共産主義

2007/08/02

左翼とは正義感の強い「ばか」

左翼な人は私を理解できないでしょうが、私は左翼な人が理解できます。
左翼って、間違いなく正義感が強い。そして原則的です。
特に女性がそうですね。もう、思い込んだら命がけといった感じ。
(これは女性差別ではなく、私の実感と実体験によるものです)

「原則的」というと、たいそう立派に見えますが、裏返して見れば「頭が固い」ということ。
自分の考えと違う意見を受け入れるだけの柔軟性がない。
ある意味「ばか」ですね。
だからけっこう高学歴な人であっても、相手に平気で罵詈雑言を浴びせることができるわけです。

「軍による慰安婦の強制連行」を否定したり、「南京における30万人の虐殺」を否定したりする人に遭遇すると、もう我慢できない。怒りが爆発する。
そういう輩(私がそう)は、無知蒙昧か、あるいは右翼・反動の極悪人に思えてしまう。
なぜなら正義感が強いからです。
が、拠って立つ原則的立場が、そもそもプロパガンダの類を「真実」と思い込んでいるだけですから、「正義感」の行き着くところが「不正義」に化けてしまうわけです。

左翼も色々ですが、共通するのは「平等」ですね。
ところが、この「平等」、その本質は「不平等」です。
成績のよいもの、成果の大きいものが高い評価と対価を得ることを否定する。
極端な場合は、男女の「性差」さえ否定します。
金持ちは悪で、貧乏人は常に擁護されなければならない存在。

でも、こんなの「平等」でも何でもありません。
本人たちは「最大幸福社会」をめざしているのでしょうが、そのやっていることの結末は「最大貧困社会」の実現です。
「ナンバーワンになれなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」という歌がありましたが、これなどその本質を如実に表しています。
ナンバーワンをめざしたからといってナンバーワンになれるわけではない。が、だからといってオンリーワンでいいなんて自慰以外のなにものでもない。
そこには進歩も成長もありません。
普通は「ナンバーワンになれないのは仕方がない」が「せめて2番か3番になりたい」、あるいは「最悪ビリにだけはなりたくない」でしょう、人間てヤツは。

でもって、「平等」を声高に叫ぶ連中は、けっこう高学歴で、けっこう裕福なんですね。
つまり「恵まれた世界」に住んでいて一般ピープルを見下しているのです。
だから高慢な人間が多い。

左翼が好きな「人権」も同じです。
彼らは被害者の人権より加害者の人権を擁護する。
それは「国家は悪」と捉えているからです。
だから死刑も含めて、国家による刑罰の執行が「人権侵害」と映る。
が、そこでは蹂躙された被害者の人権は捨象される。

“従軍”慰安婦や南京で被害にあった人たちの痛みはわかるのに、妄想の世界から現実の世界に立ち返ると、もう被害者の痛みが理解できない。
なぜなら、発想の根本に、常に「国家=悪」という拭いがたい刷り込みがあるからです。

左翼というのは、なまじ頭がよくて、なまじ正義感が強いから始末に終えないんです。
自分が正しい、自分こそが真実を知っていると思っている。
まあ、プロの左翼は「自分が正しい」というふり、「自分こそが真実を知っている」というふりをして一般ピープルを騙すわけですが。

彼らは事実を検証して真実を突き止めるのではなくて、まず真実があって、それを証明するために事実を集めようとする。だから自らに都合のよい「事実」ばかりが集まるわけです。
そして「事実」が集まらないときは、南京のように「事実」をねつ造し、慰安婦のように権力が「事実」を隠滅したと言う。

20万人が居住する南京という城塞都市の攻防戦で、非戦闘員に一人も犠牲者が出なかったとは私も思いません。
が、20万人の都市で、欧米人もたくさん住んでいるのに、どうやって30万人も殺せるのでしょうか?30万人の遺体は揚子江の藻屑になって跡形もなく消えたとでも言うのでしょうか?
慰安婦もそうです。
中には軍規に違反した兵が稀にいたかもしれません。が、軍が、あるいは国家が組織的に、計画的に慰安婦を強制連行したという証拠はどこにもない。
軍にも、警察にも、行政官にも朝鮮人はたくさんいたのですから、そして韓国はその軍と警察と行政官を基本的に引き継いだのですから証拠が残っていないのがおかしい。
そう思いませんか?
それとも朝鮮人の軍人や警官や役人が恥をさらしたくなくて証拠を隠滅したとでも???

まあ、いくら言っても左翼というのはある種の“信仰”ですから考えは変わらないでしょう。だから彼らを説得しようなど、考えるだけ無駄です。
完膚なきまでに叩きのめすしかない、そう思います。

私は偏狭と偏見は嫌いですが、左翼とだけは妥協できませんね。
なぜ?
私が「極」の付く左翼だったからです。

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2007/08/01

共産主義はなぜ破綻したのか?(2)

今日も昨日に続き過去のエントリからの転載です。

共産主義はなぜ破綻したのか?(2) 2006/07/14

今日は約束どおり、「なぜ社会主義(共産主義)の思想から、中国や、それ以上に残酷な北朝鮮のような非人間的社会体制が生み出されたのか?」に言及する。

昨日のエントリーで書いた「ソ連的社会主義体制」の崩壊をお読みいただければ、理由の半分以上は既にお解りいただけると思う。

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私は、昨日のエントリーで次のように書いた。

①共産主義社会とは、社会主義社会がさらに発展した人類の理想社会。
②搾取も抑圧も差別もない、真に自由で平等な社会。
③人間が疎外から解放され、もっとも人間らしく生きることのできる社会。
④「一人は万人のために、万人は一人のために生きる」社会。
⑤「各人はその能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」社会。
以上の社会が共産主義社会であり、その理想社会を目指す思想が共産主義である
と・・・・・・

そして、その思想が生まれた社会的、歴史的土壌にも言及した。

①あらゆる人間が「共通の理性」を持っており、世界には何らかの「根本法則」があるという思想が知識人を中心に普及し、
②キリスト教的「倫理観」が社会及び人々の規範になっている。
③そして既に資本主義が高度に発展しており、
④自由、平等、人権という価値観が社会的土壌として存在している。
⑤にもかかわらず、ユダヤ人は「自由、平等、人権」からは疎外されていた。
そういう世界で生まれた「科学に裏付けられたユートピア思想」がマルクス主義なのである
と・・・・・・

また、以下のようにも指摘した。

マルクスは、資本主義そのものは社会の生産力が高まる時代と捉えている。
その資本主義がより成熟し、拡大した生産力に資本主義の体制が耐えられなくなった時、つまり、生産力の拡大に伴なって、資本主義の抱える諸矛盾もよりいっそう深刻化して解決不能になった時に革命が起こり、社会主義に移行すると考えていた。
したがって、革命が起こる可能性があるのは、祖国ドイツか英国、あるいはフランスで
あると想定していた
と・・・・・・

つまり、ヨーロッパの後進国・ロシアで社会主義革命が起きるなんて、マルクスにとってはまったくの想定外であった。

やはり、色々な理由があったとはいえ、ロシア(ソ連)共産党やソ連型社会主義がマルクスのイメージとはかけ離れたものになってしまったのも、そのロシアの後進性による
ところが大きい。
結局、「搾取も抑圧も差別もない、真に自由で平等な社会」を目指したはずの共産主義思想が、世界で最初に実現したのは「搾取も抑圧も差別もあり、まったく不自由で不平等な社会」だった。
近代史上、これ以上の、イデオロギーとそれが実践された結果の乖離が大きい例を
私は知らない。

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中国の場合は、もっとひどい。中華人民共和国が建国した1949年の4年前までは、
中国のほぼ全土(主要部)が日本との戦場だった。 
そして、日本が1945年に敗北した後、一時的に平和が訪れたが、1946年6月には国民党と共産党との内戦(国共内戦)が再び始まる。

日本との戦争前及び戦争中の中国はというと、まったく国としての体をなしていなかった。

1911年に孫文が率いる中国革命同盟会が中心になって辛亥革命を起こし、清朝を
打倒した。革命派は中華民国の建国を宣言した。が、基盤の弱かった革命派は、いくつかの交換条件を結んだ上で、何と清朝の将軍であった袁世凱に実権を譲る。

実権を握った袁世凱は、一時は皇帝になるなど反民主的・専制的な政治を行った。そして袁世凱の死後は、中国全土に軍閥が割拠する時代となる。
孫文の後を継いだ蒋介石が率いる国民党政府も、広東(広州)を中心とする南方軍閥の一つにすぎなかった。

まさに、満州事変(1931年)のころ、酒井隆・支那駐屯軍参謀長が述べた「支那は一つの社会ではあるが国家ではない。あるいはむしろ支那は匪賊の社会であるといった
方が適評」という評価は正鵠を射ていたのである。

1926年、蒋介石は、共産党の協力を得て「国民革命軍」を組織し、相対的に豊かな
華中~華北の10省あまりを支配する北方軍閥に対する討伐戦争を起こした。いわゆる
「北伐」である。
1928年に、蒋介石が率いる「国民革命軍」は、一応は北伐を完了させ、南京を首都にする。
が、前年の1927年には早くも共産党が戦線を離脱し、「国共内戦」が始まっていた。
そして、「国共内戦」開始に伴ない、「国民革命軍」に参加していた旧・軍閥も離脱し
独立。
蒋介石と国民党が目指した中国の統一は事実上、失敗に終わった。

そして1931年には満州事変が起こる。
1937年には日中戦争(支那事変)が開始され、この戦争は1945年まで続く。国民党
政府は、戦争開始から4ヵ月後の11月には南京から奥地の重慶に政府を移し(逃亡)、中国のごく一部を支配するのみになった。

つまり近代中国の歴史は、清朝時代の後半は、日・欧・米の半植民地。清朝崩壊後は、戦乱に明け暮れ、一時も国としての体を成したことがなかったのである。
資本主義も未発達で、買弁資本家が中心だった。もちろん、民主主義の価値観など
カケラもなく、革命以前のロシアよりひどい前近代的な封建的・分立国家であったと
言ってよい。
こんな国で、いきなり社会主義革命が起こった。しかも、当時の中国共産党の指導者は「政権は銃口から生まれる」という「唯武器論者」の毛沢東だったから中国人民はたまらない。

