熱気が失せたのも、やはり連赤事件が大いに影響していると思います。
なぜ彼らが、ああいう風になってしまったのか?
ismの持つ必然とはいえ、いまだに総括できません、完全には。

【追記2】
このエントリは2011/12/23の再掲です。

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2016/07/27

連合赤軍≒革マル≒オウム≒左右のカルト


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昨日のエントリの【追記】で―あの「あさま山荘事件」からちょうど40年目―と書きました。
40年、長いですよね。
それでもメディアは大きく取り上げていました。
それだけ衝撃的な出来事だった、ということです。
私もこの事件だけは忘れられません。
まるで当事者のような意識が働きます。

彼らが同じ共産主義者であったこと、そしてメンバーの中にブントの先輩がいて、主導的役割を果たしたこと。
だから私に、逃れられない当事者意識が働くのです。
不謹慎な物言いになりますが、私は「あさま山荘」の銃撃戦に熱狂しました。
左翼学生の大半がそうだったと思います。
で、第2第3の銃撃戦が起きる、皆そう期待しました。
が、直後に打ちのめされるような事実が発覚します。
まさに奈落の底に突き落とされたような絶望的な気分。
最初は信じられませんでした。
「殺されたのは公安のスパイだろう」と思いました。
が、殺害されたメンバーの中に知ってる先輩活動家がいて、報道されていることが事実であると自覚しました。

12人が「総括」という名のもとに処刑されました。
処刑方法は残虐非道で、まず他のメンバーが全員で顔の判別がつかなくなるほど “被告人”を殴りつける、内臓が破裂するほど蹴りつける。
食事も与えず、衰弱すると、両手足を縛って極寒の屋外に放置する。
死因の大半が凍死で、胃の中は空っぽでした。
中には、「総括」が期待できないと判断され、「死刑」を宣告された挙句、アイスピックで何度も刺された上に絞殺された者もいました。
また、兄の殺害を、あるいは妊娠8か月の恋人の処刑を強要された者もいました。
処刑の理由も些細なこと。
化粧をしている、異性と親しくした(恋人同士)、規律を守らない、兵士としての自覚に欠ける、リーダーの森恒夫より理論上手、顔が美人、等々信じがたい理由で“革命戦士”たちは処刑されたのです。

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この事件を、あいつらは人間じゃない!と非難するのは簡単ですが、やはり、なぜこうなったのか?を明らかにすることが重要だと私は思います。
私にはその責任がある、と考えるのです。

理由の一つは、リーダーだった森恒夫と永田洋子の人間性にあります。
赤軍派の中でバカにされていた森、容貌や女性としての魅力に劣等感を抱いていた永田。
この森と永田のコンプレックスが根底にあるのです。
京大出身で関西ブントの理論家として知られ、赤軍派内では森より格上だった山田孝が処刑されたこと、赤軍派の女性メンバーで女王様的存在だった遠山美枝子が、まず永田に目を付けられたことなどがそれを証明しています。

次は、当時の彼らが置かれた環境ですね。
彼らは公安警察に追われ都市部では活動できなくなっていました。
で、山岳地帯に逃げ込んだのです。
それでも公安の追跡はやまず、山岳ベースと名付けた拠点を転々としました。
榛名ベース―迦葉山ベース―妙義ベースと彼らは移動する(逃走する)わけですが、いずれも自分たちで作った粗末で小さい山小屋であり、外は氷点下の極寒でした。
こういう閉ざされた空間の中で雑魚寝の共同生活を続けていく。
一方で公安の追手が迫っている。
精神的に追い詰められるのも無理はありません。

三番目が毛沢東思想の影響。
毛沢東は熾烈な党内闘争(粛清)を繰り返しながら中国共産革命を成就させました。
連合赤軍の半分は、毛沢東を崇拝する革命左派神奈川県委員会(京浜安保共闘)出身でしたから、メンバーの粛清に違和感があまりなかったと思います。