※(注)
「買弁資本家」とは、植民地・半植民地または開発途上国で、外国の資本と結びつき、利害をともにする資本家のこと。本来は「貿易商」の意味。

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私は、毛沢東はマルクスの思想を理解していなかった(理解できなかった)と思っている。
彼は、レーニンから「暴力革命の戦略・戦術」を学び、スターリンから「共産党による独裁の手法」を学んだだけで、マルクスの思想の核心にあるのものは理解していない。
彼が理解した共産主義思想は、ソ連共産党によってゆがめられたドグマ(教理・教条)にすぎなかった。
そう断言できる。

毛沢東の「人民戦線論」や「統一戦線論」、そして「農村から都市を包囲する」という
有名な戦略も、レーニンの革命論を、資本主義が未発達で農民が社会のほとんどを
占めていた中国の実情に合わせて焼き直したものである。

毛沢東は、日中戦争末期の1945年に開催した中国共産党大会における政治報告で、「一部の人は、共産党が権力を得たのち、ロシアにならってプロレタリア独裁、一党制度を打ち立てるのではないか、と疑っている。しかし、我々の、いくつかの民主的階級の
同盟による新民主主義国家は、プロレタリア独裁の社会主義国家とは原則的に違ったものである」と述べている。

「新民主主義国家」、美しい響きを持った言葉である。
が、これはまったくのウソだった。
その「新民主主義国家」は「プロレタリア独裁の社会主義国家とは原則的に違ったものである」どころか、もっとひどい「共産党による強権的独裁国家」であった。
この手法も、ロマノフ朝を打倒するまでは社会革命党(メンシェビキ=少数派の意味だが実は多数派)や無政府主義者と共闘しながら、革命が成功すると、彼らを排除し、
ロシア共産党(ボリシェビキ=本当は少数派)による一党独裁体制を確立したレーニンのやり方にそっくりである。

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1957年、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、ソ連が15年以内に鉄鋼、石油などの
生産高の面で米国を上回るだろう、と宣言した。
当時モスクワに滞在していた毛沢東は、兄貴分であるソ連に負けじと、中国は15年
以内に英l国を追い越すだろうと語った。この発言は、世界各国共産党首脳たちの熱烈な拍手を浴び、中国国内でも盛んに宣伝された。

これに気をよくした毛沢東は、1957年に約535万トンであった中国の鉄鋼生産高を翌年には倍の1,070万トンにするよう命じた。ここから全人民製鉄・製鋼運動が展開される
ことになった。
しかし、本格的な製鉄コンビナートを作るだけの資本も時間もない。いらだった毛沢東は、産業革命以前の「土法高炉」を全国に展開し、人海戦術で鉄鋼生産を行うことを
命じた。
しかし、素人が薪をくべて作った鉄は、農機具用にすらならなかった何と、6千万人もの
労働力を投入したのに、308万トンの何の役にも立たない「牛の糞」のような鉄が作られただけに終わったのである。

鉄鋼増産と並んで、毛沢東の念願であったのが、人民公社(労・農・学・兵が結合した自治組織)による農村の共産化である。これは、パリコミューンやソ連のソビエト(労働者・兵士による評議会)を意識したものだった。
「共産主義は天国だ。人民公社はその掛け橋だ」というスローガンが、1958年以降、
中国全土に響き渡った。

人民公社は地方の共産党官僚の管理化におかれ、やがて各公社 が、毛沢東の歓心を得ようと、食糧増産の大ボラ吹き競争を始め る。

ある公社が、今まで1畝(6.7アール)あたり200斤(100k g)程度しか小麦がとれなかったのに、2千105斤もの増産に成功したとのニュースを人民日報で流した。毛沢東が
提唱した、畑に隙間なくびっしりと作物を植える「密植」により出来高が10倍にもなったというのである。
すると、他の公社も負けじと、水稲7千斤、1万斤などという数字を発表し始めた。8月には湖北省麻城県で、1畝あたり稲の生産高3万6千956斤というニュースが報道された時、人民日報は四人の子供が密植された稲穂の上に立っている写真まで掲載した。

出来高の水増し報告により、農民が上納すべき食料の量も増やされ、農民自身の取り分は大きく減らされた。こうして、農民たちの製鉄運動への駆り立てと人民公社化(農地の共有化)による効率低下、さらに上納分の大幅増加により食糧備蓄も底をつき、1960年から61年にかけて、中国全土を猛烈な飢饉が襲った。
これが、毛沢東が煽った「大躍進」政策の実態である。

その「大躍進」政策で中国人民が得たものは、308万トンの何の役にも立たない「牛の糞」のような鉄と3千万人に及ぶといわれる餓死者であった。

このような事態の深刻さは、地方からの水増しされた食糧増産報告のため党中央には届かなかった。その結果、飢饉の最中である1960年に、270万トンに及ぶ食料の強制徴発と、それを輸出に回すという信じがたい行為が実行されたのである。
270万トンの食料は、3千万人が半年間食いつなぐのに十分な量だった。

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1961年初めには、さすがの毛沢東も「大躍進」政策を続けることができなくなり、劉少奇や鄧小平などの実務派に政治運営を譲った。鉄鋼増産運動は中止され、農民の収入も働きに応じて分配されるようになった。
鄧小平が「白猫でも黒猫でもネズミをとるのが良い猫だ」という発言をしたのは、この頃だ。「ネズミをとる」とは、「国民を食わせる」という事なのである。

が、毛沢東がおとなしく黙っているはずがない。マルクスの思想など理解せず(できず)、とにかくソ連にならって中国を東アジアの大国に、いずれは世界の強国にしたいと念願していた彼は、1965年に「文化大革命(文革)」を発動する。
そして、尊敬していたスターリンと同様に、個人崇拝・神格化に成功した(これは、昨日も述べたが、マルクスがもっとも忌避するものである)。

事情をよく知らないそのころの私は、これは「労働者(プロレタリア)独裁」を進めるための「永続革命」の一環であるとして最初は支持した。
が、実態は、林彪を「軍の足場」に江青や張春橋らの「四人組」を「政治の足場」にして実権派とされた当時の中共指導部である劉少奇や鄧小平らを追い落とすための権力闘争であった。

この混乱は、約10年間続き、内戦や虐殺及び強制労働などで、6百万人とも3千万人とも、果ては5千万人が犠牲になったとも言われている。
文革以降の歴代政権が、これに触れることを「タブー」にしているため、正確なところはよく解らないのが実情であるが、数千万人が犠牲になったのは間違いないようだ。

※(注)
「四人組」とは、1960年代半ばから約10年間にわたり、毛沢東が発動したプロレタリア文化大革命(文革)によって浮上した江青(中央文革小組副組長、毛沢東夫人)、張春橋(副首相、政治局常務委員)、姚文元(政治局委員)、王洪文(党副主席)の新権力グループを指す。文革では様々なグループが登場したが、林彪グループと並ぶ一大勢力を形成、主に上海を拠点にして活動した。

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1970年代半ばごろ、大躍進の失敗とそれに続く文革による大混乱で、中国は疲弊し、まさに存亡の機にあった。これを救ったのが鄧小平である。毛沢東亡き後、四人組
を打倒し実権を握った鄧小平は、「永続革命」路線から「改革開放」路線へとコペルニクス的転換を図った。

1978年12月の11期3中全会において決定されたこの路線の本質は、「白猫でも黒猫でもネズミをとるのが良い猫だ」という鄧小平の有名な言葉が総てを言い表している。
この言葉は、「資本主義でも社会主義でも、どちらでもよい。要は、中国が豊かになり、民衆がメシを食えるようになるのが先決だ」と読み替えることができる。

この時点で中国は、政治的制度としての共産主義を維持ししつも、イデオロギーとしての共産主義は捨て去り、経済成長至上主義に転換したといってよい。
実際のところ、1983年から88年の平均成長率は11.4%で、驚くべき急成長を遂げた。
ところがこの「改革開放」路線の延長線上に、1989年6月「天安門事件」が発生する。
中国共産党指導部は、この「事件」を戦車を動員して強権的に制圧した。

この人民の党と、その指図を受けた人民の軍が人民を虐殺した事件は、中国社会に
動揺をもたらした。
「強権的制圧」を指示した者にお咎めはなく、逆に、「改革開放」の旗手であり、「強権的制圧」に反対した趙紫陽・総書記が解任されたからである。加えて、人権に敏感な欧米諸国が中国に対して経済制裁を実行した。
その結果、「改革開放」の雲行きが怪しくなってしまった。

これに対して鄧小平は、1992年1~2月、広東省や上海市などの南方視察を行い、そこで華南地区の発展ぶりを称え、「改革開放は100年流行る」と言明、「てん足女のようなヨチヨチ歩きではダメだ。改革開放をさらに加速させなければならない」(南巡講話)と
全国に檄を飛ばしたのである。
元々、鄧小平の「改革開放」路線は、「先に豊かになれるものから豊かになれ」と、一時的な経済格差を容認する「先富論」であり「先に豊かになった地区(沿海部、都市部)が後発地区(内陸部、農村部)を支援すればよい」というものだった。
したがって、この鄧小平の「激」を受けた地方の党幹部たちは、我先にと、こぞって市場経済へ向けて走り出したのである。

※(注)
「天安門事件」とは、中国北京の天安門広場において起きた民衆の抗議運動。
文化大革命が否定される中、1981年に中国共産党主席に就任した胡耀邦は、思想解放を掲げ、改革を推進したが、反発を受け、1987年に失脚した。
その後、1989年4月に死去した胡耀邦の追悼行事が天安門広場で行われ、これを非難する当局に対して、学生や市民の抗議運動が広がっていった。
1989年6月4日、天安門広場において、民主化を求める学生や市民に対して人民解放軍が武力弾圧する事態となった。

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この鄧小平が唱えた「改革開放」には致命的欠点が、いくつかあった。 
その一つは、社会が市場経済に向けて走り出したにもかかわらず、もっとも重要な
「そのルール」を定めなかったことである。
また、市場経済化に不可欠な「政治の民主化」を先送り(弾圧)したために、下部構造(経済)は資本主義(市場経済)なのに、上部構造(政治や国家)は共産党による一党独裁という、極めてゆがんだ形の国家・社会を生み出してしまった。

つまり、マルクスの思想に基づいているはずの国家が、マルクスの「下部構造としての経済が政治や国家さらには人間意識といった上部構造を決定する」という理論とは逆になってしまったのである。
そして、共産主義から市場経済に転換したにもかかわらず、共産主義イデオロギーに
取って代わる社会的規範作りを怠った。

以上をまとめてみる。

①市場経済にルールがない。
②共産党による一党独裁のため、党官僚の恣意的判断でどうにでもできる。
③民主化を弾圧したため、言論の自由がまったくない。
④市場経済化によって共産主義イデオロギーが「規範」としての機能を喪失した。
⑤共産主義イデオロギーに代わる政治的・社会的「規範」が作れなかった。

これらに次のことが加わる。

①宗教を弾圧してきたために、宗教的道徳心や倫理観が社会から欠如している。
②社会に共通する価値観が、「カネ」と「モノ」しかなくなった。
  (まさに、下部構造としての資本主義が人間意識だけは決定したのである)
③民主主義の経験がまったくないため、社会全体に「人権」というものの認識がない。
④歴史的に「人の命は紙よりも軽く、欲望は底なし沼より深い」という国民気質がある。

その結果が以下のような社会を生み出したのである。

①業者と結託して当局(地方の党・政府)が、涙ガネで農民の土地を取り上げる。
  (失地農民は全国で4千万人以上。毎年200万人以上のペースで増加中)
②農耕が不可能になるほどの工場による汚染が頻発する。
③業者と当局が結託して石炭の違法採掘を行うため、人身事故が頻発する。
  (2005年の労災事故は69万1,057件で労災死者は11万9,827人)
④国民の3分の2(66%)が無保険な上、医療費が高額なため医者にかかれない。
⑤外貨準備高世界一だが、1日の収入1ドル未満の貧困人口も1億7千3百万人いる。
⑥警察官が住民(特に出稼ぎ者=民工)に対して恐喝を平然と行う。
  (1億人を超える民工は都市戸籍がないので人間扱いされない)
⑦裁判官までが賄賂次第なので、不公平な裁判がまかり通る。
⑧医療関係者まで絡んだ誘拐・人身売買が跡を絶たない。
  (人身売買は、摘発されただけでも2001~03年の3年間で2万360件、4万2,215人)
⑨模倣品の市場総額は1,600億~2,000億元(2兆2,400億~2兆8,000億円。
  (2001年・国務院推計)
⑩密輸品は6年間で9万件以上、2兆6,000億円(1998~03年摘発分)。
⑪党や政府の幹部が、収賄や公金横領を平然と行う。

書き始めると切がないので以上で止めるが、それにしても凄まじい社会である。
人間の「真の自由と平等」を目指す思想に基づいて作り上げた国が、もっとも不自由で不平等な社会になる。
その原因は、まず第一にマルクスの思想にある。第二にレーニンによってゆがめられたロシア革命にある。そして、中国の場合は、マルクスの思想が持つ欠陥+レーニンと
スターリンによる歪曲、そこに中国的特殊事情がプラスされた。

毛沢東時代は、共産主義というドグマが何千万人もの人民の命を奪った。毛沢東の後は、共産党による独裁体制が、人民を抑圧し搾取することを合目的化した化け物のようなシステムに進化した。
要は、そういうことではないか。

ソ連は、その体制の劣化に耐え切れず崩壊したが、それを後押ししたのがミハイル・
ゴルバチョフ書記長による情報公開(グラスノスチ)であった。
中共は今、言論統制にやっきになっている。ソ連の二の舞いを恐れているのであろう。
が、今の、下部構造が「市場経済」で上部構造は「共産党独裁」という歴史上例のない体制が長続きするとは思えない。

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北朝鮮に関して書く時間がなくなってしまったので、簡潔に言及する。

マルクスの思想をゆがめた形で現実化したのがロシア革命(レーニン及び後継者のスターリン)だった。そのロシア(ソ連)の共産主義を模倣し、さらに中国的にアレンジしたのが毛沢東である。
なぜなら、革命当時の中国はロシアよりさらに遅れており、しかもアジア的特殊性もあったので、アレンジするしかなかったのである。

北朝鮮の場合は、ロシアより遅れていた中国より、さらに遅れていた。中世から近代にかけて政治的・文化的・経済的に完全に独立したことが一度もない。
近代までは一貫して中国の属国であったし、20世紀に入ってからは日本の植民地になった。しかも、植民地時代の日本が残した遺産のかなりの部分は朝鮮戦争で喪失している。
それでも1960年代前半までは、日本が残した遺産のおかげで韓国よりは経済的には上だった。が、それもソ連や毛沢東時代の中国と同じで、時代の変化に体制がついて行けず、急速に劣化・陳腐化していくのである。

また、北朝鮮を赤化した当時の朝鮮労働党(共産党)の幹部は、首領の金日成を
始め、モスクワに留学していない。この点も、毛沢東を除いては、幹部の多くがモスクワ留学組だった中国共産党との大きな違いである。
要するに、朝鮮労働党(共産党)の幹部は、金日成を始め、マルクスの思想の核心は
おろか、ソ連型の共産主義思想(スターリン主義)さえ満足に理解していなかったのではないか!

だから、一党独裁、計画経済、個人崇拝という、スターリンや毛沢東がやったことの
外形だけを真似た。中身(思想)はまったくなし。
思想がまったくないから、スターリンも毛沢東も考えなかった「権力の世襲」を実行し、
チュチェ思想などという、訳のわからない教義を打ち立てる。
北朝鮮は、マルクス主義ともスターリン主義とも毛沢東主義とも無縁な、中世の封建的・半奴隷制国家であると理解してもらいたい。

北朝鮮については、チュチェ思想も含めて、改めて言及したい。

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※データ等で、出所が明らかにされていないものは、すべて過去のエントリーから引用したものです。

【特記】
コメント及びTBを許可制にさせていただきました。
カキコやTBがすぐには表示されませんが、勘違いして何度も送信することのないよう
ご注意ください。

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2007/07/31

共産主義はなぜ破綻したのか?(1)

過去のエントリで評価が高かったものを再掲させていただきます。

共産主義はなぜ破綻したのか?(1)  

今日(11日)は、午後2時半にエントリーを書き上げ、ココログにアップしようとしたところ、何とメンテナンス中で不可。
メンテナンスは13日(木)の午後2時まで続くというからガッカリ、というかウンザリ。
皆さんにも、コメントやTBでご迷惑をおかけすることになると思うので、この場を借りて
お詫び申し上げる。

ただ、ガッカリ&ウンザリしていても仕方がないので、今日から明日(12日)にかけて、普段は時間がなくて書くことがなかなかできないテーマのエントリーを書くことにする。

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皆さんの中には、なぜソ連のような社会主義(共産主義)体制が破綻したのだろう?
なぜ社会主義(共産主義)の思想から、中国や、それ以上に残酷な北朝鮮のような
非人間的社会体制が生み出されたのだろう?と思われている方もおられると思う。
今回は、そのことに言及したい。

このことを明らかにするには、20世紀の世界に最大の影響を及ぼした共産主義思想とは何だったのか、人間とは何なのかまで踏み込まざるをえない。
したがって、限られた時間とスペースの中では書きつくすことは不可能に近い。が、できる限りのエネルギーと、持ちうる限りの知識、経験を費やしてチャレンジしてみようと
思う。

長いエントリーになるし、中には難解な言葉も出てくるので、途中で投げ出したくなる
かもしれないが、世界や人間を知るうえで必ず参考になると思うので、できれば読み
通してほしい。

なお、ここでは、社会主義という言葉は共産主義に通じると理解してもらいたい。なぜなら西欧では、社会主義というと、一般的に社会民主主義(社民主義)のことを指すからだ。
また、よくマルクス主義とも言われるが、それは、ドイツ人のカール・マルクスが共産主義思想の始祖であるためで、共産主義と同義である。

これから述べることは、少々むつかしいかも知れないが、高校のころの世界史を復習するつもりで読んでほしい。

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歴史上、最初に社会主義革命を成功させたロシアのウジミール・レーニンによれば、
マルクス主義の基本的源泉はドイツの哲学、イギリスの経済学、フランスの社会主義の三つとされる。(「マルクス主義の三つの源泉」)
ただ、この捉え方は、「ステレオタイプすぎる」という批判も強く、実際のところ、マルクスが洞察した内容はもっと奥行きが深いと思う。
が、だからと言って、レーニンの捉え方が間違っているわけではない。

マルクスが、
①ゲオルク・ヘーゲルやルートヴィヒ・フォイエルバッハなどのドイツ観念論、
②アダム・スミスやデヴィッド・リカード、ロバート・マルサスなどのイギリス古典学派
経済学、
③サン・シモンやシャルル・フーリエ、ロバート・オーエンなどの、いわゆる「空想的社会主義」
を批判的に摂取し、「科学的社会主義」へと発展させたことは事実である。
「科学的社会主義」を具体的に言うと、「弁証法的唯物論」と「史的唯物論」と「資本論」である。

「弁証法的唯物論」や「史的唯物論」などと言うと、文字を見ただけで「嫌になりそう」という声が聞こえてきそうなので、今回はそういうところまでは、できるだけ言及しないようにしたい。

ところで、レーニンの唱えた「マルクス主義の三つの源泉」が、なぜ「ステレオタイプ」と批判されるのか?
それは、マルクス自身及びマルクスが自らの思想をまとめ上げていった当時の時代
背景に対する考察が不足しているからである。
もっとも、マルクスが哲学者であり、経済学者であり、そして革命家であったのに対し、レーニンは純粋な革命家であったから、理解が単純化されたのは必然であったのかもしれない。

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マルクスはユダヤ人である。マルクスが生きた1818年~1883年のころは、まだゲットー(都市の中でユダヤ人が強制的に住まわされた居住区)が存在していた時代である。
特に、マルクスの祖国・ドイツでのユダヤ人差別はひどいものがあった。