ただ、以上の理由は付随的なもので主因ではないと私は思っています。
決定的な原因は、「極めて日本的なマルクス主義」です。
日本のマルクス主義(共産主義)は「主体論」が根本にあります。
これは西田哲学を源流としています。
西田哲学の神髄は「絶対矛盾的自己同一」です。
「我はすなわち天なり。天すなわち我なり。」を実感すると人は悟りの境地に至る、これが「絶対矛盾的自己同一」ですが、マルクスの師であるヘーゲルの弁証法も、西田哲学と真逆のようで実は同じなのです。
すなわち社会や歴史も、絶対精神(理性)の自己実現―という点で両者は共通するのです。
だから戦前、西田哲学の徒だった梯明秀や梅本克己などが戦後、マルクス主義者になりながら、そこに「主体論」を持ち込めたわけです。
この「主体論」をさらに純化させたのが革マル派の教組・黒田寛一(通称「黒寛」)です。

Nagatahiroko
最後まで責任を森恒夫に押し付けた永田洋子

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黒寛理論(哲学)では、「プロレタリア的人間としての主体の形成」が求められ、「プロレタリア的人間への自己変革をなし遂げた者によって構成される強固な“前衛党”」が革命闘争を指導するとされています。
つまり、革命理論を学び、思想を固め、ブルジョア的なものを排除し、自己を共産主義者として確立する―これがプロレタリア的人間への過程ですが、これではまるで求道者です。
宗教の信者が、その信仰のレベルを高め、より神(もしくは教組)の教えに近づこうとする、これとそっくりです。
そこにおいては、「プロレタリア的人間への自己変革をなし遂げた者」という“選民”が誕生します。
逆に言うと、「プロレタリア的人間への自己変革をなし遂げていない者」がマルクス主義を標榜し、革命家を名乗ることは異端であり、反革命となるわけです。
そこでは異端者は抹殺の対象になります。

私は、連合赤軍による大量リンチ殺人の根底には、「プロレタリア的人間への自己変革」を求める黒寛的な思考があったと思っています。
つまり、犠牲者は「プロレタリア的人間=革命戦士としての主体の形成が不十分」=小ブルジョア(プチブル急進主義)とみなされ、暴力による「総括」が実行されたのです。
革マル派の「革命の主体形成」=“前衛党”建設至上主義が、連合赤軍においては「銃による党の建設」=唯武器主義に化けただけで、その本質は同じだったと思います。

革マル派が中核派や革労協と、血で血を洗う凄絶な内ゲバを繰り広げたのも、黒寛哲学が大きく影響しています。
革マル派から見れば、中核派や革労協は「プロレタリア的人間への自己変革」が不十分なプチブル急進主義者であり、解体するべき存在です。
革マル派の第一目標が権力の打倒ではなく他党派の解体であったところにその特徴がよく表れています。
連合赤軍が殺害したメンバーは12人ですが、革マル派と中核派及び革労協の内ゲバによる死者は判明しているだけで86名を数えます。
重い後遺症を引きずる重傷者は数知れず。

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欧米先進国の極左(過激派)で、日本のような陰惨な殺人が横行した例はありません。
つまり、日本の内ゲバ殺人には、マルクス主義(共産主義)が持つ本質的な問題=独善と排他性以外の原因があるのです。
それは、求道者的思考回路に陥りやすい日本人特有の体質にあると私は思っています。
そういう点では、オウム真理教事件も似たところがあります。
彼らは「ポアする」=「魂を救済する」として脱会者や脱会しそうな信者を殺しました。
連合赤軍の「総括」も、革命戦士としての自覚を促すために実行された「援助」であり、その結果の死は「敗北死」と呼ばれました。
革マル派は、リンチによる自己批判を迫るのが常でしたが、彼らによれば、自己批判は「プロレタリア的人間への自己変革」を開始するための第一歩でした。
道を究めるという日本人の長所が、イデオロギーや宗教の世界に持ち込まれると狂気に化ける、そんな気がしてなりません。