そのような時代にあって、父はユダヤ教からキリスト教(プロテスタント)に改宗した。
職業は弁護士。母はオランダ生れのユダヤ人だが、父よりユダヤ性向が強く、日常生活ではイディッシュ語(ユダヤ語)を話していた。マルクス自身も6歳の時、プロテスタントとして洗礼を受けている。
マルクスの思想を理解する上で、彼の出自が被差別民族であったという事実は見逃せない。

また若かりし日には、啓蒙思想にも大きな影響を受けている。
啓蒙思想は、あらゆる人間が「共通の理性」を持っているとの「肯定的命題」を立て、
世界に何らかの「根本法則」があり、それは「理性」によって認知可能であるとする考え方である。方法論としては自然科学的方法を重視した。
マルクスは高校生時代に、教師を通じて、フランスの啓蒙思想家・ジャン-ジャック・
ルソーが唱えた社会契約説の影響を受けた。ルソーの考えは、「社会や国家は自由で平等な諸個人の契約によって成立する。主権は人民にあり、政治体制は主体の意志に従う」というものである。
この啓蒙思想は、フランス大革命にも大きな影響を与えた。

私は、
①この啓蒙思想の、あらゆる人間が「共通の理性」を持っており、世界に何らかの「根本法則」が存在するという考え方、
②特に「主権は人民にあり、政治体制は主体の意志に従う」というルソーの主張、
③そしてキリスト教(ユダヤ教)の「唯一神信仰(神=真理は一つ)」と、
④出自が被差別民族(ユダヤ人)であるという潜在意識が、
マルクスの思想の「根っこ」にあると思っている。

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マルクスにとって、というか、マルクスの生きた時代においては、ヨーロッパと北米が
「世界」であった。それ以外は、「未開の地」か「未知の地」であり、マルクスの「世界」には、アラブもインドも中国も存在しない。
ここでいう「アラブもインドも中国も存在しない」というのは、「知識」としてではなく、
「認識」としての意味である。

ヨーロッパ(英国)が清(中国)を最初に侵略した阿片戦争は1840年、ヨーロッパ諸国がアラブ(イスラム)世界の覇権をめぐって戦ったクリミア戦争が1853年。ムガール帝国
(インド)が完全に英国の植民地になったのは1858年。
マルクスが生きた時代を考えれば、アラブやインド及び中国は、マルクス的世界においては「外界の存在」にすぎず、アフリカや南米は「未開の地」であったと言ってもよい。

つまり、「白人」及び「キリスト教(ユダヤ教)文化圏」がマルクスの「世界」なのである。
その「世界」には既に、資本主義が高度に発展した国々が存在し、自由や平等、人権といった民主主義の基本的価値観が社会的土壌としてあった。

アメリカ独立革命やフランス大革命が起きたのは、マルクスが生まれるよりずっと前だった。
アメリカ独立革命(1775~1783年)は、独立宣言で「全ての人間は平等に造られている」と謳い「(自然権としての)生命、自由、幸福を追求する権利」を掲げた。
フランス大革命も、人権宣言で「自由の保障・人民主権・法の下の平等」という近代
民主主義の基本的価値観を謳いあげた。

要するに、
①あらゆる人間が「共通の理性」を持っており、世界には何らかの「根本法則」があるという思想が知識人を中心に普及し、
②キリスト教的「倫理観」が社会及び人々の規範になっている。
③そして既に資本主義が高度に発展しており、
④自由、平等、人権という価値観が社会的土壌として存在している。
⑤にもかかわらず、ユダヤ人は「自由、平等、人権」からは疎外されていた。
そういう世界で生まれた「科学に裏付けられたユートピア思想」がマルクス主義なのである。
そしてマルクス自身は、その世界においては被抑圧民族であるユダヤ人だった。

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ここまで読んだだけで、なぜソ連が破綻したのか、なぜマルクスの思想(共産主義)から中国や、それ以上に残酷な北朝鮮のような非人間的社会体制が生み出されたのかが、ある程度は解った方もいると思う。

もちろん、もっと様々な問題が「なぜ?」を解明するうえで存在する。
その様々な問題に言及する前に、ここで共産主義について簡単に説明しておこう。
以下は、カール・マルクスが定義した共産主義社会についての私なりのまとめである。

①共産主義社会とは、社会主義社会がさらに発展した人類の理想社会。
②搾取も抑圧も差別もない、真に自由で平等な社会。
③人間が疎外から解放され、もっとも人間らしく生きることのできる社会。
④「一人は万人のために、万人は一人のために生きる」社会。
⑤「各人はその能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」社会。

以上の社会が共産主義社会であり、その理想社会を目指す思想が共産主義である。

ここで、共産主義社会とは、社会主義社会がさらに発展したものと書いた。
マルクスによれば、社会主義社会とは「各人はその能力に応じて働き、労働に応じて
与えられる」社会である。そして、社会主義社会において、生産力が最大限に発達しきった段階でようやく共産主義社会に到達する。

※(注)
ここにおける「労働」は、資本主義下における「労働」とは違う。

なお、社会主義社会の前段として、「労働者(プロレタリア)独裁社会」が不可避とされる。
なぜなら革命が成功しても、労働者階級(プロレタリアート)が司法・立法・行政の三権及び軍を独占し、資本家階級(ブルジョアジー)を駆逐しない限り、常に資本家階級
(ブルジョアジー)による「反革命」の危険にさらされるからである。マルクスは、これを、1871年のパリ・コミューン(世界初の労働者階級による民主国家)の失敗から学んだと思われる。

資本家階級(ブルジョアジー)を駆逐し、「労働者(プロレタリア)による独裁」が実現して初めて社会主義社会への扉が開かれる。
労働者(プロレタリア)独裁下では、資本家階級(ブルジョアジー)の駆逐と共に、生産手段の社会的共有と富の平等な(労働に応じた)分配が進められる。
そして、資本家階級(ブルジョアジー)がなくなり、生産手段の社会的共有と富の平等な(労働に応じた)分配が完全に実現したときから社会主義社会が始まる。

社会主義の初期段階では、まだ国家も貨幣も残存している。が、社会主義がさらに
発展すると、国家は死滅し貨幣も廃棄され、富も「各人はその能力に応じて働き、労働に応じて与えられる」社会から「各人はその能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」社会になる。
これが、共産主義社会だが、なぜ、そんなことが可能になるのか?

私が学んだ範囲では、その「なぜ?」に対する確信的な答えは見出せなかった。
だから私は、次のように勝手に解釈した。

計画経済により供給と需要が均衡するので、資本主義のような好況-不況-恐慌という景気の極端な変動がなくなり、安定的な経済成長が可能になる。投資や資源の配分も効率的かつ効果的に行われるから、さらなる成長を促す。
つまり、効率的かつ効果的な投資と資源の配分が、安定した高い経済成長をもたらす。高い経済成長が新たな投資と資源を生み出し、その効率的かつ効果的な再配分が、
さらなる成長の基盤になる。
そういう「無限の成長サイクル」ができ上がる。

また、生産手段が社会的に共有されているので、働く主体(人間)が搾取されることもなく、抑圧からも解放される。失業の恐れもなくなり、働く主体(人間)の労働意欲も向上する。
したがって、「無限の成長サイクル」+「労働意欲の向上」が、相乗効果も伴なって
「生産能力の飛躍的拡大」を可能にする。
だから、やがて「必要に応じて与えられる」ような社会が実現する。

経済(下部構造)が政治や国家(上部構造)を決定するから、そういう理想社会(生産力が極限まで発展し、司法・立法・行政の三権と生産手段のすべてを人民が共有する
社会)になれば、上部構造としての国家は死滅する。
生産手段が社会的に共有され、かつ供給と需要が均衡しており、「各人は必要に応じて与えられる」から、価値交換の媒介としての貨幣(交換価値)も必要なくなる。

以上が私なりの勝手な解釈だった。

※(注)
「生産手段の社会的共有」は、資本主義社会において「私有財産の廃止」と理解されている場合が多い。が、これは、(悪意の込められた)誤解である。
「生産手段の社会的共有」とは、工場や土地などの「生産手段の私的所有廃止」が
その核心であり、個人的生活を営む上での必需品まで否定されるわけではない。

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かつてマルクスの教えを信じていた私は、今は、このような考えを完全に否定するようになった。
それは、極めて単純な理由からである。
「必要に応じて与えられる社会」が可能であるためには、その社会が「無限に近い生産力を持っている」か、全ての人間が「必要限度をわきまえている」かの、いずれかが
必要である。
社会が「無限に近い生産力を持てるようになる」とは、現実の世界を踏まえれば考えられないし、また全ての人間が「必要限度=節度と中庸をわきまえる」ことができるとは
絶対に思わない。
もう、この時点で、マルクスが夢見た理想郷は、私にとっては科学とは無縁の「願望」としか思えないようになったのである。

私の50数年の人生経験から言えば、人間の原点は「欲望」である。その「欲望」をどこまでコントロールできるのかが「理性」である。
が、「理性」は人によって千差万別である。中には「理性とは無縁」と思える人間もたくさんいる。だから、あらゆる人間が「共通の理性」を持っているなんて、とても信じられない。
「下部構造としての経済が人間意識までも決定する」「人間の社会的存在がその社会的意識を規定するのであって、その逆ではない」とマルクスは言う。
この捉え方はある面では正しいと思う。ただ、「現実の人間」を見れば、あまりにも一面的にすぎる。

※(注)
ここで言う「理性」とは、自己の内にある矛盾(葛藤)を止揚して、より高い次元へ至る
「具体的な思考能力」を意味する。

労働力を商品として資本家に売らなければ生きていけない社会から、自分の生命活動(生きること)を意欲や意識の対象にし、人間に特有の活動的機能である労働に自由や生きがいを感じることのできる社会に変わったからといって、人間の本質というか、根源的な部分は変えようがない。
私は、そう思う。

マルクスは、弱冠26歳で書いた「経済学・哲学手稿」の中で、次のように書いている。

疎外された労働は、人間から(1)自然を疎外し、(2)自己自身を、人間に特有の活動的機能を、人間の生命活動を、疎外することによって、それは人間から“類”を疎外する。疎外された労働は、(3)人間の“類的存在”を、すなわち自然をも人間の精神的な“類的能力”をも、人間にとって疎遠な本質として、人間の個人的生存の手段としてしまう。疎外された労働は、人間からそれ自身の身体を、同様に人間の外にある自然を、また人間の精神的本質を、要するに人間の人間的本質を疎外する

これは、それなりに有名な一節である。が、ちょっと難解で、理解できない方も多いと
思う。私は次のように理解している。

人間は本来、社会的生き物である。個体としての存在ではなく、自分と同じ存在である他人との関わりの中での自分である。
つまり人間は“類的存在”なのである。
その“類”としての生活から、資本の下で賃労働に従事する人間は疎外されている。
賃労働によって、人間に特有の活動的機能である労働が、「個人の生存を維持する
手段」に貶められている。
本来の人間は、自分の生命活動(生きること)を意欲や意識の対象にしており、社会的生き物=“類的存在”であろうとする。そこに自由や生きがいを感じるのであり、動物の生命活動が「生きることそのものである」のとは明らかに違う、と・・・・・・

が、私は思う。人間も動物であると。
まず「生きることそのもの」が「生命活動」の第一義的目的であり、それは本能の領域に存する。自分の「生命活動(生きること)」を意欲や意識の対象にできるのは、その第一義的目的が満たされた後の話である。
そして、世界中のすべての人々が、その第一義的目的を満たされる日は、未来永劫にわたってありえない。

人間は弱い。常に「欲望」に負けそうになる。「理性」だけでは対応できない。
ここにおける人間は、「下部構造としての経済が云々」や「人間の社会的存在が云々」では理解できない。もっと奥深い、「人間存在」そのものが抱える根源的な問題なのではないか。
だから強制的規範としての法律がある。倫理や道徳がある。宗教心も、倫理や道徳を涵養する上で欠かすことができない。
そもそも、「人間存在」を「科学できる」と思うことそのものが、大きな間違いなのである。

※(注)
ところで、マルクスは宗教を「アヘン(痛み止め)」として否定している。
ただマルクスの言いたいことは、宗教の全否定というより「(宗教は)痛み止めのアヘンだけを与えて病気の原因治療をしないのと同じだ」という意味であるから、宗教の持つネガティブな部分を射ているとも言える。

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ここで、なぜソ連のような社会主義(共産主義)体制が破綻したのか?なぜ社会主義(共産主義)の思想から、中国や、それ以上に残酷な北朝鮮のような非人間的社会
体制が生み出されたのか?という本題に入ろう。

私はマルクスの思想が、以下の条件の下で生まれたと前述した。

①あらゆる人間が「共通の理性」を持っており、世界には何らかの「根本法則」があるという思想が知識人を中心に普及し、
②キリスト教的「倫理観」が社会を及び人々の規範になっている。
③そして既に資本主義が高度に発展しており、
④自由、平等、人権という価値観が社会的土壌として存在している
と・・・・・・

マルクスは、資本主義そのものは社会の生産力が高まる時代と捉えている。
その資本主義がより成熟し、拡大した生産力に資本主義の体制が耐えられなくなった時、つまり、生産力の拡大に伴なって、資本主義の抱える諸矛盾もよりいっそう深刻化して解決不能になった時に革命が起こり、社会主義に移行すると考えていた。
したがって、革命が起こる可能性があるのは、祖国ドイツか英国、あるいはフランスで
あると想定していた。

ところが、実際に革命が起きたのはロシアであった。
当時のロシアは、マルクスの思想が生まれた土壌とはあまりにも違いすぎた。
1861年に農奴解放令が出されたものの、農民の生活は一向に向上しなかった(ミールと呼ばれる、司法・行政権力を有した村落共同体の小作農に変わっただけ)。19世紀末に産業革命が起こったものの、ヨーロッパの大国の中では、資本主義はもっとも遅れていた。
政治体制も、ロマノフ朝による絶対専制(ツァーリズム)支配が貫徹されており、自由、平等、人権という価値観からは、ほど遠い社会だった。
つまり、もっとも社会主義革命にふさわしくない国で革命が起きてしまった。これが不幸の序章になるのである。

ロシア革命では、マルクスが考えていた革命を指導する「前衛(共産主義者)」が、
「前衛党(共産党)」になってしまった。
このロシアの共産党はボリシェビキ(多数派という意味だが、実際は少数派だった)を
名乗り、労働者・農民を覚醒させるためには「前衛党(共産党)」による指導が必須と
考えた。

マルクスがイメージした「労働者(プロレタリア)独裁」はパリコミューンのイメージがあった。そして、ロシアでも同様に労働者や兵士を中心にしたソビエト(評議会)が地域ごとに組織され、これが司法・立法・行政の三権及び軍を独占し、永続革命の推進母体になるはずであった。
が、民主主義的価値観とはほど遠い社会だったロシアでは、「前衛党(共産党)」が
司法・立法・行政の三権及び軍のすべてを独占し、ソビエト(評議会)は名のみの存在となり、「労働者(プロレタリア)独裁」は「共産党独裁」に変質した。

※(注)
「ソ連」とは、「ソビエト(評議会)によって構成された国家の連邦体」という意味である。

ロシア共産党は、ロマノフ朝による絶対専制(ツァーリズム)から厳しい弾圧を受け、
革命後は、常に反革命派(白軍)やそれを支援する欧米列強(日本を含む)に脅かされた。
そこで、この党は、「下部組織は上部組織に従う」という「民主集中制」を組織原則にし、「鉄の規律」を保ち、社会のあらゆる部門に党委員会や党細胞を張り巡らせて社会を
統制していった。
この体制は、本来は「戦時体制」のはずであったが、ロシアの後進性と指導者に都合のよいシステムでもあったため、その後も継続されて行くことになる。

このようにして共産党による強権的支配体制が確立され、しかも共産党は、「下部組織は上部組織に従う」という組織原則によって貫かれたため、社会はもちろん「前衛(共産主義者)」の組織であるはずの共産党内でも自由な言論は完全に封殺された。

そのような中で、前近代的社会から一気に社会主義社会に導くために、強引な農業の集団化や重工業偏重の政策が推進された。
また、強引な政策を貫徹するためには、強力な指導力が必要とされたため、指導者
(ヨシフ・スターリン)は、その政敵(レフ・トロツキーやニコライ・ブハーリン)を追放し、
粛清した。また、党内の反対派もほとんどが強制収容所送りか処刑になった。
スターリンによる独裁は、彼の個性にもよるが、以上のようなロシア的特殊性も大きく
影響している。

共産党の政策により、ウクライナを中心に、農地の収用に反対する農民たちは数十万人単位で殺害された。反革命派(白軍など)だけではなく、元貴族や資本家、富農たちも同様の運命をたどった。中には、反革命派や資本家、富農に仕立て上げられて強制収容所送りや処刑になった者もたくさんいた。
そして残ったのは、マルクスがもっとも忌避した「スターリンの個人崇拝と神格化」及び数千万人とも言われる犠牲者たちである。

※(注)
ヨシフ・スターリンは、ロシア革命の指導者であったウジミール・レーニンの後継者で
ある。

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初期のソ連は、1930年代に資本主義諸国を襲った大恐慌とは無縁であり、かなり高い経済成長を遂げた。
またノルマと呼ばれた計画生産数値の設定は、生産物の質より量が重視されたこの
時代では一定の効果があり、ソ連の鉱工業生産を大いに高めた。
このような、資本主義諸国の没落(大恐慌)とソ連の躍進を見て、ソ連型社会主義(スターリン主義)を礼讃する論調が世界的に数多く見られたのも事実である。

が、急速な工業化推進の原資は、農業から余剰を絞り出す形で行われたので、その分、農業部門が立ち遅れた。1933年には、そのツケが回って大飢饉が起きた。
ところがヴャチェスラフ・モロトフ書記は、ノルマ達成のために農民が次年度用に貯蔵
している種子までも取り上げるように地方幹部を叱責した。その結果、32年から33年にかけて500万人~700万人とも言われる餓死者が発生したのである。

順調に見えた工業部門も、第2次大戦後、量と共に質が重視されるようになると、ノルマを重視する計画経済では質の問題を解決できなくなってくる。
また、重工業の偏重は軽工業の軽視をもたらし、サービス部門にはコスト意識やサービス精神がまったくなかった。そのため一般国民には劣悪な消費財と質の低いサービスしか提供されなかった。
共産党官僚は、ノルマの達成が立身出世や保身を左右するため、虚偽の数値や報告が横行した。そのために、党中央や政府は経済の実態を正確に把握できず、有効な
政策を実行することはおろか、その立案さえできなかった。
そういう体制の劣化・堕落が、1970年代以降になると、日用品や食料さえ事欠く事態を
もたらすのである。

ノルマ重視の経済は、自然環境も大きく破壊した。例えば、かつては世界第4位の面積を誇ったアラル海は、旧・ソ連による無計画な灌漑事業のため、面積が62%、水量が84%も減少、塩分濃度が6倍以上になるという完全なる「死の海」になった。
チェルノブイリ原発事故も、旧・ソ連の隠蔽体質のため、公表と対策が遅れ、結果として約16万人が移住を余儀なくされた。死者は9,000人(世界保健機関=WHO)とされるが、40,000人(ロシア科学アカデミー)という説もある。

また、情報統制社会であったため、情報工学は、軍需部門などの一部にしか導入されず、民生部門における「情報革命(IT革命)」はまったく進展しなかった。

このような数多くの問題点も、共産党官僚の強権支配と言論の封殺により批判される
ことがなく、したがって改革も常に後手に回った。

これに対し、資本主義諸国は、第2次大戦後は資本主義が抱える諸矛盾を解決する
ための社会政策や経済政策を次々に打ち出し、「弱肉強食社会」ではなく「福祉社会」を目指す動きを強める。
これは資本主義の「本丸」である米国も例外ではなかった。
また、「関税および貿易に関する一般協定(GATT)」により、国際的自由貿易体制が
保証されたため市場が大きく拡大した。そして、市場の自由化と拡大に伴ない競争が激化し、量のみならず、質の向上とコストダウンが並行して求められた。
このような条件下で、第2次大戦後の資本主義諸国の経済は大きく発展し、社会も国民も豊かになったのである(もっとも恩恵を受けたのは日本であろう)。
IT革命も、各国の垣根が低くなり、人、モノ、カネの世界的流通が急速に活発化する中で一気に進んだ。