私の救いは、私が所属したブントは四分五裂しましたが、内ゲバで死者を出したことがない、という点です。
赤軍派が分裂したとき、望月上史さんが死亡しましたが、これは事故でした。
ブントは黒寛理論(哲学)の対極にいましたし、「プロレタリア的人間への自己変革」より闘争優先、運動重視でしたから深刻にならなかったのだと思います。
その代り、ブントは雲散霧消しましたが、革マル派は未だに生き残り、社会の至るところに根を張っています。
やはり“宗教”は強いのです。

思想の左右を問わず、あるべき人間像を固定化し、それ以外の人間を排除、抹殺するという硬直した思考回路に陥らないように心したいものです。
よろしくお願いします。


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Asamasanso
上の銃を構えている男が坂口弘

連合赤軍事件の主役の一人、坂口弘死刑囚がオウム真理教の事件について朝日新聞に手記を寄せていました。
1996年4月のことです。
私は当時、これを読んで深い感銘を覚えるとともに、自らに目覚めました。

以下は原文です。

この手紙が、あなた<オウム信者のこと>を始めとする潜伏中の皆さんの目に触れることを念じつつ書いています。

かつて、重大な過ちを犯した人間である私は、地下鉄サリン事件など一連の事件に関与したオウム真理教信者の方々に対し、痛ましい思いで深い同情を禁じえません。

あなた方は、サリンをまくためにオウム真理教に入信されたわけではないでしょう。また、地下鉄サリン事件を立案し、計画したわけでもないようです。教団の中にあって、たまたまその地位や立場が悪かったために指名手配され、実行に関与することになったのです。私自身の経験から、組織の中にいて、そのような指示を容易に拒めるものではないことはよくわかります。

僧侶の林さん<泰男容疑者のことか>と左翼の私とは、住む世界が異なりますが、それにもかかわらずお互いによく似た傾向があることに気づかされます。それは、カリスマ性をもつ指導者への帰依です。かつての私は、この傾向が人一倍強い人間で、恋も及ばぬほど熱烈に指導者を愛し、忠誠を誓い、この人のためなら死んでもおしくないとまで思っていました。

この盲目性から私は、組織が始めた武装闘争に加わり、獄中にいた指導者の奪還を企てたのですが、これが武器のエスカレートを招き、その過程に脱落した仲間を口封じのために殺害し、さらに、目的を変じて、山岳ベースでの大勢の同志殺害からあさま山荘でのろう城発砲へと、命がいくつあっても足りぬ罪を重ねてしまいました。

過ちに気づいたのは逮捕されてからでした。国内外の激動した情勢に、どうも自分たちの武装路線は適合していないのではないか、という疑問が芽生え、この疑問をつきつめてゆく過程において、なおも路線を堅持する指導者と衝突しました。そして、激しい論戦を経て、ようやく武装路線から脱却できたのです。

この体験から私は、自らの行為に疑問や迷いが生じた時には、何にもまして実感を大切にしなければならない、と心するようにしました。自分の心に感じたものにこだわり、それがスッキリするまで、しつこいように追求してゆく、ということです。

教団の中で、求道のため、麻原さんの指示を率先して実行した井上嘉浩さんも、今私と似たような体験をされているようです。

彼は、麻原さんの指示を実行していても自分の心は解放されず、かえって暗くなってゆくのはなぜか、という疑問にこだわったそうです。逮捕後、これをつきつめていった結果、一連の事件は麻原さんのエゴの実践に過ぎなかったとの結論に達し、法廷で麻原さんと対決してゆく意志を表明されました。

手段が悪いのは目的が悪いからだ、という言葉があります。実感を大切にされ、ご自分の判断で運命をひらいて下さい。

1996年4月24日 朝日新聞【夕刊】

< >は朝日新聞の補足。

今回は、渾身の力を込めて書きました。
正直、疲れました、ヘトヘトです。


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【追記】
このエントリは2012/02/24の再掲です。

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