こうして、旧・ソ連と西側先進諸国との格差は、絶望的なまでに大きくなったのである。
確かに冷戦下における「軍拡競争」も旧・ソ連にとっては負担であったけれども、その
体制そのものが劣化・堕落し、完全に時代にそぐわなくなっていたことが旧・ソ連崩壊の最大の原因なのである。

ミハイル・ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、1980年代後半からペレストロイカ(改革・再構築の意味)によって、この時代にそぐわなくなった体制を立て直そうとしたが、皮肉にもそれは、ソ連型社会主義体制の崩壊を後押しする結果になってしまった。
それは、ペレストロイカの重要な核であったグラスノスチ(情報公開)が逆作用を呼び
起こしたからである。
グラスノスチにより、1930年代の大飢饉(餓死者500万人~700万人)などの「不の
部分」が明るみに出されるようになった。また、困窮を極めていた民衆の生活とはまるで別世界のような共産党幹部の豪華絢爛な暮らしぶり、その汚職体質なども暴かれ、
国民の反共産党感情を一気に高めたからである。

明日に続く。
明日は、「なぜ社会主義(共産主義)の思想から、中国や、それ以上に残酷な北朝鮮のような非人間的社会体制が生み出されたのか?」に言及する予定です。
期待(笑)して下さい。
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※(注)
この記事は、論争をするために書いたものではありません。したがって、批判はけっこうですが、論議や、論議を促すご質問には対応いたしかねます。

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2006/07/14

共産主義はなぜ破綻したのか?(2)

今日は約束どおり、「なぜ社会主義(共産主義)の思想から、中国や、それ以上に残酷な北朝鮮のような非人間的社会体制が生み出されたのか?」に言及する。

昨日のエントリーで書いた「ソ連的社会主義体制」の崩壊をお読みいただければ、理由の半分以上は既にお解りいただけると思う。

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私は、昨日のエントリーで次のように書いた。

①共産主義社会とは、社会主義社会がさらに発展した人類の理想社会。
②搾取も抑圧も差別もない、真に自由で平等な社会。
③人間が疎外から解放され、もっとも人間らしく生きることのできる社会。
④「一人は万人のために、万人は一人のために生きる」社会。
⑤「各人はその能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」社会。
以上の社会が共産主義社会であり、その理想社会を目指す思想が共産主義である
と・・・・・・

そして、その思想が生まれた社会的、歴史的土壌にも言及した。

①あらゆる人間が「共通の理性」を持っており、世界には何らかの「根本法則」があるという思想が知識人を中心に普及し、
②キリスト教的「倫理観」が社会及び人々の規範になっている。
③そして既に資本主義が高度に発展しており、
④自由、平等、人権という価値観が社会的土壌として存在している。
⑤にもかかわらず、ユダヤ人は「自由、平等、人権」からは疎外されていた。
そういう世界で生まれた「科学に裏付けられたユートピア思想」がマルクス主義なのである
と・・・・・・

また、以下のようにも指摘した。

マルクスは、資本主義そのものは社会の生産力が高まる時代と捉えている。
その資本主義がより成熟し、拡大した生産力に資本主義の体制が耐えられなくなった時、つまり、生産力の拡大に伴なって、資本主義の抱える諸矛盾もよりいっそう深刻化して解決不能になった時に革命が起こり、社会主義に移行すると考えていた。
したがって、革命が起こる可能性があるのは、祖国ドイツか英国、あるいはフランスで
あると想定していた
と・・・・・・

つまり、ヨーロッパの後進国・ロシアで社会主義革命が起きるなんて、マルクスにとってはまったくの想定外であった。

やはり、色々な理由があったとはいえ、ロシア(ソ連)共産党やソ連型社会主義がマルクスのイメージとはかけ離れたものになってしまったのも、そのロシアの後進性による
ところが大きい。
結局、「搾取も抑圧も差別もない、真に自由で平等な社会」を目指したはずの共産主義思想が、世界で最初に実現したのは「搾取も抑圧も差別もあり、まったく不自由で不平等な社会」だった。
近代史上、これ以上の、イデオロギーとそれが実践された結果の乖離が大きい例を
私は知らない。

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中国の場合は、もっとひどい。中華人民共和国が建国した1949年の4年前までは、
中国のほぼ全土(主要部)が日本との戦場だった。 
そして、日本が1945年に敗北した後、一時的に平和が訪れたが、1946年6月には国民党と共産党との内戦(国共内戦)が再び始まる。

日本との戦争前及び戦争中の中国はというと、まったく国としての体をなしていなかった。

1911年に孫文が率いる中国革命同盟会が中心になって辛亥革命を起こし、清朝を
打倒した。革命派は中華民国の建国を宣言した。が、基盤の弱かった革命派は、いくつかの交換条件を結んだ上で、何と清朝の将軍であった袁世凱に実権を譲る。

実権を握った袁世凱は、一時は皇帝になるなど反民主的・専制的な政治を行った。そして袁世凱の死後は、中国全土に軍閥が割拠する時代となる。
孫文の後を継いだ蒋介石が率いる国民党政府も、広東(広州)を中心とする南方軍閥の一つにすぎなかった。

まさに、満州事変(1931年)のころ、酒井隆・支那駐屯軍参謀長が述べた「支那は一つの社会ではあるが国家ではない。あるいはむしろ支那は匪賊の社会であるといった
方が適評」という評価は正鵠を射ていたのである。

1926年、蒋介石は、共産党の協力を得て「国民革命軍」を組織し、相対的に豊かな
華中~華北の10省あまりを支配する北方軍閥に対する討伐戦争を起こした。いわゆる
「北伐」である。
1928年に、蒋介石が率いる「国民革命軍」は、一応は北伐を完了させ、南京を首都にする。
が、前年の1927年には早くも共産党が戦線を離脱し、「国共内戦」が始まっていた。
そして、「国共内戦」開始に伴ない、「国民革命軍」に参加していた旧・軍閥も離脱し
独立。
蒋介石と国民党が目指した中国の統一は事実上、失敗に終わった。

そして1931年には満州事変が起こる。
1937年には日中戦争(支那事変)が開始され、この戦争は1945年まで続く。国民党
政府は、戦争開始から4ヵ月後の11月には南京から奥地の重慶に政府を移し(逃亡)、中国のごく一部を支配するのみになった。

つまり近代中国の歴史は、清朝時代の後半は、日・欧・米の半植民地。清朝崩壊後は、戦乱に明け暮れ、一時も国としての体を成したことがなかったのである。
資本主義も未発達で、買弁資本家が中心だった。もちろん、民主主義の価値観など
カケラもなく、革命以前のロシアよりひどい前近代的な封建的・分立国家であったと
言ってよい。
こんな国で、いきなり社会主義革命が起こった。しかも、当時の中国共産党の指導者は「政権は銃口から生まれる」という「唯武器論者」の毛沢東だったから中国人民はたまらない。

※(注)
「買弁資本家」とは、植民地・半植民地または開発途上国で、外国の資本と結びつき、利害をともにする資本家のこと。本来は「貿易商」の意味。

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私は、毛沢東はマルクスの思想を理解していなかった(理解できなかった)と思っている。
彼は、レーニンから「暴力革命の戦略・戦術」を学び、スターリンから「共産党による独裁の手法」を学んだだけで、マルクスの思想の核心にあるのものは理解していない。
彼が理解した共産主義思想は、ソ連共産党によってゆがめられたドグマ(教理・教条)にすぎなかった。
そう断言できる。

毛沢東の「人民戦線論」や「統一戦線論」、そして「農村から都市を包囲する」という
有名な戦略も、レーニンの革命論を、資本主義が未発達で農民が社会のほとんどを
占めていた中国の実情に合わせて焼き直したものである。

毛沢東は、日中戦争末期の1945年に開催した中国共産党大会における政治報告で、「一部の人は、共産党が権力を得たのち、ロシアにならってプロレタリア独裁、一党制度を打ち立てるのではないか、と疑っている。しかし、我々の、いくつかの民主的階級の
同盟による新民主主義国家は、プロレタリア独裁の社会主義国家とは原則的に違ったものである」と述べている。

「新民主主義国家」、美しい響きを持った言葉である。
が、これはまったくのウソだった。
その「新民主主義国家」は「プロレタリア独裁の社会主義国家とは原則的に違ったものである」どころか、もっとひどい「共産党による強権的独裁国家」であった。
この手法も、ロマノフ朝を打倒するまでは社会革命党(メンシェビキ=少数派の意味だが実は多数派)や無政府主義者と共闘しながら、革命が成功すると、彼らを排除し、
ロシア共産党(ボリシェビキ=本当は少数派)による一党独裁体制を確立したレーニンのやり方にそっくりである。

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1957年、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、ソ連が15年以内に鉄鋼、石油などの
生産高の面で米国を上回るだろう、と宣言した。
当時モスクワに滞在していた毛沢東は、兄貴分であるソ連に負けじと、中国は15年
以内に英l国を追い越すだろうと語った。この発言は、世界各国共産党首脳たちの熱烈な拍手を浴び、中国国内でも盛んに宣伝された。

これに気をよくした毛沢東は、1957年に約535万トンであった中国の鉄鋼生産高を翌年には倍の1,070万トンにするよう命じた。ここから全人民製鉄・製鋼運動が展開される
ことになった。
しかし、本格的な製鉄コンビナートを作るだけの資本も時間もない。いらだった毛沢東は、産業革命以前の「土法高炉」を全国に展開し、人海戦術で鉄鋼生産を行うことを
命じた。
しかし、素人が薪をくべて作った鉄は、農機具用にすらならなかった何と、6千万人もの
労働力を投入したのに、308万トンの何の役にも立たない「牛の糞」のような鉄が作られただけに終わったのである。

鉄鋼増産と並んで、毛沢東の念願であったのが、人民公社(労・農・学・兵が結合した自治組織)による農村の共産化である。これは、パリコミューンやソ連のソビエト(労働者・兵士による評議会)を意識したものだった。
「共産主義は天国だ。人民公社はその掛け橋だ」というスローガンが、1958年以降、
中国全土に響き渡った。

人民公社は地方の共産党官僚の管理化におかれ、やがて各公社 が、毛沢東の歓心を得ようと、食糧増産の大ボラ吹き競争を始め る。

ある公社が、今まで1畝(6.7アール)あたり200斤(100k g)程度しか小麦がとれなかったのに、2千105斤もの増産に成功したとのニュースを人民日報で流した。毛沢東が
提唱した、畑に隙間なくびっしりと作物を植える「密植」により出来高が10倍にもなったというのである。
すると、他の公社も負けじと、水稲7千斤、1万斤などという数字を発表し始めた。8月には湖北省麻城県で、1畝あたり稲の生産高3万6千956斤というニュースが報道された時、人民日報は四人の子供が密植された稲穂の上に立っている写真まで掲載した。

出来高の水増し報告により、農民が上納すべき食料の量も増やされ、農民自身の取り分は大きく減らされた。こうして、農民たちの製鉄運動への駆り立てと人民公社化(農地の共有化)による効率低下、さらに上納分の大幅増加により食糧備蓄も底をつき、1960年から61年にかけて、中国全土を猛烈な飢饉が襲った。
これが、毛沢東が煽った「大躍進」政策の実態である。

その「大躍進」政策で中国人民が得たものは、308万トンの何の役にも立たない「牛の糞」のような鉄と3千万人に及ぶといわれる餓死者であった。

このような事態の深刻さは、地方からの水増しされた食糧増産報告のため党中央には届かなかった。その結果、飢饉の最中である1960年に、270万トンに及ぶ食料の強制徴発と、それを輸出に回すという信じがたい行為が実行されたのである。
270万トンの食料は、3千万人が半年間食いつなぐのに十分な量だった。

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1961年初めには、さすがの毛沢東も「大躍進」政策を続けることができなくなり、劉少奇や鄧小平などの実務派に政治運営を譲った。鉄鋼増産運動は中止され、農民の収入も働きに応じて分配されるようになった。
鄧小平が「白猫でも黒猫でもネズミをとるのが良い猫だ」という発言をしたのは、この頃だ。「ネズミをとる」とは、「国民を食わせる」という事なのである。

が、毛沢東がおとなしく黙っているはずがない。マルクスの思想など理解せず(できず)、とにかくソ連にならって中国を東アジアの大国に、いずれは世界の強国にしたいと念願していた彼は、1965年に「文化大革命(文革)」を発動する。
そして、尊敬していたスターリンと同様に、個人崇拝・神格化に成功した(これは、昨日も述べたが、マルクスがもっとも忌避するものである)。

事情をよく知らないそのころの私は、これは「労働者(プロレタリア)独裁」を進めるための「永続革命」の一環であるとして最初は支持した。
が、実態は、林彪を「軍の足場」に江青や張春橋らの「四人組」を「政治の足場」にして実権派とされた当時の中共指導部である劉少奇や鄧小平らを追い落とすための権力闘争であった。

この混乱は、約10年間続き、内戦や虐殺及び強制労働などで、6百万人とも3千万人とも、果ては5千万人が犠牲になったとも言われている。
文革以降の歴代政権が、これに触れることを「タブー」にしているため、正確なところはよく解らないのが実情であるが、数千万人が犠牲になったのは間違いないようだ。

※(注)
「四人組」とは、1960年代半ばから約10年間にわたり、毛沢東が発動したプロレタリア文化大革命(文革)によって浮上した江青(中央文革小組副組長、毛沢東夫人)、張春橋(副首相、政治局常務委員)、姚文元(政治局委員)、王洪文(党副主席)の新権力グループを指す。文革では様々なグループが登場したが、林彪グループと並ぶ一大勢力を形成、主に上海を拠点にして活動した。

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1970年代半ばごろ、大躍進の失敗とそれに続く文革による大混乱で、中国は疲弊し、まさに存亡の機にあった。これを救ったのが鄧小平である。毛沢東亡き後、四人組
を打倒し実権を握った鄧小平は、「永続革命」路線から「改革開放」路線へとコペルニクス的転換を図った。

1978年12月の11期3中全会において決定されたこの路線の本質は、「白猫でも黒猫でもネズミをとるのが良い猫だ」という鄧小平の有名な言葉が総てを言い表している。
この言葉は、「資本主義でも社会主義でも、どちらでもよい。要は、中国が豊かになり、民衆がメシを食えるようになるのが先決だ」と読み替えることができる。

この時点で中国は、政治的制度としての共産主義を維持ししつも、イデオロギーとしての共産主義は捨て去り、経済成長至上主義に転換したといってよい。
実際のところ、1983年から88年の平均成長率は11.4%で、驚くべき急成長を遂げた。
ところがこの「改革開放」路線の延長線上に、1989年6月「天安門事件」が発生する。
中国共産党指導部は、この「事件」を戦車を動員して強権的に制圧した。

この人民の党と、その指図を受けた人民の軍が人民を虐殺した事件は、中国社会に
動揺をもたらした。
「強権的制圧」を指示した者にお咎めはなく、逆に、「改革開放」の旗手であり、「強権的制圧」に反対した趙紫陽・総書記が解任されたからである。加えて、人権に敏感な欧米諸国が中国に対して経済制裁を実行した。
その結果、「改革開放」の雲行きが怪しくなってしまった。

これに対して鄧小平は、1992年1~2月、広東省や上海市などの南方視察を行い、そこで華南地区の発展ぶりを称え、「改革開放は100年流行る」と言明、「てん足女のようなヨチヨチ歩きではダメだ。改革開放をさらに加速させなければならない」(南巡講話)と
全国に檄を飛ばしたのである。
元々、鄧小平の「改革開放」路線は、「先に豊かになれるものから豊かになれ」と、一時的な経済格差を容認する「先富論」であり「先に豊かになった地区(沿海部、都市部)が後発地区(内陸部、農村部)を支援すればよい」というものだった。
したがって、この鄧小平の「激」を受けた地方の党幹部たちは、我先にと、こぞって市場経済へ向けて走り出したのである。

※(注)
「天安門事件」とは、中国北京の天安門広場において起きた民衆の抗議運動。
文化大革命が否定される中、1981年に中国共産党主席に就任した胡耀邦は、思想解放を掲げ、改革を推進したが、反発を受け、1987年に失脚した。
その後、1989年4月に死去した胡耀邦の追悼行事が天安門広場で行われ、これを非難する当局に対して、学生や市民の抗議運動が広がっていった。
1989年6月4日、天安門広場において、民主化を求める学生や市民に対して人民解放軍が武力弾圧する事態となった。

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この鄧小平が唱えた「改革開放」には致命的欠点が、いくつかあった。 
その一つは、社会が市場経済に向けて走り出したにもかかわらず、もっとも重要な
「そのルール」を定めなかったことである。
また、市場経済化に不可欠な「政治の民主化」を先送り(弾圧)したために、下部構造(経済)は資本主義(市場経済)なのに、上部構造(政治や国家)は共産党による一党独裁という、極めてゆがんだ形の国家・社会を生み出してしまった。

つまり、マルクスの思想に基づいているはずの国家が、マルクスの「下部構造としての経済が政治や国家さらには人間意識といった上部構造を決定する」という理論とは逆になってしまったのである。
そして、共産主義から市場経済に転換したにもかかわらず、共産主義イデオロギーに
取って代わる社会的規範作りを怠った。

以上をまとめてみる。

①市場経済にルールがない。
②共産党による一党独裁のため、党官僚の恣意的判断でどうにでもできる。
③民主化を弾圧したため、言論の自由がまったくない。
④市場経済化によって共産主義イデオロギーが「規範」としての機能を喪失した。
⑤共産主義イデオロギーに代わる政治的・社会的「規範」が作れなかった。

これらに次のことが加わる。

①宗教を弾圧してきたために、宗教的道徳心や倫理観が社会から欠如している。
②社会に共通する価値観が、「カネ」と「モノ」しかなくなった。
  (まさに、下部構造としての資本主義が人間意識だけは決定したのである)
③民主主義の経験がまったくないため、社会全体に「人権」というものの認識がない。
④歴史的に「人の命は紙よりも軽く、欲望は底なし沼より深い」という国民気質がある。

その結果が以下のような社会を生み出したのである。

①業者と結託して当局(地方の党・政府)が、涙ガネで農民の土地を取り上げる。
  (失地農民は全国で4千万人以上。毎年200万人以上のペースで増加中)
②農耕が不可能になるほどの工場による汚染が頻発する。
③業者と当局が結託して石炭の違法採掘を行うため、人身事故が頻発する。
  (2005年の労災事故は69万1,057件で労災死者は11万9,827人)
④国民の3分の2(66%)が無保険な上、医療費が高額なため医者にかかれない。
⑤外貨準備高世界一だが、1日の収入1ドル未満の貧困人口も1億7千3百万人いる。
⑥警察官が住民(特に出稼ぎ者=民工)に対して恐喝を平然と行う。
  (1億人を超える民工は都市戸籍がないので人間扱いされない)
⑦裁判官までが賄賂次第なので、不公平な裁判がまかり通る。
⑧医療関係者まで絡んだ誘拐・人身売買が跡を絶たない。
  (人身売買は、摘発されただけでも2001~03年の3年間で2万360件、4万2,215人)
⑨模倣品の市場総額は1,600億~2,000億元(2兆2,400億~2兆8,000億円。
  (2001年・国務院推計)
⑩密輸品は6年間で9万件以上、2兆6,000億円(1998~03年摘発分)。
⑪党や政府の幹部が、収賄や公金横領を平然と行う。

書き始めると切がないので以上で止めるが、それにしても凄まじい社会である。
人間の「真の自由と平等」を目指す思想に基づいて作り上げた国が、もっとも不自由で不平等な社会になる。
その原因は、まず第一にマルクスの思想にある。第二にレーニンによってゆがめられたロシア革命にある。そして、中国の場合は、マルクスの思想が持つ欠陥+レーニンと
スターリンによる歪曲、そこに中国的特殊事情がプラスされた。

毛沢東時代は、共産主義というドグマが何千万人もの人民の命を奪った。毛沢東の後は、共産党による独裁体制が、人民を抑圧し搾取することを合目的化した化け物のようなシステムに進化した。
要は、そういうことではないか。

ソ連は、その体制の劣化に耐え切れず崩壊したが、それを後押ししたのがミハイル・
ゴルバチョフ書記長による情報公開(グラスノスチ)であった。
中共は今、言論統制にやっきになっている。ソ連の二の舞いを恐れているのであろう。
が、今の、下部構造が「市場経済」で上部構造は「共産党独裁」という歴史上例のない体制が長続きするとは思えない。

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北朝鮮に関して書く時間がなくなってしまったので、簡潔に言及する。

マルクスの思想をゆがめた形で現実化したのがロシア革命(レーニン及び後継者のスターリン)だった。そのロシア(ソ連)の共産主義を模倣し、さらに中国的にアレンジしたのが毛沢東である。
なぜなら、革命当時の中国はロシアよりさらに遅れており、しかもアジア的特殊性もあったので、アレンジするしかなかったのである。

北朝鮮の場合は、ロシアより遅れていた中国より、さらに遅れていた。中世から近代にかけて政治的・文化的・経済的に完全に独立したことが一度もない。
近代までは一貫して中国の属国であったし、20世紀に入ってからは日本の植民地になった。しかも、植民地時代の日本が残した遺産のかなりの部分は朝鮮戦争で喪失している。
それでも1960年代前半までは、日本が残した遺産のおかげで韓国よりは経済的には上だった。が、それもソ連や毛沢東時代の中国と同じで、時代の変化に体制がついて行けず、急速に劣化・陳腐化していくのである。

また、北朝鮮を赤化した当時の朝鮮労働党(共産党)の幹部は、首領の金日成を
始め、モスクワに留学していない。この点も、毛沢東を除いては、幹部の多くがモスクワ留学組だった中国共産党との大きな違いである。
要するに、朝鮮労働党(共産党)の幹部は、金日成を始め、マルクスの思想の核心は
おろか、ソ連型の共産主義思想(スターリン主義)さえ満足に理解していなかったのではないか!

だから、一党独裁、計画経済、個人崇拝という、スターリンや毛沢東がやったことの
外形だけを真似た。中身(思想)はまったくなし。
思想がまったくないから、スターリンも毛沢東も考えなかった「権力の世襲」を実行し、
チュチェ思想などという、訳のわからない教義を打ち立てる。
北朝鮮は、マルクス主義ともスターリン主義とも毛沢東主義とも無縁な、中世の封建的・半奴隷制国家であると理解してもらいたい。

北朝鮮については、チュチェ思想も含めて、改めて言及したい。

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※データ等で、出所が明らかにされていないものは、すべて過去のエントリーから引用したものです。

【特記】
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2006/07/13

共産主義はなぜ破綻したのか?(1)

今日(11日)は、午後2時半にエントリーを書き上げ、ココログにアップしようとしたところ、何とメンテナンス中で不可。
メンテナンスは13日(木)の午後2時まで続くというからガッカリ、というかウンザリ。
皆さんにも、コメントやTBでご迷惑をおかけすることになると思うので、この場を借りて
お詫び申し上げる。

ただ、ガッカリ&ウンザリしていても仕方がないので、今日から明日(12日)にかけて、普段は時間がなくて書くことがなかなかできないテーマのエントリーを書くことにする。

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皆さんの中には、なぜソ連のような社会主義(共産主義)体制が破綻したのだろう?
なぜ社会主義(共産主義)の思想から、中国や、それ以上に残酷な北朝鮮のような
非人間的社会体制が生み出されたのだろう?と思われている方もおられると思う。
今回は、そのことに言及したい。

このことを明らかにするには、20世紀の世界に最大の影響を及ぼした共産主義思想とは何だったのか、人間とは何なのかまで踏み込まざるをえない。
したがって、限られた時間とスペースの中では書きつくすことは不可能に近い。が、できる限りのエネルギーと、持ちうる限りの知識、経験を費やしてチャレンジしてみようと
思う。

長いエントリーになるし、中には難解な言葉も出てくるので、途中で投げ出したくなる
かもしれないが、世界や人間を知るうえで必ず参考になると思うので、できれば読み
通してほしい。

なお、ここでは、社会主義という言葉は共産主義に通じると理解してもらいたい。なぜなら西欧では、社会主義というと、一般的に社会民主主義(社民主義)のことを指すからだ。
また、よくマルクス主義とも言われるが、それは、ドイツ人のカール・マルクスが共産主義思想の始祖であるためで、共産主義と同義である。

これから述べることは、少々むつかしいかも知れないが、高校のころの世界史を復習するつもりで読んでほしい。

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歴史上、最初に社会主義革命を成功させたロシアのウジミール・レーニンによれば、
マルクス主義の基本的源泉はドイツの哲学、イギリスの経済学、フランスの社会主義の三つとされる。(「マルクス主義の三つの源泉」)
ただ、この捉え方は、「ステレオタイプすぎる」という批判も強く、実際のところ、マルクスが洞察した内容はもっと奥行きが深いと思う。
が、だからと言って、レーニンの捉え方が間違っているわけではない。

マルクスが、
①ゲオルク・ヘーゲルやルートヴィヒ・フォイエルバッハなどのドイツ観念論、
②アダム・スミスやデヴィッド・リカード、ロバート・マルサスなどのイギリス古典学派
経済学、
③サン・シモンやシャルル・フーリエ、ロバート・オーエンなどの、いわゆる「空想的社会主義」
を批判的に摂取し、「科学的社会主義」へと発展させたことは事実である。
「科学的社会主義」を具体的に言うと、「弁証法的唯物論」と「史的唯物論」と「資本論」である。

「弁証法的唯物論」や「史的唯物論」などと言うと、文字を見ただけで「嫌になりそう」という声が聞こえてきそうなので、今回はそういうところまでは、できるだけ言及しないようにしたい。

ところで、レーニンの唱えた「マルクス主義の三つの源泉」が、なぜ「ステレオタイプ」と批判されるのか?
それは、マルクス自身及びマルクスが自らの思想をまとめ上げていった当時の時代
背景に対する考察が不足しているからである。
もっとも、マルクスが哲学者であり、経済学者であり、そして革命家であったのに対し、レーニンは純粋な革命家であったから、理解が単純化されたのは必然であったのかもしれない。

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マルクスはユダヤ人である。マルクスが生きた1818年~1883年のころは、まだゲットー(都市の中でユダヤ人が強制的に住まわされた居住区)が存在していた時代である。
特に、マルクスの祖国・ドイツでのユダヤ人差別はひどいものがあった。

そのような時代にあって、父はユダヤ教からキリスト教(プロテスタント)に改宗した。
職業は弁護士。母はオランダ生れのユダヤ人だが、父よりユダヤ性向が強く、日常生活ではイディッシュ語(ユダヤ語)を話していた。マルクス自身も6歳の時、プロテスタントとして洗礼を受けている。
マルクスの思想を理解する上で、彼の出自が被差別民族であったという事実は見逃せない。

また若かりし日には、啓蒙思想にも大きな影響を受けている。
啓蒙思想は、あらゆる人間が「共通の理性」を持っているとの「肯定的命題」を立て、
世界に何らかの「根本法則」があり、それは「理性」によって認知可能であるとする考え方である。方法論としては自然科学的方法を重視した。
マルクスは高校生時代に、教師を通じて、フランスの啓蒙思想家・ジャン-ジャック・
ルソーが唱えた社会契約説の影響を受けた。ルソーの考えは、「社会や国家は自由で平等な諸個人の契約によって成立する。主権は人民にあり、政治体制は主体の意志に従う」というものである。
この啓蒙思想は、フランス大革命にも大きな影響を与えた。

私は、
①この啓蒙思想の、あらゆる人間が「共通の理性」を持っており、世界に何らかの「根本法則」が存在するという考え方、
②特に「主権は人民にあり、政治体制は主体の意志に従う」というルソーの主張、
③そしてキリスト教(ユダヤ教)の「唯一神信仰(神=真理は一つ)」と、
④出自が被差別民族(ユダヤ人)であるという潜在意識が、
マルクスの思想の「根っこ」にあると思っている。

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マルクスにとって、というか、マルクスの生きた時代においては、ヨーロッパと北米が
「世界」であった。それ以外は、「未開の地」か「未知の地」であり、マルクスの「世界」には、アラブもインドも中国も存在しない。
ここでいう「アラブもインドも中国も存在しない」というのは、「知識」としてではなく、
「認識」としての意味である。

ヨーロッパ(英国)が清(中国)を最初に侵略した阿片戦争は1840年、ヨーロッパ諸国がアラブ(イスラム)世界の覇権をめぐって戦ったクリミア戦争が1853年。ムガール帝国
(インド)が完全に英国の植民地になったのは1858年。
マルクスが生きた時代を考えれば、アラブやインド及び中国は、マルクス的世界においては「外界の存在」にすぎず、アフリカや南米は「未開の地」であったと言ってもよい。

つまり、「白人」及び「キリスト教(ユダヤ教)文化圏」がマルクスの「世界」なのである。
その「世界」には既に、資本主義が高度に発展した国々が存在し、自由や平等、人権といった民主主義の基本的価値観が社会的土壌としてあった。

アメリカ独立革命やフランス大革命が起きたのは、マルクスが生まれるよりずっと前だった。
アメリカ独立革命(1775~1783年)は、独立宣言で「全ての人間は平等に造られている」と謳い「(自然権としての)生命、自由、幸福を追求する権利」を掲げた。
フランス大革命も、人権宣言で「自由の保障・人民主権・法の下の平等」という近代
民主主